黄昏 149

禁転載

「ない……ないのだ」
聞き飽きた呟き。老いた父の狼狽をシロンは聞き流した。手元の手紙を捲り、寄せられた嘆願に目を通す。
「ないのだ! シロン! あれを知らぬか?」
「知りませんよ。賊が何処かに売り飛ばしでもしたのでしょう」
「あれがなければ我が家は終わりだ!」
「父上がそう仰り始めてから既に一年以上が過ぎておりますが、いまだ問題は起きておりません」
「魔物が出ているではないか! 陛下にどうお詫びすればよいのだ……」
畳み掛けるような父の反論に、シロンは鬱陶しさを隠しもせずに顔を顰めた。
まさに「ああ言えばこう言う」だ。この一年半ずっとこれを聞いていた自分の忍耐はかなりのものだと思う。
彼は国内西部からの手紙全てを確認してしまうと、次の仕事に取り掛かり始めた。
椅子に座り込み何やらまだぶつぶつと呻く父を、本当は執務室から叩き出したいのだがそうもいかない。
先代の宰相であった父はまだ城への影響力が強く、シロンが乱暴なことをすれば若輩である彼の方に非難が向いてしまうのだ。
彼は忌々しさを示す人間の見本のような表情で、提出された資料を見ていった。
その内の一つ、薄い装丁の本を手に取ったところで動きを止める。
「これは……」
何故このようなものが存在するのか。
驚きと共に凍りついたシロンは、けれどしばらくすると現状を変える為に、急いで書状をしたため始めたのだ。






厚めのカップの中には、薄茶色のどろっとした液体が湛えられていた。
泡を孕んだ表面は見た目からして怪しい。魔法薬でももう少し普通の様相を呈しているだろう。
レウティシアは恐る恐る匂いを嗅ぐと、決心がついたのか小さな唇をカップにつける。
口の中に広がったのは苦味とコクと甘さと脂。
王妹は美しい面を動かさぬままそれを嚥下してしまうと、一呼吸ついて言った。
「微妙」
「ですよねえええ!」
同じものを飲んでいた雫は悶絶して机を叩く。
彼女はレウティシアに頼んで南部からカカオ豆を取り寄せてもらったのだが、それをどうやったらチョコレートにできるか分からず、試行錯誤した結果訳の分からないココアもどきを作ってしまったのだ。
「本当はもっと美味しいんですよ! 何が悪いのかなぁ……」
「この脂、何とかならないの? ちょっと濾したいくらいなのだけれど」
「ああ……。次はそうしてみます」
納得して頷いてはみたが、ココアの工程に脂を濾すなどというものがあっただろうか。
雫は悩んだが、普段は粉末を買って練っていたので分からない。
とりあえずチョコレート作成までの道のりは遠そうだ。
材料を無駄にしないよう失敗作を全て食している彼女は、げっそりして肩を落とすと本来の話題へと軌道を修正した。
「それで、生得単語が戻ってきた原因はまだ確定できていないわけですか」
「そうなのよね。元々生得単語自体が何処に由来するのか証明できていないのだから仕方がないのだけれど。
 でも魂の問題だとしても、正直別の……特に上位階層のことは探るのが難しいのよ。通常は認識出来ないから別の階層なのだし」
「なるほど。―― あ、でも、魔法構成って上位階層らしいじゃないですか。それで何とかならないんですか?」
「だから、魔法構成の階層が視認出来るのが魔法士なのよ。
 別の階層も上下はあるけれど、まったく違う世界という訳ではなくて。
 普通の人間には見えないだけで何重もの階層がこの世界に重なっているの」
レウティシアは言いながら執務机に積まれていた書類の束をぱらぱらと捲って見せた。
それを再び揃えて重ねると「こういう感じ。分かる?」と苦笑する。雫はその比喩で大体の理解を得て頷いた。
「つまり全ての階層は場所的には同じって訳ですか。位階的な深度が違うだけで」
「そうそう。でも位階が違うって大きくてね。人間にはなかなか他の階層のことは分からないの」
「うーん……じゃあ直接的なアプローチはやっぱり難しいんですね」
雫の結論にレウティシアはお手上げ、といった風に肩を竦めてみせる。

