神の書 144

禁転載

紺色の本の外側には、紙のカバーがつけられていた。
それはエリクが自分で適当な紙を切って作ったもので、皮の表紙を黒い紙で綺麗に覆い隠している。
この世界には本に紙のカバーを別につけるという習慣はないが、雫の世界の本を見て興味を持った彼は、以前から度々似たようなものを自作していたのだ。
誰かがいるかもしれない研究室には行かず、自室にて雫から引き取ってきた本を読んでいるエリクは、紙に表を作って調べた箇所を書き出していた。
それは、この本に書かれている記述がそれぞれいつ何処の国でのものなのかを纏めたもので、 とりあえずそれ以外の詳しい内容については、彼はさらっと読み流す程度で留めている。エリクは章の終わりで一息つくと疲れた目を閉じた。
「やっぱり一冊じゃないか……」
書き出してみて分かったのは、この本の記述にはまるで虫食い穴でもあるかのように触れらていない部分があるということだ。
特定の国や地域に触れていないのではなく、また特定の時代がまるまる欠けているわけでもない。
例えば「この時代のこの国」については書かれているのに、「同じ時代の別の国」については書かれていない。
またその「別の国の別の時代」の記述はあっても「この国の別の時代」の記述はないといった風に、歴史書にはあるまじき歯抜け状態で記載されているのだ。
そして、書かれていることの中では、事件や逸話は時代順に並べられている。
目次も索引もないがそのことは既に確認済みのことであった。

歯抜けの部分とはおそらく、別の本に書かれたものなのであろう。
エリクは書かれていない部分も同様に並べて規則性を見出そうとしたが、今のところは何も見えてこない。
ただ子供たちが皿に盛られた菓子を無作為に取り合ったように、全ての歴史がばらばらに分けられているだけだ。
しかしそれでも、明らかに気になる点が二つ見て取れた。

一つは、古い時代に関する記述の矛盾。
この本の中で一番古い記述は暗黒時代に入る百年ほど前、つまり書物として残されているものの中では最古の部類に入るが、 そこから時代が下って、今から三百年ほど前までの長い期間には、何故か同じ時代同じ国の記述が複数回書かれているのだ。
それも記述ごとにその内容が違っており、一番初めに書かれている記述では、次期王争いの結果、兄が順当に即位した話が、 二度目には弟が兄を陥れ自分が即位したことになっている。そうしていくつか書かれているもののうち一番最後に配された記述が、 エリクが「歴史」として知っているものとほぼ同じ内容であった。
このように矛盾ある重複の箇所が一つや二つではなく、本の前半においてかなりの部分を占めている。
頁数が振られていないため確かめにくいが、見かけよりも多い頁があるのではないかと思われるその本は、 何も知らない人間が読めば歴史と仮想歴史を混ぜ合わせた意味の分からないものとなるだろう。だが彼はその不可解さに心当たりがあった。
「これが消された試行か?」
何度も賽を投げ、結果を書きとめていったかのように、歴史は繰り返され上書きされている。
その試行も三百年ほど前を最後に終わったのか、そこからの記述は全て単一になっていたが、遠い過去のことだとしてもいい気分がしないのは確かだ。
エリクはファルサスの記録庫にも残っていない、「存在しなかったはず」の禁呪の構成図を眺めると忌々しさに息をついた。

