神の書 142

禁転載

記憶がないということが何よりも異常なことだった。
けれど彼女は長くそれに気づけずにいたのだ、「記憶がなかったから」というまさにそれだけの理由で。



ファルサスに来てからの三週間は、キスクでの日々のように常に何かに追われる慌しいものではなかったが、それでも充分早く感じられた。
雫は二冊目の絵本の原稿を手に、すっかり見慣れた長い廊下を歩いていく。
元の世界にいた頃、ファンタジー小説など全然読んでいなかった彼女は、いわゆる異世界を旅する物語の終わりがどうなっているのか、ほとんど知らない。
こうしている間にも元の世界では同じだけの時間が過ぎているのか、それともまったく時は経っていないのか、或いは浦島太郎のように何十年も過ぎ去ってしまっているのか、見当もつかなかった。
「失踪宣告って七年間だっけ……あと六年か」
もし時間の流れる速度や一日の長さなどが二つの世界で同じであるなら、雫はもうすぐこの世界に来て一年ということになる。
一年間は決して短くはない。
彼女は家族がまだ自分のことを探してくれているのか、それとも諦めかけてしまっているのか、どちらにせよ申し訳なさを感じて仕方なかった。
今ではまるで夢のように遠く感じる家族。彼らのことを思う度に、昏い濁りを帯びた不安が意識の中を流れていく。
最近はかつての自分―― 姉妹にコンプレックスを持ち、自身がどういう人間か分からないで悩んでいた自分も、ひどく昔のことのように思えていた。
大学入学を期に、そしてこの世界に来てしまった時からずっと、なりたいようになろうとは思っていたのだ。
けれど実際は、追っていくような追われるような日々の中で、我知らず「自分」というものが出来上がっていっただけだ。
知り合いのほぼ全てから「頑固」と言われるようになってしまった自分を思い返し、雫は微苦笑する。
「私こんなんなっちゃったよ、お姉ちゃん」
届くはずもない呼びかけは、感傷に縁取られ白い廊下に落ちていった。その上を彼女は歩き、踏みしめていく。
それでも……帰る方法の分からぬ今でも、自分は充分に恵まれた、幸福な人間なのだろうと深く実感しながら。



