堆し塵 148

禁転載

肘の少し上から腕を切断された魔族は、空気をひずませる程の不快な絶叫を上げた。
雫は思わず首飾りを持ったままの手で両耳を塞ぐ。
だが、数日は耳に残るような罅割れた叫びも、ラルスがアカーシアを手に一歩を進めたことでかき消えた。
腕を切り落とされた魔族は、更なる一撃を加えようとするファルサス国王を前に、踵を返し逃げ出したのだ。
「あ、こら、逃げるな」
逃げるなと言って待つ相手もやはりいない。
幼子の姿をしたそれは、片腕を失ってバランスを崩しながらも次の屋根へと飛び移る。
ラルスは自分も魔族を追って走り出した。雫の体を支えていたハーヴが慌ててその後に続く。
それを皮切りに連絡を受け集まってきたのだろう。他の魔法士や兵士たちの姿も地上に見え始めた。

犯人は分かったが、問題は何故このような真似をしていたかだ。
本来このように大きな街には現れず、また女を標的にもしない魔族が、擬態を使ってまで短期間のうちに十人以上の人間を襲ったのだ。
はっきりとした原因が分からなければ人心を宥めることは出来ず、また次への対策も打てない。
ラルスはあっという間に敵への距離を詰めると、赤い靴を履いた足を狙った。アカーシアを軽く振るう。

敵が魔族であることは分かっているが、小さな女の子に大の男が剣を向けている様は見ていて気分のいいものではない。
雫は追撃を彼らに任せると回収した首飾りを手元で確かめた。
触るとほのかに温かい白珠は見たところ三十粒以上はある。これは城都以外でも犠牲者が出ていたということだろうか。
自然と眉を寄せかけた彼女は、隣にやって来たメアに白珠のことを聞こうと振り向きかけた。
けれどその時、唐突に視界から少女の姿が消える。
「え?」
硝子の砕ける大きな音。
伸びてきたのは男の手だ。
雫は全ての事態を認識するより早く、目前に現れたその手だけを見て取った。大きな手が彼女の持っていた首飾りにかかる。
「返してもらおう」
低い声。強い力で糸を引く指に、雫は慌ててそれを引っ張り返した。
「だ、駄目っ!」
どうやって現れたのか、屋根の上に立っている黒衣の男は彼女の抵抗を見て笑う。優雅な仕草で空いている左手をかざした。

本能的な危機感。
捕食者に見入られた萎縮。
しかし、それでも雫は手を離さなかった。
男は軽く指を弾く。空気が幾つもの見えない刃となった。遠くから王の怒声が聞こえる。
「馬鹿が! 離せ!」
眼前に結界。
上ってきたトゥルースが雫を押し退けた。
だがファルサス魔法士長の体は、飛び散る鮮血と共に一瞬で崩れ落ちる。
その体を引き裂いた刃が、首飾りを握ったままの雫の右手にも向った。



時間が、やけに遅く感じる。
雫は手の中の白い珠を見つめた。
誰かの魂であろう一粒。
奪われてはならない命。
だから彼女は―――― 指を離さなかったのだ。
そして雫の五指は、音もなく切り落とされた。



「ああぁぁぁあああぁぁっ!」
城都の一角に絶叫がこだまする。
混乱と痛みに真っ白になった雫には、物のように自分から離れた指と、糸を切られバラバラに落ちていく白珠が、まるで同じ粒のように混ざり合って見えた。
しかしその中で白珠だけは見えない力に引かれるように、黒衣の男の手の中に引き寄せられ始める。
思考の断裂。
意識を手放しかけていた彼女は、けれどそれを見た刹那、激痛よりも「奪われる」という恐怖に弾かれた。
左手を上げる。
空中を逃げていく白珠。
雫はそれを掴み取ろうと腕を伸ばした。
上手く動かない体。
いくつもの珠が彼女の手に当たり、地上へと落ちていく。
「つまらぬ邪魔を……」
男は不快げな表情になると、再び手の中に刃を生んだ。
だが、その刃を揮うことなく彼は不意に飛び退く。代わりに一瞬前まで男がいた場所をアカーシアが通り過ぎていった。
ラルスは無言で更に一歩を踏み込むと、風を切る速度で剣を振るう。
しかしそれも大きく後退して避けた男は、手の中に引き寄せた十数粒に視線を落とすと不吉な笑みを見せた。
「これだけか。仕方ない」
それだけの唐突な言葉を残して、男の姿は詠唱もなくその場から消え去る。
後に残されたのは苦痛と混乱と血臭。
こうして城都で起きた不可解な連続事件は、不可解なままその幕を下ろすこととなったのだ。