そしてもう一つ気になる点。
これは余程気をつけていなければ、試行の重複のおかしさの前に見過ごしてしまっただろう。
だがエリクは表を作って記述の時代や場所を確かめていた為、それに気づいた。
―――― 暗黒時代の初期、ある一時期を境に「書かれていない箇所」の量が減っているということに。
それまでの分量は、エリクが簡単に見積もったところによると、おおよそ大陸全体の三分の一だ。
これは雫の「本は三冊」という言葉を信じるなら、記述が三つの本に均等に分けられた為と推察できる。
しかしそれが、ある時点から全体の約二分の一へと増えているのだ。
何故こんなことになっているのか。エリクはこの時期に大陸で何があったか記憶を探った。
後の魔法大国の成立、精霊術士の登場、大陸東部の混乱、武器の発達、帆船の改良、街道の誕生、アイテア信仰の拡大、そして――――
「……そういうこと、か?」
エリクは辿りついた思考の更に先、それがもたらす推論に言葉を失くす。
呆然にも似た空隙。真実というには信じ難い結論に指が震えた。
普通の人間なら打ちのめされたかもしれない虚の波。
だが彼はそれを乗り越えると、片手で顔を押さえ湧き上がる感情を噛み潰す。
そしてその感情をも飲み込んだ時、エリクは意識を切り替えると椅子を立っていた。本を棚に押し込むと持ち出されないよう結界を張る。
そのまま男は机の上に広げていたメモをかき集めると、仮説を裏付ける記録を探すため足早に部屋を出て行ったのだった。






もともとは寝起きの悪い体質ではなかったのだが、最近は少し、体の重さを感じるようになった。
雫は冷水で顔を洗うと、髪を梳かし始める。
エリクに相談をした日から彼女が「夜更かし」することはなくなったらしい。
それには雫本人だけではなくメアも安堵したらしく、毎朝「よくお眠りでしたね」と起こされることがここ数日の習慣になっていた。
仕事の予定を書いたメモを見ながら、雫は手早く着替えると出仕の準備をする。
宮仕えの人間たちのうち、彼女やエリクのように城に住んでいる者は全体の四分の一程だが、彼らの中にも遅刻をする者がいるのは、疲労度や睡眠欲がもたらす結果なのかもしれなかった。
「よし、行ってきます! またお昼にね」
「行ってらっしゃいませ」
書類包みを小脇に抱えて雫は廊下を歩き出す。
本当は動きやすさの点で膝丈の服を着たいのだが、キスクにいた時に固い格好に慣れてしまったせいか、彼女は今でも踝までの長いスカートを履いていた。
よく晴れた空を窓越しに見上げ、欠伸を噛み殺す。

ファルサスに戻って来てからもうすぐ一月、雫は既に数種類のカード教材セットをはじめ、絵本など複数の教材を作成している。
その大半はキスクでの成果を移行させたものだが、カード教材などは当初のターゲット層である幼児だけではなく、少し年上の子供たちへと 、複合単語を教える為の教材にも転用を考えられ始めていた。他にも音声を吹き込んだり聞いたりするような道具は出来ないのか尋ねたところ、魔法具ならば可能であるとのことで、その種の教材も考えている。エリクの契約期間が切れるまではあと一月なのだから、それまでに思いつくことは全てやってしまうつもりだった。

雫は未だ残る眠気に深呼吸を繰り返す。
両腕を上げて伸びをしてみた時、廊下の向こうに見覚えのある人物が現れた。彼女は雫に気づくと笑顔で手を振ってくる。
「おはようございます」
「ユーラ! 久しぶりです」
つい一月前までキスクで女官をしていた女は、今は本来の役職どおり武官の服装を身につけていた。細身の剣を帯びた姿を雫はまじまじと眺める。
「に、似合いますね。っていうか本当はこっちが本業なんですよね」
「そうですね。女官仕事も悪くはありませんでしたが、私としてはやはり気に入らない人間に力を行使する方が楽しいです」
「……そ、そうですか」
本当はこういう性格だったのか、と雫は内心頭を抱えたが、ユーラは満面の笑顔を浮かべている。
「まぁ相手は人とは限りませんが。鍛錬するに越したことはないですね。私はまだまだ若輩ですから」
「人じゃないって……ドラゴンとかですか?」
「雫さんの発想は怖いですね。ドラゴンとか無理ですよ。殺されます。大体探すの大変ですし」
「あ、探すの大変なんですか」
「昔は結構いたらしいんですけどね。最近は滅多に人の目につくところには現れませんよ。高山とかに住んでるみたいです」
「へぇぇ。残念。ファルサスなら一匹くらいいるかと思ったんですけど」
雫の感想にユーラは苦笑したが、遠くから聞こえてくる鐘の音に気づくと飛び上がった。
「もう行きますね。ではまた」と会釈して走り去る。
朝から珍しい人間に会うものだ、と思った雫はしかし、出仕した先の研究室で更にいつもとは違う事態に出くわして目を丸くすることになったのだ。

