神の書 143

禁転載

ファルサスは一年中温暖な国ではあるが、それでも季節によっては夜は充分肌寒い。
そんな中夜着一枚で走ってきたと思われる彼女は、けれど寒さだけではない震えを纏っていた。黒い瞳が夜を写し込んでエリクを見上げる。
「わ、私、記憶がないんです。でも、寝てるはずなのに、メアが起きてたって、本読んでたんだって……」
「ちょっと待って。どうしたの」
雫は平素とはまったく異なる様子で、ガタガタと震えながら手を伸ばした。エリクはその手を取ると、彼女の肩を叩いて部屋の中へと入れる。
上着を羽織らせ椅子を勧めると、彼は改めて雫に向き直った。
「落ち着いて。何があった?」
子供に言い聞かせるようにゆっくりと問い直す。強くはないが聞きなれた声に、彼女は幾分冷静になったようだった。表情に理性が戻ってくる。

「それ」がいつから始まっていたのか、雫は知らない。分からない。
ただ異常が判明したのはファルサスに来てからだった。
ファルサスの部屋でメアと生活し始めてから三週間。
これまでにも雫は何度か「夜更かしはやめてください」と注意されていたのだが、そんなつもりはまったくなかった。
けれども何度も言われる上、その心遣いが嬉しかったので、最近は風呂から上がってすぐ寝るようにしていたのだ。
しかし今日、ふとしたことでまた「夜更かし」の話になった。
いつものように体を案じて注意してくる使い魔に、雫が苦笑して「最近はすぐに寝てる」と言ったところ、だがメアは予想だにしない苦言を返してきたのだ。
―――― 「マスターはいつも一旦お休みになられた後、また起きられて何時間も本を読まれてらっしゃるではないですか」と。

「君にはその、本を読んでいる時の記憶がないの?」
事情を飲み込んだエリクが問うと、雫は黙って頷く。
「覚えてないんです。ずっと寝てると思ってましたから……。
 でもメアが話かけたりすると、その私は普段の私とまったく変わりない受け答えをするらしいんです。
 だから彼女も何がおかしいのか分からないらしくて……」
それで雫は、エリクのところに「一緒にいてください」と頼みに来たのだ。
彼ならばまるで夢遊病のような雫の行動について何か原因が分かるのではないかと期待して。

すぐには何とも判断できない話に、エリクはしばらく考え込んだ。
勿論単なる夢遊病という可能性もあるが、それにしては普段通りの受け答えをするという点がおかしい。
ならば考えられるのは何かしらの精神魔法をかけられたという可能性だろうか。彼は右耳の耳飾に触れてその感触を探った。
「メアは君の部屋?」
「はい。ちょっとエリクに相談してくるからって出てきました」
「分かった。じゃあ僕も君の部屋に行く」
毎晩のように雫が記憶にない行動をしているというのなら、実際に見てみるのが一番手っ取り早い。
エリクが机の上を片付けながら立ち上がると、彼女は目に見えてほっとした顔になった。その額を軽く叩いて彼は注意する。
「あと、こういうことがあった時は君が来るんじゃなくてメアに呼びに来させて。夜一人で出歩かないこと」
「う……。でも夜にメアを出歩かせるのは何か不安なんです。だったらさっと走った方がいいかな、と」
「君よりメアのが強いよ」
雫にはメアが外見どおりの小鳥や少女にでも見えているのだろうか。
男が呆れ顔で身も蓋もない事実を指摘すると、彼女はさすがに項垂れて「すみません」と頭を下げたのだった。

主人二人が戻ってきたことに、困惑して待っていたメアはほっとしたようだった。
彼女はお茶を出してエリクを迎えると、寝台に入った雫の枕元に座る。
「申し訳ありません、マスター。今まで気づきませんで……」
「そんなことないよ」
普段通りの受け答えをしていたのなら、他人にはその異常さが分からないだろう。
仰臥し天井を見上げる雫の額に男は手を触れさせた。
「いい? 眠らせるよ?」
「お願いします」
穏やかな詠唱の声と共に力が注がれる。瞼が重くなり意識が沈みこんでいく。
そうして規則的な寝息を立て始めた雫がメアの言う通り再び目を覚ましたのは、エリクがお茶を飲み始めて十分程経った時のことだった。

