堆し塵 145

禁転載

初めは強い好奇心が切っ掛けだった。
異世界から来たという話も非常に気になったが、それだけではなく彼女が書いていた文字の多様さに惹かれた。
どういう構造で文が出来上がっているのか。単語の作りはどうなのか。そして文字自体に意味はあるのか、整理し研究してみたいと思った。
だが今まで単なる取引を越えて彼女自身をも助けてきたのは、訳の分からない状況に放り出されながらも、前を向き強く在ろうとするその姿勢を買ったからだ。
泣いて蹲るわけでも諦めて捨ててしまうわけでもない。ただ少しずつでも進んでいこうとする毅然。
人の善性を、精神の貴さを信じ、自らも誠実であろうとする彼女の意志が好ましかった。
長らく会っていない妹がいたらこんな感じだろうかと思ったこともある。失われた少女が生きていたならこんな日々があったかもしれないとも。
しかし、彼女は彼女だった。他の誰でもない彼女自身になった。
飲み込みのよさ。学ぶことへの真摯。他人を思う心。変わらない温かさ。
そして何よりも、可能性を諦めない、負けることをよしとしない人間に彼女はなったのだ。
無力でありながら屈することを拒み、尊厳の為なら命を惜しまない彼女は、やはり頑固で、愚かだと思う。
「夢中になると他のことが見えなくなる」といつか注意したが、本当はそうではないのだ。
彼女は全て見えていて、それでも、譲れない一つを選ぶ。
自分の体よりも、命よりも、意志を重んじて火中に手を伸ばす。
その頑なさはきっと彼女を傷つけるものでもあるだろう。
世界も人も、それ程には優しくない。彼女には応えない。



だからせめて、自分だけは応えようと思った。
彼女の不安も努力もよく知っているから。それごと保ってやりたかった。
共にいる時間は面白かったから、それは自分の為でもあったのだろう。
けれど、そう思って彼女の手を取ってきたこの旅は―――― はたして最後まで彼女を裏切らないものでいられるのだろうか。






「カカオがあるんですか!?」
「あるわよ。あの苦い豆でしょう? 粉を水に溶いて飲むっていう。南部には少しだけあるけど、薬用よ?」
「チョ、チョコレート食べたい」
「何それ」
報告を終えてからの雑談に、レウティシアは怪訝そうな顔になる。
何故このような話になったかというと、この日たまたま果物が盛られた皿がレウティシアの机にあったからだ。
二人はそれを分けながら、何となくどういう動植物が二世界で共通なのか、試しに挙げ始めた。そしてその中で「カカオ」の話になったのである。
「チョコレートって何?」といった表情の上司とは反対に、雫はずっと食べたかった菓子が手に入るかもしれないという可能性にこの上なく真剣になった。
だが彼女は製菓用のチョコレートを元にしたケーキの作り方などは知っていても、チョコレート自体がどうやって作られるのか知らない。
「七十パーセントカカオだと苦いんだから……」とぶつぶつ呟き始めた部下を王妹は不可解の目で見やった。
「レウティシア様、それ、私の世界だとすんごーく美味しいお菓子の材料なんですよ!」
「そ、そうなの?」
「だから試しに砂糖とか牛乳とかもりもり入れてみませんか!」
何故か仕事の報告をしている時より余程熱がこもっている。
レウティシアは結局、その迫力に押されて「取り寄せてみるわ……」と頷く羽目になった。
ぱっと嬉しそうになった雫は、しかしすぐさま部下としての礼節を取り戻して一礼する。
「それでは次の草稿を作ってまいりますね」
「え、ええ。お願い。……貴女の描く絵本って面白いのよね。動物が喋ったりして。子供たちの評判もいいらしいし」
「こちらの世界では動物の擬人化ってほとんどされないようですね。仕事を頂いてから絵本にかなり目を通しましたけど」
「元々話せる人外が多いからかしらね。―――― ああ、そう言えば、少しエリクを借りるけどいい?」
「エリクを? はい。何故私に」
彼の上司はレウティシアであって雫ではない。
なのに何故自分に断ってくるのか、彼女はきょとんとしながらも頷いた。その様子に王妹は心なしか肩を落とす。
「貴女たちって本当に……いえ、何でもないわ。明後日からしばらく城都を空けるから、何かあったら今のうちにね」
「何処に行かれるんですか?」
「北部に。魔物の出現が止まないから、とりあえず全ての町や村に結界を張ることになったのよ。
 一週間くらいかかりそうな上、とりあえずの処置なのだけれど。やらないよりはましだわ」
「そうですね……」
魔物というものがどのようなものだかは、まだよく分からないが、そのような仕事に向うと知って雫は少しエリクが心配になった。
そう言えばレラからのお礼もまだ伝えていないことであるし、出発前に一度会いに行こうと頭の中にメモする。
「折角北部に行くのだから、余裕があったら紅い本を持った女についても少し調べてくるわ。
 ……ああ。私がいない間に兄に何かされたらトゥルースに言いつけておいて。私に連絡するように言っておくから」
業務連絡なのか違うのか意味の分からない補足。
しかし言う方も聞く方も真面目な顔でなされた注意を最後として、その日レウティシアへの面会は終わったのだった。



