黄昏 150

禁転載

メディアル国王ヴィカスは六十過ぎの小柄な老人だった。
この世界では人間の寿命は約七十年らしいので、かなり高齢な部類に入るのだろう。
謁見の間において数段高い玉座の前に佇む雫は、白髪が髪のほとんどを占めている王の容貌を無礼にならない程度に見上げる。しわがれた声が白髭の下から響いた。
「よくぞいらした。ファルサスの客人よ。異国の客……それも貴女のように若いお嬢さんに会うのは久しぶりだ」
「お目にかかれて光栄です、陛下。この度は生得言語の代わりとなる教育について、ご質問にお答えすべく参りました」
「うむ。儂も勿論興味があるが、儂の宰相が是非とも直接話を聞きたいと申すのでな」
ヴィカスはそこで、傍に控える男を示す。雫よりは一回り以上年上に見えるその男は「シロンと申します」と名乗った。
シロンは宰相とは思えぬ柔和な顔立ちをした男であったが、その中で灰色の両眼だけが雫を品定めするように注視してくる。
彼女はそれに気づいたものの、あまり気にしても失礼だろうと思い、表情には出さなかった。

一通りの挨拶が済むと、一同は同じテーブルについて具体的な話に取り掛かる。
雫は自分の話を始める前に軽く探りを入れてみたが、生得言語が戻りつつあるのはやはりファルサス城だけのことらしい。
症状の出た子供だけを隔離して実験を行っているという話に、彼女は年長の子供たちと幼児たちを一緒にしたファルサスとの違いを見出して一瞬考え込んだ。 隣を窺うとエリクは無表情であったが、彼は普段からあまり考えを表情に出さないので、このような場では尚更変わらないだろう。

本題に入ると、雫は持参してきた教材を広げ一つ一つに説明を加える。
それぞれの使用方法や視覚、聴覚効果、また実際の使用においてどういう効果を上げているかを彼女が要点立てて延べていくと、王はまるで若者のように興味津々といった顔になった。自ら率先して様々な質問を重ねてくる。
「この魔法具は面白い。角度によってそれぞれの絵と音を出すようになっているのか」
ヴィカスが手に取ったのは小さな銀の箱だ。
見かけも美しいその箱には各面の中央に硝子窓がはめ込まれており、覗くと中に絵が浮かび上がるという仕組みになっている。
また各面の隅に埋め込まれた水晶球に触れれば絵の名前が記録音声で読み上げられるのだ。
単価は安くないが子供たちには好評だった玩具を見やりながら、雫は苦笑を浮かべた。
「他の教材はまず大人が読み上げることを大前提として作ってありますが、これだけは音声を組み込んで作ってみました。
 言葉の学習において『聞く』ことが一番の早道ですので。魔法具で音声を補えば大人の手が回らない時でも学習が進みます」
「なるほど。便利なものだ」
「ただやはり最善は大人が傍にいて辛抱強く会話を試みることです。
 言ってしまえばこれら教材がなくとも、会話を諦めなければいずれ子供は言葉を身につけるのです」
強すぎはしないが、自信を窺わせる雫の言葉にヴィカスは考えながらも頷く。
かつては鋭かったのであろう眼光が、年若い女を穏やかに見つめた。
「実に面白い。それに、貴女の話を聞いているとこの病が恐れる程のものではないような気さえしてくる。不思議なことだ」
それは雫が欲しかった最たる反応だろう。
彼女は一瞬照れくさそうにはにかむと話を続ける。
「子供の教育において、言葉そのものを学ばせるという行為は決して回り道ではないと私は思っております。
 整然とした思考は口には出さずとも言葉を使用して為されるものでありますし、
 単語によっては名前を得て概念化されるからこそ、曖昧模糊とした状態から離れ『それ』として認識され得るものもあるでしょう。
 言葉は思考の道具であると同時に、思考に大きく影響を与える基盤でもあるのです。
 それを子供たち自身によってその精神に築かせることは、思考の成長においても大きな手助けになると考えております」
雫の説明に王は満足そうに微笑んだ。
そして、この日の面会はつつがなく終わりを告げたのである。