レラと再び会ったのは、二冊目の絵本の試作品を忙しそうな文官に代わって自ら研究室に届けに行った時のことだ。
子供たちを集めているファルサス城の研究室は、一見して託児所のような様相を呈していた。柔らかい敷物が敷かれた上におもちゃや教材が広がっている。
そこに転がって遊んでいた子供たちを集めて、何やら聞き取りをしていたらしきレラは雫をみとめると立ち上がった。
「こんにちは。どうかなさったんですか?」
「絵本の試作品を持ってきたんです」
雫が紙に包まれたままの本を差し出すと、彼女はそれを受け取りながら「お茶でも如何ですか」と微笑む。
特に断る理由もなかったので、雫は子供たちが遊ぶすぐ横でレラと休憩を取ることになった。白い陶器のカップを両手で支えながら広い部屋を見回す。
ここでどういう実験や研究がされているのか。少し聞いてみたい気もしたが、聞いて理解できるのか分からない。
雫がそんなことを迷いながらも他愛もない雑談に触れていると、レラの方から実験についての話題を切り出してきた。
「まだ目ぼしい成果はほとんど出ていなくて……それにエリクさん……あなたのお知り合いでしたっけ、あの方が新しい意見を出されたんです。
 生得言語と魂は関係ないんじゃないかって。それ以来仲間内でも意見が割れてしまって、今大変なんですよ」
「ああ」
エリクに論文を預けた日から二週間程が経っているが、彼は既に魂の欠損について纏めたものを発表していたらしい。
レラは少し困惑したような目で机の端に置かれていた書類を眺めた。
「魂が関係ないのなら何だと言うのかしら。そんなの、事態を混乱させるだけの暴論だと思うのだけれど」
「でも、エリクは間違ってませんよ」
―――― 生得言語は魂に依拠するものではない。
それをもっともよく知っている雫が間髪入れず断言したことに、レラは紅い唇をぽかんと開いてしまった。
雫の反論がよっぽど意外だったのだろう。しかし彼女はすぐに意識した笑みを形作る。
「けれど、あなたは魔法士ではないでしょう? ならやはりこういうことってよく分からないのではないのかしら。
 あの方が出された実例についても、たまたま魂の欠損の例に言語障害が出ていなかっただけなのかもしれないわ」
「その可能性もありますけど、レラさんが偶然言語障害の症状が出てないって可能性を支持されるのなら、
 魂と言語が無関係だって可能性もまた同様に検討されるべきじゃないでしょうか。
 はっきり証明できずに可能性だけが存在するのは、どちらも同じですよね」
最近でこそ、キスク女王の側近であったとしてその内実を知る人間からは一目置かれている雫だが、外見だけは相変わらず少女のような姿なのだ。
そんな女が冷静な指摘をしてきたことにレラは驚いたらしい。
返す言葉に迷ったのか思いつかなかったのか、彼女はたっぷり十秒ほど唖然として雫を見つめていたが、雫が苦笑すると思い出したかのように慌ててお茶に口をつけた。視線を逸らして子供たちを眺めながら話題を変える。
「そう言えば、こないだの絵本面白かったです。少し雰囲気が変わっていて……不死の蛙とかどうやって思いつかれたの?」
「ああ。あれ実話ですよ。メディアルのお話です」
一冊目に作った絵本は既に量産のため原本は職人へと渡されており、この場にはない。
けれど試作品を子供たちに見せた際にレラは自分も読んでいたらしく、「実話」だと聞いて「知らなかった」と相槌を打った。
「最後は少し書きかえましたけど。本当は、王様は蛙を追い出したんじゃなくて飲み込んじゃったんですよ。
 そしてその後、園遊会の席で湖に浮かべた船から落ちて溺れ死んだ。でもそんなことはさすがに絵本には書けませんから」
「それは……凄いわ。よく勉強なさってるのね。どこでお知りになったの?」
「何処で?」
おかしなことを聞く、と思った。
そんなことに「何処で」も何もない。それは、彼女の中にある知識の一つなのだ。
しかしそれでも雫は、問われたことに違和感を覚えない違和感を嗅ぎ取って首を傾いだ。指先で目元を押さえる。
何故、そんなことを知っているのか。
今までもこういうことが何度かあったのだ。
だがそれは、探ろうとしてもたどり着けない。意識できない。
まるでこの世界にとって、言語の存在が当たり前であるかのように。



「どうなさいました?」
レラの声に、雫はハッと我に返る。どれくらいの時間自失していたのだろう。お茶のカップは空になっていた。
彼女は心配そうなレラを前に慌てて立ち上がる。
「す、すみません。私もう帰りますね」
「ああ。お引止めしてごめんなさい。絵本、ありがとうございました」
レラは廊下まで雫を見送りに出てくれた。頭を下げる雫に、自嘲を含んだ微笑を見せる。
「あの……先程はごめんなさい。私、きっと疲れているんだわ。実験もちっとも思うような結果が出せなくて……」
「分かります。謝られるようなことじゃないので、気になさらないで下さい」
雫もリオと暮らしていた時、ままならなさに苛立ちと不安が溢れ出しそうだったのだ。
それに比べれば余程レラは落ち着いていて、大人の対応をしてくれている。雫は自分こそ度を過ぎた態度だったと反省した。
実験調査に取り組んでいる魔法士たちには、彼らにしか分からない苦労があるのだろう。望む結果が出ないのなら尚更に。その気持ちはよく分かる。
去り際、レラは焦燥を窺わせる目を伏せてこう言った。
「本当は原因が魂であってもそうでなくてもいいの。ただ少しでも早くこの病がなくなればいいなって。
 ―――― 私の姉、今子供を身篭っているの」

人々には、それぞれの思いが、望みがある。
時に否応なしにぶつかりあうそれらを、けれど皆は何とか先へと繋いでいこうとするのだ。
雫はすっきりしない思いと同時に不思議な安堵を抱え上げて、元来た道を帰っていく。
けれど茫洋とした願いを抱く彼女はその晩、もっと別種のはっきりとした戦慄に出くわすことになったのだった。