小さな手が前髪をかきあげる。
彼女はそのまま天井を見つめた後、ゆっくりと体を起こした。自分の一挙一動を注視するエリクとメアを視界に入れる。
「あれ? どうしたんですか?」
いつもと変わらぬ表情、変わらぬ口調での問い。メアはどう判断すればいいのか困り果てた顔になってしまった。
だがエリクはお茶を一口嚥下すると、自らも普段通りに返す。
「どうもしないよ。遊びに来てるだけ」
「はぁ。吃驚しました」
「ごめん。僕は本読んでるからいつも通りにしてていいよ」
彼が英和辞書を捲り始めるのを見ると、雫は首を傾げた。寝台を下りて上着を羽織り、自分は本棚から別の本を取り出す。
表紙に何も書かれていない紺色の本は、エリクが知る限り雫が元の世界から持ってきた本のうちのどれでもなかった。
彼女は寝台に座り、その本を開き始める。
栞も挟んでいないのに何処まで読んだかすぐ分かるらしく、雫は迷いなく中程の頁を指で探り当てると視線を落とした。
エリクは辞書から顔を上げて、その様をじっと観察する。
定期的に聞こえる紙の動く音。
元の世界の本でないにもかかわらず、詰まることなく厚い本を読んでいく雫は、少なくとも彼女以外の別の存在には見えなかった。
彼はしばらく様子を見ていたが、やがて指で軽く机を叩く。
「雫」
「はい?」
「何を読んでるの?」
「歴史の本です」
「読めるの?」
「はい」
彼女は何故そのようなことを聞くのか、と怪訝そうな顔になった。本を閉じてエリクの前に来ようとしたのを、彼は手で留める。
「そのままでいて。……その本って何処で手に入れたの?」
「さぁ、覚えていません。いつの間にか持っていましたから」
「キスクに行く前はなかったよ」
「そうでしたっけ」
雫はしきりに首を傾げる。それはまるで頭の中に入り込んで出てこない異物をカラカラと動かしているようだった。
眠る前と同じ不安げな瞳が彼を見返す。
「その本には何が書いてあるの? 今は何処を読んでる?」
「今は、六十年前ファルサスで起きた廃王の乱心について読んでいます」
「ディスラルを殺したのは誰だと書いてある?」
「『あれ』と。それだけしか書いてありません」
これは、決定的だ。
エリクは深く息をついた。
現在表に出ている記録では全て、ディスラルを殺害したのは弟のロディウスだということになっている。
だが王家の封印資料に書かれた真実はそれとは異なり、圧倒的な剣の腕で大虐殺を起こした狂王を殺したのは、名前を記されていない直系の男なのだ。
そしてその男はおそらく「この世界で生まれた対抗呪具」の使い手だった。
王族と、封印資料を整理したエリクだけしか知るはずもない事実。それを記した本があるということは、一つの結論しか導かないだろう。
つまり―――― 秘された歴史を記した本とは、一冊ではなかったのだ。

少し考えてみれば分かることだ。
大陸の歴史は千年を軽く越える。その秘された部分まで一冊の本に収めることなど、どんなに厚い本でも出来るはずがない。
探していた紅い本だけではなく、最初から本は何冊かあったのだろう。
エリクは今までその可能性を疑ってみなかったことに舌打ちしたくなった。
外部者の呪具かもしれない本。
異世界に帰る鍵として探していたそれは、けれど今、雫にどんな影響を与えているというのか。
彼女は本を膝の上に支えたまま虚ろな視線を彷徨わせた。
「エリク、最近私、怖いんです」
「怖い? 何故?」
「知らないはずのことを知っているから。でも、どうやって知ったのか私は覚えていないんです。私は、この本のことを思い出せないから」
人格が分かれているようには見えない。
先程部屋に来た彼女も、今の彼女も、同じ「雫」に見える。
そして彼女自身、不安を訴える言葉の中でも、自分の区別をつけているようには聞こえなかった。エリクは思考を落ち着かせながら確認する。
「でも今は覚えている」
「今は、そうです」
「君はその本に操作されてる?」
「操作……いえ、違うと思います。そんなことは望まれていないんです」
「なら何を望まれている?」
「記録と保持を」
深く吐き出す息と共に投げ出された答は、雫を刹那疲れ果てた老婆のように見せた。
だがそれも彼女が顔を上げたことにより掻き消える。
初めて暗い図書館で会った時と同じ、寄る辺ない瞳が彼を捉えた。
「エリク、怖い」
「うん」
伸ばされた両腕。
それに応えて男は立ち上がると、彼女を腕の中に抱き取る。震える背中をそっと叩いた。

