黄昏 152

禁転載

力が巡っていく。
それは女の魂を元として、高い岩山に囲まれた荒地に円を描く。
左回りで流れていく力は土地にたちこめていた魔の濃度を高め、人の立ち入らぬその場所を半ば異界へと変じさせていた。
凍えるような冷気と瘴気。
遮られた陽と腐り落ちる地。
忌まわしい歴史の果てに沈黙する廃都にて、聳えたつ城はただ荘厳な姿を佇ませている。
今は死と共に在り深く眠る城。
その巨大な塔の如き姿が衆目に曝される日が、もうまもなくに迫っていた。






様子がおかしい。
雫は遅ればせながらそのことに気づいたが、どうすればいいのか分からなかった。
とりあえずはシロンの詰問に正直に答えてみる。
「私の話のどれが問題なのか分かりませんが……盗品など知りません。何か誤解があるんじゃないですか?」
彼女は言いながら、一番最後に描いた絵本の話を思い出す。
貧しい盲目の娘の話。
元にした実話は謎が残る話であったが、雫はそれを排して子供向けに、正直者の娘がその心根によって救われる話へと変えた。
あれが「誰も知るはずのない話」だとしたら雫自身は何処でそれを知ったのか。思い出そうとしても何故か分からない。
男は困惑する彼女に向けて一歩踏み出した。
「誤解のはずがない。いいですか? 私は何も貴女が盗ったと言っているのでない。ただ手がかりを得たいだけなのです。
 けれど今までどれ程父が騒ごうとも、あんなものを大っぴらに探すことは出来なかった」
あれ、とは何なのだろう。
シロンは真剣そのものだが雫はそこからして分からない。彼女は緊張する自分の胸元をそっと押さえた。
だが彼は雫の困惑そのものを無視して続ける。
「私自身があれを利用しようというのではありません。あんなもの……本当かどうかでさえ疑っているほどだ。
 しかしあれが戻らなければ、いつまでも私は父の讒言に悩まされなければならない。
 だから、貴女に尋ねているのです。―――― あの話を何処で聞いたのです?」
「分、かりません……」
雫はこの状況よりもむしろ、何故記憶が上手く取り戻せないのか、そちらの方に恐れを抱いた。
こめかみを押さえて思考を巡らすが、どうしても思い出せない。あの話は何処から出てきたのだろう。
誰にも聞いた覚えがなく、読んだ覚えもない話の結末に彼女は喘いだ。

しかし、分からない答を探す雫を、シロンは言い逃れようとしていると取ったらしい。
彼は柔和であった顔を顰めると、声を低くした。
「教えて頂けないなら、貴女を安全な場所へは移せない……どういうことか、お分かりですね?」
間接的な脅迫に、雫もまた表情を険しくする。彼女は振り返って扉の前に立つ女官を一瞥すると、シロンに視線を戻した。
「私に危害を加えれば国交に影響が出ますよ」
「危害を加えるつもりはありません。素直に言うことを聞いてくださるならば」
「私は本当に分からないんです。何処で話を聞いたのかも……」
言いながら雫は、自分の言い分が説得力に欠けることを自覚していた。
絵本にまで描いておきながら、何処で元の話を知ったのか分からないなどということがあるはずない。
彼女は引き出しを何度も開けて探し物をするように頭を振った。その耳に失望の溜息が聞こえる。
「少し、時間を置きましょう。よく思い出してください。貴女は必ずそれを知っているはずだ」
目的を果たすまで雫をここから出す気はないと窺える言葉に、彼女は記憶を探る行為をひとまず諦めた。強い視線でシロンを見返す。
「帰してください」
「それは出来ません」
「実力行使しますよ」
雫は振り返ると扉の前に立つ女官を見つめた。仮面のように表情のない彼女を見たまま使い魔の名を呼ぶ。
「メア」
胸元に潜んでいた小鳥。
緑の色を持つ魔族は主人の呼び声に応えて姿を変える。
シロンと女官が少女を見て動揺したのが空気で分かった。