普段は文官たちの他に約束でもなければ誰も訪れない研究室。
けれどそこには、この日一人の女が早朝からやって来ていた。彼女は雫を見ると微笑んで立ち上がる。
「突然お邪魔してごめんなさいね」
「レラさん……どうしたんですか? 何か絵本に不備でもありました?」
別の研究室にて流行り病の原因究明に携わっている彼女が、雫の研究室に現れたのは初めてのことである。
何か問題があったのかと緊張する雫に、レラは慌てて首を横に振った。
「違うの。今日は嬉しいことというか……つまりね、病の治療法らしきものが見つかりそうなの」
「え! 本当ですか!?」
ということはつまり原因が特定されたのだろうか。
詳しいことを聞きたがる雫に、レラは困ったような笑顔で説明をしてくれた。

原因の詳しいところはまだ分かっていない。
ただ、エリクが魂と言語が無関係なのではないかという趣旨の論文を出してから、別の方向性での実験も試みられ始めたのだという。
その中の一つに、何らかの感染が原因なら既に生得言語を半数以上習得した十歳前後の子供を集め、幼児たちと接触させてはどうかという実験があった。
そして実際、この実験を繰り返すうちに、子供たちの中にはある変化が見られるようになったのだ。
すなわち―――― 流行り病の発症が確認されたため集められた幼児たちに、生得単語が戻り始めたという変化が。

「え、それって年長の子との会話で単語を覚えたからじゃなくて、ですか?」
「勿論そういう例もあると思うわ。
 でも、特定の単語を使わないよう年長の子たちを指導したり、或いはまったく言葉を発しないで同じ部屋にいさせるだけっていうのも試したの。
 そして、そのどちらの実験でも単語の復活が見られたわ。
 今は実験時に部屋に張っていた魔力場が関係あるのか、更に実験を詰めてるところ。でもこれだけでも充分進歩でしょう?
 今までまったく手がかりが得られなかったのだから」
「それは……おめでとうございます」
雫はレラが嬉しそうなのでまず祝いの言葉をかけたが、それだけではなくどのような実験を行ってどのような結果が出たのか、詳細を知りたくて仕方なかった。
何故生得単語が失われていたのか、どうやってそれが戻ってきたのか。
それは、異世界人にもかかわらず言語が通じる彼女自身にとっても、無関係なことには思えなかったのだ。
レラは雫が実験記録に興味を持っていると察すると、後で研究室に結果を纏めたものを届けると約束してくれた。
その上で、こちらが本来の用件であっただろうことを口にする。
「よかったらあなたからエリクさんにもお礼を伝えて欲しいの。
 本当は直接言おうと思ってさっきも伺ったんだけど、最近あの人はあまり研究室に顔を出されていないみたいで」
「エリクが?」
彼とはあれ以来一度も会っていないわけではないが、研究室に出てきていないとは知らなかった。
思い出す限りは普段とほとんど変わりなかった男の姿を思い出して、雫は不思議に思いながらも頷く。

レラが帰っていった後、雫は机に積まれた本を振り返って顔を顰めた。
何だか一瞬、思い出せないことが浮かび上がってきたような、形にならない不安がよぎったような、そんな気がしたのだ。
だがそれも指の中をすり抜ける砂のように、あっという間に雫の中に埋もれていく。
思い出せたのは砂漠の風景。
この世界に初めて来た時に見上げた空を思い出し、雫は強い熱気に浮かされたかのように濁る頭を大きく振ったのだった。