要するに「生得言語が本当に魂に依拠しているのか」という問題を考えるにあたって、その原因と一般的にみなされている 言語階層自体が実在するかどうか、そこからして人間には確かめられないということだろう。
逆に言えば「別の階層だ」と言ってしまえば可能的には何でもまかり通る。
魔法士の初歩の講義に似た内容を飲み込んで、雫は嘆息した。
「でも今は何故だか治りつつあると」
「そうなのよね……」
色々と状況を変えて実験を繰り返してはいるものの、未だ原因は特定出来ていない。
ただ生得単語が戻ってきたのは実験のため城に連れられてきた子供たちだけであり、城都全体までは回復が確認されていないところをみると、やはり実験の何かしらが影響していると思われた。雫は何とはなしに天井を仰ぐ。
「そう言えば……昔、漁船が別大陸の人間を拾ったってエリクに聞いたんですけど、それって東の大陸の人間だったんですか?」
「え? ―――― いえ、あれは確か違ったはずよ。交流もない大陸だったはずだわ」
「その人も言葉が通じたんですか?」
素朴な疑問に王妹は目を丸くした。
何故、雫がこのようなことを聞いたかといえば、単に交流のない別大陸にも同じ生得言語があるかどうか気になったからだ。
もしエリクが言うように生得言語が何かしらの感染であれば、交流のない大陸には行き渡っていないはずだろう。

異世界出身の部下の問い。その意味するところを悟ってレウティシアは言葉に詰まった。
「どう……だったかしら。でも確かその漂流者の大陸についての記録が残っていたから、言葉は通じたのだと思うけれど」
「うっ。そうですよね」
何だか堂々巡りである。
雫は抱えていた絵本の草稿を抱き直した。レウティシアはココアもどきが気になるのか、もう一口を飲むと顔を上げる。
「ともかく原因が分からない以上、治ったと言ってもいつまた発症するか分からないのだし、貴女にはこのまま仕事を続けてもらうわ」
「かしこまりました」
「貴女がいてくれるとエリクも残りそうだし。ねえ、一生ファルサスにいない?」
「そ、それはちょっとお約束は……」
昔からエリクの才能を買っていたというレウティシアは、彼との契約期限が近づいていることが残念で仕方ないらしい。
最近はあまり研究室に顔を出さずに自室で調べ物をしている彼だが、それについても「ああいう人間は発想からして才能だから。やりたいことをやらせた方がいいのよ」と鷹揚に構えている。
ある意味理想的な上司かもしれない彼女は、けれど話の締めくくりとして一枚の書類を差し出した。
雫はそれを受け取ってみたが全ては読み取れない。目に付いたところだけを声に出す。
「メディアルの……言語の、招待、要望?」
「それがね。少し前に主だった諸国に流行り病についてファルサスの対策、つまり貴女の仕事の状況を送ったのよ。
 キスクも同じ方向で進めていることだし、これに関してはある程度情報を与えた方が混乱が少ないと思って」
「はい」
「そうしたらメディアルが、貴女の作った教材を見て作成者から直に説明を聞きたいって言ってきたの。
 それ程秘密でもないからファルサスとしては構わないのだけれど……どうする? 面倒なら断るわ」
「うおっ、出張ですか」
まさか自分にそのような仕事が舞い込むとは思ってもいなかった。雫は頭の中に大陸地図を思い浮かべる。
メディアルと言えば、大陸北部に広がる大国の一つだ。先日エリクが行ったファルサス北部よりももっと北。
普通ならば移動にかなりの時間がかかりそうだが、大国同士であり国の仕事でもあれば転移が使えるだろう。
雫は少し考えて、まったく別のことを聞き返した。
「あの紅い本って、確か持ち主の人がメディアルで消息を断っているんですよね?」
「そうね。今のところ」
「じゃ、私、行ってきます」
ファルサスの調査隊が掴めなかった本の行方が自分に掴めるとまでは思っていない。
それでも、機会があるなら自分の目で問題の国を見てみたかった。
そもそもエリクが宮仕えを辞めたら二人でメディアルに向うのかもしれないのだから、国の後ろ盾があるうちに様子を確認しておいた方がいいだろう。
雫のあっさりした受諾にレウティシアは教師のように微笑む。
「ではお願い。ああ、護衛としてエリクをつけるわね。他にも何人か」
「エリクを? でも彼忙しいんじゃないですか?」
「いいのいいの。こないだのことがあるし、彼の方から行くって言うと思うわ。
 ―――― それに、今の彼は強いわよ」
美貌でも名を知られる王妹は形のよい指で自分の右耳をつついてみせる。
こうして雫は、ファルサス所属の研究者として、エリクと共に北の大国を訪問することになったのである。