いつから彼女は怯えていたのだろう。
昼にはあるはずもない知識を不審に思い、夜は得体の知れない本の支配下に置かれる。
そんな二重の生活を彼女はずっと続けてきていたのだ。記憶がない為、誰にも、自分にさえ気づかれることなく。
泣きじゃくる子供のように顔を押し付けてくる雫の髪を撫でると、その耳元にエリクは囁く。
「この本、僕が預かってもいい?」
とりあえず今は、彼女と本を引き離した方がいい。これが何らかの影響を雫に与えていることは間違いないのだから。
だがそれを聞いた雫はひどく不安そうな目になった。顔を上げると小さな両手を彼の頬に触れさせる。
「でも、エリクが……」
「大丈夫。ちょっと目を通すだけだ。危ないと思ったら遠ざける。
 それに、君はこれ以上この本を持っていない方がいい」
これ程至近でお互いを見つめたことは、おそらくなかっただろう。
エリクは女の瞳に何かを読み取ろうとして目を凝らした。
茶色がかった黒い瞳は、全てを溶かす坩堝のように揺らめいて彼を見上げる。
そこに流れるものは不安、喪失、恐怖、哀しみ、そんなものに似た何かだ。
エリクは彼女の膝の上から本を抜き取ると、それを足元に置く。雫の視線が本を追おうとするのを遮って、彼女を抱き上げ寝台に横たえた。
先程眠りの魔法をかけたのと同じように、今度は掌を両瞼の上に置く。
「さぁ、ちゃんと眠るんだ。後は僕がやる」
「エリク……」
再びの詠唱。だが先程よりもずっと強力な構成を組むと、エリクはそれを女の中に注いだ。雫の唇が何かを探して動く。
長くはない数秒の間。
けれどそれは、追ってくる何かを振り切る為の永遠に似た時間にも思えた。彼女の喉が動き、か細い声が洩れる。
きっと残るのは孤独なのだろう。
彼女が一人抱えていた真実の断片は、こうして彼の手へと渡っていく。今まで幾人もの運命を渡り歩いていったように。
それがどういう結末をもたらすのか、今はまだ分からない。ただ仮説を積み上げていくしかない。

緊張を手放し、すぐにまた深い眠りに落ちていった女をエリクは消せない苦さを以って見つめた。彼女の最後の言葉が耳の中でこだまする。
これで全てではない。
雫は意識を手放す寸前―――― 「本は三冊ある」と言い残していったのだから。



目を覚ました瞬間、驚いたということは今までも何度かあるが、その日起きた雫はさすがに驚いた。
寝惚けた頭を押さえながら、椅子に座って本を読んでいる男に恐る恐る声をかける。
「エリク……?」
「ああ。おはよう」
「あれ、あ……って、まさか徹夜してくれたんですか!? すみません!」
「別にいいよ。本読んでたし」
昨晩は訳の分からぬ事態を知って怖くなり、彼に助けを求めてしまったが、まさか徹夜までさせてしまうとは思わなかった。
雫は慌てて飛び上がると頭を下げる。
同室のメアは寝たのか寝ていなかったのか、エリクに朝食を出しているところだった。
「マスターの分も持ってきますね」と言って使い魔が部屋を出て行くと、雫は改めて男に向き直る。
「そ、それで、どうでした?」
「何もなかった。よく寝てたよ、君」
「あああああああ、すみません!」
一瞬で真っ赤になった顔を押さえて雫はしゃがみこんだ。
何もなかった挙句、一晩中寝ているところを見られていたなら非常に恥ずかしい。空回りにも程があるだろう。思わず悶絶しながら床を転がりたくなる。
「こ、この埋め合わせはいつか……」
「別にいいよ。大したことじゃない」
お茶を飲みながら紺色の本を広げている男は、軽く朝食を取ってしまうと立ち上がった。
恥ずかしさで挙動不審になっている雫に歩み寄ると、苦笑してその額を軽く叩く。
「じゃあこれ借りてく。何かあったらまた呼んで」
「あ、はい! ありがとうございます!」
疲労も不満もまったく窺わせず帰っていった男の姿勢のよい後姿を、彼女は紅いままの頬を押さえて見送った。
入れ違いにメアが帰って来ると、しかし雫は怪訝そうに眉を寄せる。
「借りてくって……あんな本、私持ってた?」

その答は既に雫の中に沈んでしまった。彼女は取り出せず、思い出せない。
記憶が混濁しているとも取れる主人の問いにメアは哀しそうに微笑すると、「さぁ、召し上がってください」と朝食を勧めたのだ。