「面白かった」
壁のある賓客用の部屋に通された後、開口一番エリクが言ったのはそんな一言である。
今はもうさほど寒くはないのだが、つい半球型の暖炉に近寄っていた雫は振り返って連れの男を見やる。
「何がですか? 壁のない部屋がですか?」
「君の話が。言葉が対象を認識させるとか、言語が思考に影響を与えているとか。なるほどなと思った」
「ああ……私の世界は言葉の成り立ちからして研究されたりしますから。私も授業でそういうののさわりをやったんですよ。
 それに、やっぱりエリクと議論とかしてると思いますよ。思考は言葉がないと難しいなって」
何故「悲しみ」に『悲しみ』という名がついているのか。
それは決して単一の感情を示しているわけではない。
多種ある感情のいくつかを束ねて『悲しみ』と呼ぶからこそ、それはあたかも「一つのもの」「似たもの」として認識されている。
胸が痛むこと、泣きたくなること、喪失、痛み、それらのいくつか、もしくは全て。
形のないものは名前を与えることによって『それ』となる。
いわば言葉はそれ自体が思考の産物であり、同時により複雑な思考を形成する為の重要なパーツでもあるのだ。
「例えば、国によって対応すると思われている単語でも意味合いには差異があったりしますし、
 外来語が輸入されることによって、それの示す概念自体も持ち込まれたりします」
雫は暖炉から離れるとメモを取り出してエリクの座る椅子の前に戻る。
そこに『夢』と”dream”という単語を書くと、男に指し示した。
「例を挙げると日本語の『夢』って、昔は夜寝ている時に見る幻影だけを『夢』と言ってたんですが、
 英語の”dream”が輸入された時、”dream”には夜見る夢と将来の希望の両方の意味があったんです。
 その”dream”に『夢』という訳語を当て嵌めて以来、『夢』にはそれまでなかった将来の希望という意味も加わったんですよ」
「……へぇ。『ユメ』は後から二つの意味を持つようになったのか」
「です。特に日本語には漢字がありますから、同じ単語でも違う漢字を使えばニュアンスが変わります」
「その辺りは基本的な定義の中にも幅があって細かく分かれているんだろうな。
 どこまでを一つの単語にまとめるかに歴史と文化が出る……違う?」
「多分あってます」
エリクは雫の走り書きを手に取ると、じっとそれを見つめている。
また漢字が気に入ったのだろうか、と雫は思ったが、彼が口にしたのはまったく違うことだった。
「僕は今まで、言語の方がそこまで思考に影響を与えているとは考えてもみなかった」
淡々とした言葉。綺麗な顔立ちには若干の翳が差している。
何かを考え込んでいる時の彼の表情。
だがいつもより昏いそれを、彼女は怪訝に感じながらもまずは頭を回した。
「うーん。でもこの世界ではそれが当然なんじゃないですか? 言語がもともとあるわけですから。
 いわば身振り手振りとか……手を動かすことが思考自体に影響を及ぼすかどうかって考えるようなものでしょう?
 さすがにそれはきついですよ。私の世界も言語の変遷や複数言語があるからこういう問題を研究しやすいわけですし」
エリクは肯定も否定も返さない。
ただ雫の困ったような視線に気づくと、何処か自嘲ぎみに微苦笑しただけだ。
部屋にいくつかある窓の外は、全て白一色で覆われている。
のしかかってくるような厚い雲ばかりの空。
気づくとそこからは、舞い散るような雪が降り出していたのだ。