ファルサスは温暖な国だった。キスクも暑くはなかったが暖かかった。
だからこの大陸は全土において暖かいのだと、雫が誤解していたのも無理はない。―――― 勿論そんなはずはないのだが。
「さ、寒い……」
ガタガタと震えながらの女の声に、隣にいたエリクは呆れ顔になった。
厚手の布を羽織って凍り付いている雫の全身を眺める。
「随分薄着だから、そういう健康法を試しているのかと思った」
「試してないです。指摘してやってください」
何だか泣きたいくらいだが、泣いたら涙が凍りそうだ。雫は柱だけで壁のない城の広間を見渡す。
確かに見える景色は絶景だ。随分高い場所に城を建てたのだろう。緩やかに傾斜していく土地には雪で彩られた街の建物が見て取れる。
その更に下には石の城壁と森林。左手には切り立った岩山も見え、自然の厳しさと美しさをよく感じさせてくれた。
視界全てを占める白と黒の鮮烈なコントラストは絵葉書にしたらさぞ人気が出るだろう。彼女は現実逃避がてらそんな評価を下す。
「絵葉書はともかく……何で壁がないんですか。嫌がらせですか」
「さぁ。そこまでは知らない。この場所に城都を置いたのは攻めにくくする為だっていうことらしいけど」
「冬将軍の前にはナポレオンも退却を考えます」
寒風が直に吹き込む広間には余計な装飾品はない。ただ黒い石床と白い柱があるだけだ。
ファルサスで着ていた正装の上に一枚上着を足し、更にショールを羽織っただけの雫は冷え切った両耳を押さえる。
普段の魔法着の上に防寒用の上着を着ているだけの、けれど少しも寒そうな顔をしていない男を、彼女は見上げた。
「エ、エリク、くっついていいですか?」
「……君はファルサスからの正式な使者兼学者としてここに来ている」
「うわあああ! 中に入れて欲しいいいい!」
「ここが中だよ」
真剣なのかそうでないのか分からない二人のやり取り。それを背後で聞いていた兵士たちは何とも言えない表情で沈黙を保った。
転移陣でやって来た彼らがとりあえずこの広間に通されてから十五分が経過しているのだが、ずっとこの調子である。
いい加減壁のある部屋に移動しないと、エリクはともかく雫が可哀想なことになりそうなのだが、メディアルの人間はまだ現れない。
雫が色々諦めてジョギングでもしようとした時、ようやく奥の扉が開いて案内の文官が現れた。一礼して扉の向こうを示す。
「面会のご用意が出来ました。こちらへ」
見も知らぬ人間が来てこれ程までに嬉しかったことはないかもしれない。
雫はほっと安堵すると、姿勢を正しメディアルの宮廷内部へと足を踏み入れた。

―――― ちなみに最初の広間に壁がないのは伝統的なものであり、その由来はいざと言う時狙撃が出来るようにする為らしい。
それを文官から聞いた雫はげっそりしてしまい、「何故狙撃が必要なのか」とは聞かなかったのだ。