雫から渡された厚い論文の第一部は、アイテア神と神妃ルーディアの出会いに関する神話考察から始まっていた。
広い森の奥深くにある村を訪ねた神が助けを求めるも村人たちに無視され、妃となるルーディアとのみ言葉を交わしたという物語。
一般的には、夫婦の相互理解の重要さ、もしくは神妃の真摯や特殊性を表すと言われるこの神話を、だがこの論文を書いたアイテア信徒は考察の結果 「村人たちは神を無視したわけではなく、神の言葉を聞いても理解できなかったのではないか」と結論づけていた。
エリクが雫の話す英語やドイツ語を理解できないように、村人たちも神の言葉を何だか意味の分からぬものとしてしか聞き取れなかった。
そんな中、若かったルーディアだけがアイテアに辛抱強く付き合い、ようやく意思の疎通が出来たいう結果こそが、この神話の真実ではないかと。
「つまり、神話の時代にはまだ生得言語が統一されてなかった……ということか」
夕食を取り、自室に戻ったエリクは論文を広げながら眉を顰める。
それは彼が以前からおかしいと思っていることと、半ば噛み合うような仮説だったのだ。
―――― この大陸には暗黒時代の始まりから更に百年ほど遡った時点より前の記録は、何故かまったく文章として残っていない。
何せ古い時代の資料である。
それらが散逸してしまったのだとしても別に不思議ではないが、書物や文書の存在自体伝わっていないのはさすがにおかしいと彼は思っていたのだ。
大陸は広く、特に当時は多くの小国が乱立しており、統一からは程遠い状態だった。
なのにそれらの全てがどういうわけか、足並みを揃えたかのように文書を残していない。国になってなかったような小さな集落でさえも。
はたしてこれらは一体、何を意味しているのか。

考えられるのは、意図的な処分が行われたという可能性。
だが特定の都合の悪い記述だけを処分するならともかく、大陸中に渡って何者かが文書を処分したのだとしたらそれは何の為なのだろう。
今までずっと、その理由が分からなかった。だからエリクはこの考えを頭の中にのみに留めて誰にも話したことがなかったのだ。
しかしそこに、この論文の仮説が加わるのなら。
「言語が統一されていなかったことを隠したかったから……文書を処分したのか?」
もしそうだとしたら、大陸の初期における伝承が口承しか存在しないことも頷ける。
現在、存在が記録されている文書や現存している書物は皆、共通言語で書かれたものなのだ。そしてそれ以前のものは消し去られ口承だけが許された。
結果として人々は「生得言語が全ての人間の中で統一されている」ことを当然と思うようになる。
伝わる言語が一つしかないのなら、それが本来は分かれていたことなど疑いもしなくなるだろう。
「しかしこれは……」
エリクは苦い顔で前髪をかき上げた。
この仮説が正しいとすれば、実際生得言語が今の形になるよう関わった力は、尋常ではないということになる。
それは、人々の生得言語を統一させながら同時にそれまでの言語の痕跡を消したのだ。
控えめに見積もってもこれは到底、人間が己の力で出来るようなことではない。この論文が言うようにまさしく神の力の領域だ。
問題の途方もない大きさに彼はしばし思考を漂わせた。気を取り直すと、次の一頁を読もうと論文に手をかける。

部屋の扉が叩かれたのは、そんな時のことだ。
夜更けと言う程でもないが、仕事をしている人間は一部を除いてほとんど残っていないような時間。エリクは軽く「いるよ」と声をかけた。
扉の向こうからは小さな声が返ってくる。
「エリク、ちょっといいですか……?」
「君か。どうしたの?」
鍵を開けてやると、暗い廊下には背の低い女が立っていた。こんな格好で違う棟まで来たのか、夜着姿の雫は蒼ざめて男を見上げる。
「お、お願いがあるんですけど」
「何?」
「今夜一晩……私と一緒にいてくれませんか?」
微かに震える声。同様に細い肩が震えているのに気づいて男は顔を顰める。
そのままエリクは数秒間沈黙すると、「何で?」と率直に聞き返したのだった。