メディアルでの滞在は三日間を予定している。
雫は、エリクが与えられた別室に帰っていくと、夕食までの間に日記をつけるべくノートを取り出した。
荷物の上で眠っていたメアが石造りの机に飛び移る。
雫は新しい頁に日付を記して、ふとその数字が見覚えのあるものであることに気づいた。
「あ、もう一年か……」
「何がですか?」
「この世界に来てから。何かすごく早かったよ」
この世界では一月はきっかり二十八日であるのだから、元の世界からすれば一年に一か月分くらいは足りないのかもしれない。
それでもここでの一年が経ったことは確かだ。雫は大陸のあちこちを転々とした自身の足跡を思い出し、しばし物思いに耽る。
「新しいノート買わなきゃな……帰ったら街にでも出てみようか」
「お供いたします」
使い魔の相槌に雫は破顔した。
そうして彼女は忍び込んでくる憂愁を振り切ると、白いノートの上にペンを走らせる。
壁のない広間、雪景色、ヴィカスの問い、反応、そしてエリクとの会話。
それらを書きとめていった雫は、宰相として紹介されたシロンのことを思い出した。
雫と「是非とも直接話をしたい」と言ったわりに、一度しか質問をしてこなかった影の薄い男。
主君の前であるから気を使ったのか、それとももともと率先して質問をするような性格ではないのか、 判断がつかないながらも彼女は彼の質問だけを日記に記す。
―――― 「これらの絵本の話はどうやって考えたのか」と、それだけの質問を。






夕食に供された料理は煮込み料理が多かったが、その一つ一つが非常に美味だった。
黄金色のスープに浮かんだ青葉を雫は匙で掬い上げる。
キャベツに見えるが本当に同じだろうか。口に含むと蕩けるように柔らかく、甘い。
野菜独特の自然の甘さに彼女は顔をほころばせるともう一匙を口に運んだ。
「近頃ファルサス北部では魔族が現れるという話も聞きましたが、本当なのでしょうか」
「本当です」
王に代わって賓客を接待するシロンの問いに、エリクは平然と答える。
こういう質問に関してはほとんど雫の出る幕はない。その為彼女は、牛肉を野菜と共に煮込み、溶けたチーズを上からかけたものに夢中になっていた。
香草をよく使い全体的に薄味に抑えるファルサスの料理と比べ、メディアルの料理は素朴だが温かく味が染みている。
ナイフで切り分ける端から肉の断面をとろとろと伝っていくチーズは、視覚的にも実に魅力的だった。
「実は大分前からメディアルの西部でも魔物が多く出没しているのです。
 一時は誰かしら地方の人間が雇ったらしく、撃退の為の傭兵たちが相当数集まったのですが、彼らの大半も犠牲になったそうでして」
「魔物の動きは予測しにくいですから。余程慣れている人間か、集団で当たらないと撃退は難しいでしょう」
「仰る通りです。ですがこの時代、宮仕えの人間でも魔物と戦った経験がある者などそうはおりません」
食事を取りながらシロンの含みある話を聞いていたエリクは、ここで手を止めると眉を寄せた。
温められた部屋の空気よりも冷めた視線がメディアル宰相に向けられる。
「もし貴君が何らかの救援をファルサスに期待されるなら、それを本題として王に要請を送られた方がよろしいでしょう。
 僕には彼女の護衛という仕事の他に今回何の権限もない。従ってお答え出来ることもほとんどありません」
エリクの忠告は半分以上的を射ていたのか、シロンは慌てて「失礼しました。そういう意味ではなかったのです」と訂正する。
それを横目で見ていた雫は、確かにラルスは「ついで」の要請を受けるような人間ではないが、本気で要請しても受けてくれなそうだ、としみじみ思った。
が、思っても口にはしない。それはファルサス城に仕える者全てに共通することである。
ラルスに関しては前もって忠告をしようがしまいが関係ない。駄目なものはどうあっても駄目で、やがては皆それを思い知るのだ。
或る意味その最たる被害者である雫は、飾り切りされた果物に手を伸ばした。
どうやら素手で食べるものらしいので、滴る果汁に気をつけながら噛りつく。
大国の学者というよりは行儀のよい少女のように食事を進める彼女は、しかしその時、射竦めるように自分を凝視するシロンの視線に気づいて、小さく首を傾げたのである。