雫はレウティシアの執務室を辞したその足でエリクの所属する研究室を訪ねたのだが、そこに彼はいなかった。
彼女はレラに聞いたことを思い出し、行く先を彼の自室へと変える。
部屋の扉を叩いてしばらく待つと、返事と共に中から鍵が開けられた。彼がちゃんといたことに雫は自分でもおかしなほど安堵を覚えて扉を開ける。
「エリク、今いいですか?」
「やあ。どうしたの?」
「もうすぐ出張するって聞いたんで。ご挨拶に」
男の様子は普段と変わりがなかったが、代わりにいつもそれなりに片付いている机の上は、ぎょっとするほど何十冊もの本やメモで溢れかえっていた。
エリクはそれを積み重ねて整理し始める。こういったものは他人の手が入らぬ方がいいだろうと思い、雫は一歩離れた場所で彼の作業を見ていた。
「北部に行くって聞きましたけど」
「うん。西部からファルサスに入国した時に通った国境門覚えてる? あれの更に北の地方」
「めちゃめちゃ遠いじゃないですか。寒いんですか?」
「そうだね。ファルサスにしては大分標高が高い土地だし。そろそろ寒いかも」
エリクのことを何処行っても平気な顔をしていると言ったのは確かハーヴであったが、それは真実であるように思える。
彼ならきっと寒い地方へ行こうとも普段と変わりなく仕事をこなしてくるだけだろう。その点は雫もさして心配していなかった。
「魔物が出るって大丈夫ですか?」
「うん。多分。王妹もいるし護衛もつくから」
抑揚の薄い返事には緊張も怖れも感じ取れない。雫はそのことに気を緩めるとレラに言付かった実験結果とお礼を伝える。
エリクは少し目を瞠って聞いていたが、彼女の話が終わると「年長者と幼児の間で会話があったかどうか」など雫と似たようなことを確認してきた。
何だかおかしくなりながらも彼女はレラから聞いた同じことを返す。だが彼は何かを考え込んでいるように「ふぅん」と相槌を打っただけだった。
エリクは自分が積み重ねたメモを一瞥すると雫に視線を戻す。
「ああ、一応言っとくけど僕がいない間はこの部屋のものには触らないで」
「了解しました。っていっても多分入らないですよ。部屋の人が不在の間に立ち入るってよっぽどじゃないですか」
「うん。でも念の為。色々危ないものもあるからね」
危ないものとは魔法具だろうか。雫は部屋の中を見回したが本以外には特にそういったものは見当たらない。
だが彼の要求は常識の範囲内のことだったので、彼女はそれ以上拘泥しなかった。「火事の時は持ち出すかもしれません」と冗談めかして笑う。
思考が緩やかな軌跡を描く間。
エリクは軽く目を伏せて僅かにいつもと同じ微苦笑を見せた。よく響く声が微かに憂愁を帯びる。
「君はさ」
「はい」
「もしこれから先、紅い本が見つかって、それがちゃんと外部者の呪具で、でもそれを調べても帰る手がかりが得られなかったら。
 ……そうしたらどうする?」
突然の―――― そして今更の問い。
それは雫を少しばかり驚かせた。何故今彼はそんなことを聞くのかと、それだけの理由で。
だが、驚きはしたものの答はもうとっくに出ているのだ。
彼女は吸いかけた息を飲み込む。眠るように目を閉じると微笑んだ。
「そうですね……。いつかはふんぎりをつけようと思ってますよ。本当にどうしても駄目だと思ったら」
「この世界で生きていく?」



『大陸で生きていく』
それはまだ、はっきりとは頷けない未来だ。
分かっていても踏み越えられない川の向こう。
けれど雫は、いつからかその川が徐々に狭まってきていることに気づいていた。
遠かったはずの世界に少しずつ馴染んでいく。今の「自分」が、この旅の中で作られていったように。



「分かりません」
彼を見ぬまま首を振った女に、エリクは声に出しては何も言わなかった。
心地良いだけではない沈黙。沈痛を薄めて溶かしたかのような空気に雫は喉の熱さを覚える。
―――― 口に出してしまえばすっきりするのかもしれない。
まだ形になっていないようなものなどは、きっと特に。
だがそれをしては、形にした瞬間、別のものになってしまう。よく似ていても、連続していても違うものに。
そしてもう戻れない。取り戻すことは出来ない。
そのことが分かるからこそ、雫は何も言わなかった。



どれだけの時間が経ったのであろう。
気がついた時、エリクは雫の目の前に立っていた。手を伸ばし彼女の額を軽く叩く。
見慣れた藍色の瞳。深く広がっていそうなその奥に雫の視線は吸い寄せられた。
「まぁそうすぐに諦めることもないよ。大陸は広い。次は別の国にでも行こう」
「それはありがたいですが……何かそのうちガイドブック書けそうですね」
「何それ?」
共にいる時間は楽しい。
だからこのままこの時が続いてもいいな、と雫は思う。
学びながら国を渡り、それを本に書き出してまた次へと向うような旅も、彼女が選び取れる可能性の一つだろう。
雫はキスクにいた時から日記としてつけ始め、更に過去へと遡って書き出している自分の記録を思い出す。
一年分を記したら、新しいノートに変えようと思っていたその記録。
けれど結局―――― 新品の一冊を用意する前に旅は終わってしまったのだ。
それをやがて、彼女は知ることになる。