「それで、最終的な被害状況はどうだったのです」
溜息混じりの妹の問いに、執務机に頬杖をついた王は苦々しさを隠さなかった。彼は前髪を乱雑にかき上げる。
「回収出来た魂は十九。ただし、その中で体を保護してあったのは八人だ。
 残りの体は近辺の街を探させているが、普通の街での事件ならまずもう死んでいるだろう」
「でしょうね。北部でもしばらく前に似た事件があったそうですが、被害者は三日で亡くなったそうですし」
北部の街々を回る最中、レウティシアもまた「体を凍らされた女」の事件を耳に挟んだのだ。
城都からの事件の連絡を受けて彼女が更に詳しく調べさせたところ、それらの事件はファルサス北西部から城都までの範囲で起きており、全て合わせて約百件程に及んでいた。
これ程までに大きな事件が今まで明るみに出なかったのは、北部では魔族の襲撃があったことに加え、 魔族が来なかった街ではせいぜい一人か二人しか犠牲者が出なかった為であろう。犠牲者を発見した者たちはそれを不審に思いつつも、一、二件ならば城に報告するまでもないと判断してしまったのだ。
城都で十人以上が襲われたのはそれらの街と比べて人口が桁違いに多かった為に違いない。
報告書を前に王は大きく息を吐いた。
「魂の粒はあの娘曰く三十程あったそうだ。残りは持ち去られた」
「水妖を何人か使役してやらせていたのでしょうね。捕らえた水妖は何と言ってました?」
「それがあんまり。魔族は尋問しにくくて困る」
「シルファにやらせましょう」
王家の精霊の名が出ると話はそこで一段落する。レウティシアは大きくかぶりを振ると書類の一枚を取り上げた。
「それにしても……兄上がいらしたとはいえ、上位魔族を相手にしてこちらに犠牲者が出なかったのは幸運ですね。
 魂を全て取り戻せなかったのは、こう言っては問題ですが仕方のないことでしょう。向こうが本気で逃げれば追いきれません」
「気を使うな。俺の失態だ」
珍しくぶっきらぼうな兄の声音にレウティシアは困った顔になる。
気を使ったつもりではなく、本当に「仕方ない」と思っているのだが、彼には彼で思うところがあるのだろう。
突如現れた上位魔族。あの時あの場において、それに対抗し得たのは彼しかいなかったのだから。



結論から言えば、ラルスは雫の傍を離れるべきではなかった。
逃げ出した魔族の捕獲は部下たちに任せて、自分こそが首飾りを回収するべきだったのだ。
しかしまさか上位魔族の介入があるなどと思ってもいなかった彼らはいい様に翻弄され、結果としてトゥルースとメアは重傷を負い、雫は指を切断された。
彼らの傷は治療によって大事には至らなかったが、十全とは程遠い幕切れになった以上、責はやはり指揮者であった王にあるだろう。
ラルスは妹には滅多に見せない機嫌の悪さで机を蹴ると、背もたれに体を預けた。
普段は隠されている彼の本性が、自責と共に苦渋の中に垣間見える。
随分久しぶりに思えるそんな時間。
レウティシアは兄に何と声をかけようか迷ったが、結局彼の隣で沈黙するに留まった。
踏み込むわけでも慰めるわけでもなく、ただ黙って待つ。
別段難しいことではない。長い時間が要るわけでも。
そうやって二十年以上もの間、彼らはお互いの間に横たわる隔絶を無視し続けてきたのだ。






部屋にはカーテンが引かれ、昼だというのに暗いまま閉ざされていた。
音の無い部屋。
窓際に置かれた小さな敷布の上には緑の小鳥が眠っている。
一方、部屋の主人である女は、寝台の上に両膝を抱えて座り込んでいた。
瞼は閉じられているが、夢の中を彷徨っているわけではない。その証拠に扉が開かれると彼女は顔を上げる。
「雫」
彼女の名を呼んで入ってきた男は、薄暗い部屋の様子にも構わず燭台に火を灯すと寝台の前に立った。
手を伸ばし、彼女の右手を取る。
白い指には今は切断された痕もない。ただ彼女自身の意思に応じて微かにわなないただけだ。男はそれを確かめると手を離す。
「ちゃんとついたんだね。よかった」
「エリク……」
「話は聞いたよ。無茶をしすぎ。魔族を侮っちゃ駄目だ」
叱る声。温かくも厳しくもない、だが思ってくれる言葉。
それを聞いた雫は、張り詰めていたものが途端に緩んでくるのを感じた。涙の滲む目を閉じ、顔を膝に埋める。
「わ、私、魂を取り戻そうと思ったんです」
「うん」
「でも、取れなくて、いくつも取られて……」
「仕方ない」
城で保護されていた女性たちのうち、三人の魂は結局取り戻せなかったのだ。
雫は意識を取り戻した被害者たちの姿を安堵で見やった一方、助けられなかった犠牲者たちが家族に引き渡されるところもまた見てしまった。 徐々に冷たくなっていく母親に取り縋った少年が「どうして助けてくれなかったのか!」と叫んだ、その声を忘れることはきっと一生出来ないだろう。
指を切り落とされた恐怖よりも、白珠を掴み取れなかったことへの強い後悔が、繰り返し彼女を苛んでやまないのだ。