あの時、女官に引き摺られて部屋を飛び出した雫は、何もメアを部屋に置き去りにしてきたわけではない。
小鳥のまま追ってきた彼女を、振り返り腕を伸ばして胸元に引き取ったのだ。
護衛としてメディアルについて来てくれたエリクは、大抵の場合彼女と共にいてくれるが、それも四六時中というわけにはいかない。
その代わり「必ずメアを連れ歩くように」と彼から言われていたのである。
「メア、お願い」
「かしこまりました」
使い魔の少女は細い腕を上げる。同時に立ち塞がっていた女官の態勢が崩れた。だが女官は半ば膝を折りながらも詠唱を開始する。
魔法士だ、と思った瞬間、雫は気配を感じて振り返った。メアに短剣を振り下ろそうとする男に体当たりをする。
「扉を開けて!」
短い命令。メアは主人を気にしながらも放たれた魔法を相殺した。扉を破る為の力を練る。
その間に雫は、倒れたシロンの剣を取り上げようと彼の手に飛びついた。両手の指が剣の柄にかかった時、けれど男は陰鬱に囁く。
「―――― 子供が死にますよ」
脅迫とも言えないそれだけの言葉。
しかし雫は瞬間、虚を突かれて動きを止めた。男の手が白い首に伸びる。
扉が砕け散る破壊音。
魔法士の防壁を破って命令を遂行したメアは、だがそれ以上何も出来なかった。首に短剣を突きつけられた主人を見て息を飲む。
「マスター」
「……ごめん」
後ろに捻られた腕はもう少し力を加えられれば折れてしまいそうだ。雫は骨が軋む痛みと、喉に鋼の冷たさを感じて唇を噛んだ。
苦痛を堪えながら、うろたえるメアを見つめて口を開く。
「メア、エリクのところに行って」
「逃げれば彼女を殺しますよ」
「メア!」
―――― どうか行って欲しい。






見かけよりも遥かに頁数のある本。
それと論文をつき合わせて呼んでいたエリクは、激しく扉を叩かれる音に眉を上げた。本を閉じながら腰を上げる。
まだ夜更けには遠い時間だ。雫かメアでも呼びに来たのだろうか。
だがそれにしては叩く力が強すぎる。彼は返答をせずに鍵を開けた。そこには真っ青な顔の女官が立っている。
「た、大変です。お連れ様が……」
「雫が?」
後に続く説明の途中まで聞いて、エリクは部屋を駆け出した。廊下を曲がった先にある雫の部屋へと向う。
目に入ったのは兵士たちや魔法士の姿。そして無残なまでに破壊された扉と砕け散った硝子の破片だ。
破られた窓から吹き込む寒風を前に、彼は竜巻でも通り過ぎたような部屋の惨状を見て愕然とする。
『お連れ様が、魔族に攫われました』という女官の信じがたい言葉を、胸中で反芻しながら。



