黄昏 154

禁転載

暗い土地。聳える城の一室で女は目を閉じている。
外界を凍えさせる冷気も、人の精神を蝕む瘴気もここまでは入り込まない。
灰色の石壁が囲む小さな部屋は、異界に取り越された現実のようだった。
雪よりも透明に光る銀髪。像のように固定された貌。
彼女は多くを語らない。彼と共にいる時は特に。
白い手は紅い本の上に置かれている。彼女の人生を変えることとなったその一冊を、男は異物のように見やった。
「アヴィエラ」
「何だ」
「明日には始めるぞ」
それが何を意味しているのか、知っているのは二人だけである。彼女は瞼を上げると笑った。
「性急な奴だ。上位魔族はもっと時間に鷹揚かと思っていたが」
人である彼女と、概念的存在である男とは元々の寿命からして違う。
老いもなく、決まった年月で死ぬということもない男の短気にアヴィエラは穏やかな目を見せた。
「好きにすればいいさ。いつでも意気のある者は挑んでくる」
「その中に俺を楽しませる人間がいるのか?」
彼が彼女に従っている理由とも言える問いに、女は歌う小鳥のように小さく息を吐き出す。

上位魔族たちの中でも「最上位」といわれる十二人のうちの一人が、人間に傾倒した異端児であったことは同族ならば皆よく知っている。
彼らにとって人間は塵芥にも等しい存在。興味を持つことなどはなからありえない。
だが、その男だけは違った。
人の時間にして千年近くもの間、男は人間界に下りて人に関わった。
権力の集まるところに紛れ込んでは、人心を操り揉め事を起こして楽しんでいた。
まったくろくでもない気紛れだ。子供の遊びにも程がある。
けれどそれは―――― いつの間にか気紛れではなくなっていたのだ。
男は、最後に一人の非力な人間を愛した。彼女を守りその生を支えた後、彼女の死と共に人間界を去った。
そしてそれ以来ずっと、同族の前にも姿を現していない。
あれ程力のあった男が、何故人間などという存在に惹かれたのか、彼には分からない。意味も見出せない。
ただほんの少しだけ興味を持った。
不変が満たす彼らの階層ではなく、常に揺れ動く不安定な階層に。
そこを這い回って生きる人間という存在に。それと共に在る時の感情というものに。
だから彼は、女の召喚に応じた。彼女に力を貸して世界を巡り城を作った。
それはまだほんの十数年のこと。未だ彼は人間の何が面白いのか分からない。
「人は美しいぞ、エルザード」
女はよくそう言って笑うが、彼は彼女の言葉の意味が分からなかった。

「エルザード、今はもうないものならばそれは一度もなかったものなのか?
 忘れられたものなら存在しないものになるのか?
 人間がみな平穏な今のみを見るのならば、その安寧の下に積まれた屍はどうなる。
 無数の可能性を無視し、小さき世界に堕していくのならば、人は人たる精神を持たないただの泥塊だ」
「元々泥塊のようなものではないか。脆くて弱い塵だ」
エルザードの相槌にアヴィエラは唇の両端を上げた。赤みがかった瞳に矜持と慈愛が浮かぶ。
人について彼がその儚さ指摘する時、何故彼女がいつもこのような目をするのかエルザードは理解できない。
ただ、それが分かる日が来たのなら、少しだけこの渇いた好奇心も癒されるような気がするのだ。






この状況を招いたのは自分の甘さである。
自分の失踪について、ファルサスには偽りの理由が伝えられているというのもあり、雫は現状を自力で何とかする為に思考を巡らせていた。
天井に吊られている籠は大分高い位置にある。きっと跳び上がっても届かないだろう。
見張りはいつも交代で一人。おそらくは魔法士だ。
彼らは自分たちの力に自信を持っているからこそ、雫を縛り上げたりはしない。
それは彼女にとってはプラスとなるはずだ。雫は黙って好機を待った。

「これ、風味が足りない」
そんな不満を雫が口にしたのは、監禁されてから三日目の昼のことだ。
根菜と豚肉を煮込んだ塩味のスープを出された彼女は、それを一口食べて唇を曲げる。
食事を運んできた魔法士の男は彼女の呟きに不愉快そうな目になった。
「黙って食べろ。食事を出してやってるだけでありがたいと思え」
「不満ぐらい言わせて欲しいな。もうすぐ死ぬかもしれないのに」
軽いながらも諦観を漂わせる女の笑いに、魔法士は沈黙する。
少女にしか見えない女に処分という結末しか待っていないことを彼も知っているのだろう。目の奥にほんの僅かな罪悪感が見て取れた。
雫はそれに気づかない振りをして笑ってみせる。
「シロンさんは私が魔族に殺されれば、ファルサスも少しは魔族討伐に腰を上げるかもしれないって思ってるんじゃない?
 これって一石二鳥だよね。それとも死人に口なし? 実際はそう上手く行かないと思うけど」
「……お前はファルサス王に気に入られているということではないか」
「またその噂!?」
もう本当に勘弁して欲しい。
雫は心中で「王様、さっさと結婚して」と強く願った。しかしそれとは別に、落ち込んだ顔で大きく溜息をつく。
「というわけで不満くらい大目に見てよ。あとチピス持ってきてくれるともっと嬉しい」
「我儘を言うな」
「やだ」
チピスとはファルサスでよく用いられる香辛料の一つで、料理に振りかければピリッと辛みを足す白い粉だ。
男は彼女の要求を一度は拒否したものの、それくらいならばと思ったのだろう、女官を呼びつけるとチピスの瓶を持ってこさせた。それを雫に渡す。
「ありがとう!」
「かけすぎるなよ。ファルサスの人間は皆それを好むらしいが」
国の間での味覚の違いを窺わせる言葉を吐きながら魔法士は背を向けた。雫は受け取った瓶を逆さにしてしきりに振った後、首を傾げる。
「これ、瓶詰まってるよ」
「そんな馬鹿な。見せてみろ」
振り返って身を屈めた男に、雫は瓶を差し出した。小さな穴が空いている箇所を指差す。
「この奥に何か引っかかってるみたい」
「どれ」
彼が目を見開いた瞬間、彼女は右手を素早く動かした。
手の中に握りこんでいたチピスの粉。それを男の目目掛けて投げつける。魔法士は突然の熱い痛みに、悲鳴を上げて目を押さえた。
「―――― っっ! 貴様!」
痛みで開けられない両眼。
だが彼女を逃がすわけにはいかない。それくらいだったら傷つけた方が余程ましだ。
男は手の中に光球を生むとそれを闇雲に打ち出そうとする。
しかしその瞬間を狙って、雫は男の腕に飛びついた。下から腕を持ち上げある方向へと向ける。
打ち出された光は、そのまま天井の鎖へと当たって高い音を立てた。落ちていく籠を雫は空中で受け止める。
「ごめんね!」
「待て!」
扉に鍵はかかっていない。女官がチピスの瓶を持ってきた時に開けられたままだったのだ。
雫は未だ目を開けられない男を振り切って部屋を飛び出す。