声を殺して泣く女の隣にエリクは座る。
彼は遠い目を伏せると、小さな頭をそっと撫でた。
「雫」
「はい」
「助けられなかった命を思うなら、助けられた命も思うんだ。全体を見なければ次に生かせない」
励ましているのか、諭しているのか分からない言葉。
雫は彼らしい慰めに思わず唇を噛んだ。
長い沈黙の後、喉の奥から掠れた声を絞り出す。
「難しい、です」
「うん。まぁ上位魔族なんて二度と会わないに越したことはないし」
もし次があるとしたら、今度はどうすればいいのだろう。
その答は分からなかったが、それでも雫は少しだけ凪いだ痛みに、一人ではないことを感謝したのだった。






肉体が、積み重なっている。
折れ曲がった腕。どす黒く変色した足。破れかけた翼。濁りきった瞳。
壊れ果てた無数の肉体が雑然と絡みあい、一つの異様な姿を曝け出している。
動くものはない。そこには個もない。
時折外から吹き付ける寒風が、誰のものとも分からぬ髪を揺らしていくだけだ。
伽藍の如き冷え切った空間。
誰も住まう者のいない城の吹き抜けを、女は一人見下ろしていた。
数階分にも渡る高さを持つ眼下には、人と魔族両方の死体が堆く積まれている。
死の厳然を前に、しかし女の目には何の感傷もない。ただそれを在るものとしてしか見ていなかった。
「アヴィエラ」
涼やかな男の声に女は振り返る。帰ってきた男は女の視線に手を広げて見せた。そこには白珠が十数個握られている。
「ああ。回収したのか。手間を取らせたな」
「構わない。が、下位上がりの魔族は駄目だな。街を回るようにさせたのはいいが、ファルサスの城都にまで行っていた」
「そうか。ファルサス王家には勘付かれたか?」
「アカーシアの剣士に追われた」
端的な報告に女は声を上げて笑いだす。危機感のまったく見られない反応に男は肩を竦めた。
「随分と余裕だ。魔女に成ったせいか?」
揶揄と共に男は欄干の向こう、死体の山を覗き込む。
呼び出された魔族とそれを倒そうとした人間。
力に引き寄せられた魔物と攫われてきた人々。
彼らはいまや単なる残骸として乱雑に混ざり合い小高い山となっている。
凄惨で厳粛な終わりの光景。
それは真の意味で種族の境界を超越した一つの現実とも言えただろう。女は薄く微笑む。
「魔女という程ではない。お前と同程度にしか過ぎないからな。
 ただ、誤解のないように言っておくが、私自身は別に魔力を欲しがったわけではないぞ。
 お前の連れて来た女があまりにも人間を侮辱するから、肉体の檻に取り込んでやったのさ」
優雅な微笑には、慈しみはあっても憐れみはない。男は予想出来た答に傲然と返した。
「あれはお前を怒らせると思った。お前に食わせる為に連れて来たのだ」
上位魔族は死ねば肉体は残らない。元々が概念的な存在である為だ。
アヴィエラは今はもう自分の力となって消えた魔族を思い出すと、小さく鼻で笑った。
「ファルサスに勘付かれたとしても構わん。可能性は全て平等だ。
 むしろ彼らも試されればいいのだ。継いできた力と血が、更なる時代に必要であるか否かをな」
芯のある強い声は、全てを俯瞰し操る者のようにも聞こえる。 男は契約上の主人を愉しげに見やった。
「その試金石に、お前がなるというわけか」
「いいや? 私はただ教えてやるだけだ。
 この大陸も人間たちも―――― 多くの苛烈な過去を忘れ去って惰眠を貪っているに過ぎないということを」
女は右手を眼下に向けると詠唱を始める。
複雑な構成は死体の山に降り注ぎ、腐りかけたそれらを徐々に乾いた塵へと変えていった。
開けられたままの城の扉から吹き込む風が、端から塵を押し流していく。 
やがて吹き抜けに何も残らなくなった頃、上階には二人の男女の姿もまた見えなくなっていたのだった。