突然の魔族の襲撃による犠牲者は雫だけではなく、メディアルの人間も十数人死傷者行方不明者が出たという。
エリクはシロンから報告と謝罪を述べられ、しばし沈黙した。
―――― 護衛として来たにもかかわらず、むざむざ彼女を攫われたのは自分の責任だ。
こんなことになるのなら他国の城だからと遠慮せずに、床に紋様を刻んで結界を強固に張っておくべきだったろう。
しかしそれとは別に腑に落ちないこともある。
つまり、いつも主人と共にいるはずの使い魔は、何故いないのか。
死んでしまったならその痕跡が残るはずだ。なのに死体も血の跡さえもなく、ただ何処にいるのか分からない。
魔族が魔族を攫うことなどまずないことであるし、力を取り込む為食らおうとしたのなら、その場でそれをしただろう。
むしろ跡も残さずメアを攫えるような力のある魔族なら、メアを食らう必要など、はなからないのだ。
エリクは無表情ながらも探る目でシロンを見返した。
「魔族が何処に逃げて行ったか分かりますか?」
「おそらくは西の方だと。主に出没するのは国境近くの街々ですから」
「城内を調べさせてもらってよろしいでしょうか」
間髪入れない要求にシロンは顔を引き攣らせる。
それが狂言を疑われている為と分かったのだろう。
若くして一国の宰相を務める男は瞳に険を帯びてエリクを見据えた。だが、魔法士の男は平然とそれを受け止める。
二人が睨みあっていたのはほんの数秒でしかなかった。
シロンは視線を逸らしながら慇懃な声音で返す。
「よろしいでしょう。ご自由にどうぞ。
 ですが一通り探されて納得されたのなら、以後そのような発言はご遠慮頂きたい。
 今回のことは誠に申し訳ないことで御座いますが、我が国は貴国と永くよき関係を築きたいと思っておりますので」
一礼して部屋を出て行くシロンを、エリクは氷の如き目で見送る。
そして彼は一人になると、城の捜索よりも先にファルサスへと連絡を取るため部屋へ戻ったのだった。

「やられたわね」
要点を伝えてまず返ってきたのは、レウティシアの苦々しい声だった。
音声だけを遠隔でやり取りする魔法具はさすがに映像までは送らない。
だがそれでもファルサスにいる彼女がどのような顔をしているのか容易に想像がついた。女の呆れた声音が後に続く。
「面倒ごとが起きないよう貴方をつけたのに。一緒の部屋にいなさい。まったく」
「そう出来る時はそうしていました。が、僕の失敗だ」
シロンが時折雫におかしな視線を送っているとは気づいていた。
だが、結局は不審に思っていただけのまま相手に先手を打たれてしまったのだ。
先日の兄に続いての悔恨の言葉に、レウティシアは小さく溜息をつく。
「それで? メディアルがやったと思うの?」
「可能性は高いと思います。状況に不明な点が多い」
「狙いは?」
「断定は出来ませんが、彼女が攫われたということにしてファルサスの対魔族出兵を促すつもりかもしれません」
「そんな無茶な」
雫は確かに或る意味代わりのいない人材ではあるが、彼女一人を切っ掛けに軍を動かすことなどあり得ない。
第一兵権を握っているのはラルスなのだ。
ファルサスでの王の性格を知っている者なら誰でも、そのように馬鹿な考えには至らないだろう。

ただ―――― 軍は動かせなくとも個人が動く可能性はある。
たとえば現状大陸でも上位の魔法士に入るであろうエリクや、ファルサス王族であるレウティシアなどが。
この二日間でエリクがつかず離れず雫を守っていたからこそ、そのような判断に出られたのだとしたら裏目にも程がある。
エリクは通信用の魔法具の隣にあったペンを指で弾いた。それは勢いにのって机から落ちていったが彼は拾おうともしない。
「城内はもう探した?」
「まだ。しかし探してもいいと向こうから言うくらいだ。すぐに見つかるようなところにはいないでしょう」
「或いは本当に西に連れて行かれたってこともあるわね」
それが一番問題ある結末だ。
ファルサスの危機感を煽る為、雫を本当に魔族に攫わせたという事態が。
そうであるなら一刻の猶予もないだろう。
エリクはメディアル西部の街々のうち転移陣が配備されている街を記憶の中からさらい出した。
彼女は何処にいるのか、何が正解なのか、判断を要求する声が魔法具から響く。
「貴方はどうしたいの? エリク」
「西部に。代わりに城の捜索には別の人間を寄越して頂きたい」
迷っている時間はない。一番危険な可能性から潰していく。
エリクはレウティシアの了承を聞くと黒いカバーをかけた本だけを手に、転移陣を借りるべく部屋を出て行ったのである。