与えられた部屋への道順は覚えている。
けれどそこに向うのは命取りだろう。エリクがもうこの城にいないというなら尚更だ。
雫は眠るメアを閉じ込めた籠を抱えて、長い廊下を全速で走った。途中前方から人の気配を感じて角を曲がる。
―――― こうなってはもうこの城全体が敵地だ。
ひとまず何処かに隠れて、メアの籠を開けるしかない。
しかしそう思っても、何処が人の来ない場所なのか一見では判断がつかなかった。
何度か角を曲がった後、倉庫と思われる部屋を見つけて足を止めると、雫は扉に手をかける。
けれどその時、廊下の向こうから「いたぞ!」という兵士たちの怒声が響いた。早くも追っ手が出されていたのだろう。彼女は慌てて身を翻す。
「本っ、当っ、に! もう!」
どうしてこんなことになってしまったのか。
自分の不甲斐なさにも、シロンにも腹が立って仕方ない。
徐々に上がっていく息に雫は忌々しさを覚えながら幾つもの角を曲がった。
脇腹の痛みと全身を巡る血。
背を伝う汗を自覚しながら雫は走り―――― そして、最後の角を曲がったところで立ち尽くす。
「困ったことをしてくれたものです」
陰鬱な声、灰色の瞳。
真っ直ぐに伸びる廊下の中央で彼女の行く手を遮る男は、数人の兵士たちを引き連れたこの国の宰相であった。



「貴女はどうやらじっとしていられない性分らしい。しかし、それではこちらも迷惑なのです」
「私もあなたの野心が迷惑です」
間髪入れず言い返してやると、シロンは奇妙に顔を歪めた。年下からの反論に慣れていないらしい苛立ちが揺らいで見える。
憤りを剥きだしにする彼女とは対照的に、煮え切らない激情を無自覚に抱え込んだ男は、表面上は冷静に反論した。
「私に野心などない。己の職務をまっとうできればそれで満足です」
「なら、あれを探さなければいいんじゃないですか? あなたには必要ないんでしょう?」
「あんなものが他国の手に渡れば、それも困ります」
「ファルサスは壊す気満々ですけどね」
さすがに五人以上の兵士を相手に突破は出来ないだろう。雫は振り向かないまま背後の気配を探った。反転する時を見計らって息を整える
とりあえずは隙が必要だ。けれど確実な手段はない。
彼女は自分の考えている揺さぶりが吉と出るか凶とでるか、自信のないまま意を決すると口を開いた。
「正直に言えばいいじゃないですか。あなたはあれが欲しいって、秘された歴史を記したあの紅いほ……」
「捕らえろ!」
明かされてはならない秘密。
それを曝け出されかけたシロンの叫びは、彼以外の全員を動かした。
兎のように俊敏な動作で逃げ出す雫を追って、兵士たちが走り出す。
直線ではいずれ追いつかれる、そう判断した彼女は二番目に見えた角に飛び込んだ。すぐそこにあった両開きの扉を押し開き、そこで足を止める。
「……ちょっ! ここか!」
初めてこの城に来た時に通された壁のない部屋。
雪混じりの寒風が吹きすさぶ部屋を前に雫は息を飲んだ。引き返そうとした瞬間、けれど背中を強く押され部屋の中に倒れこむ。
氷のように冷え切った床。その上に膝をついた彼女は、慌てて落としてしまった籠を拾い上げた。体を捩って背後を振り返る。
しかしその時には既に、扉は男の手によってまさに閉められるところであった。細くなる隙間から灰色の目が彼女を見つめる。
「貴女は少し頭を冷やした方がいい」
「待っ……!」
伸ばした手。そのすぐ前で扉は閉ざされた。鍵を掛ける音が聞こえ、彼女は凍りついた部屋に取り残される。
「嘘でしょ……」
またたく間に体温を奪っていく外気、肌を刺す冷たさに、薄い室内着のままの雫は籠を抱えて身を震わせた。
見渡す限りの景色に人の姿はない。他に誰もいない。
ただ雪と遠い街並みだけが窺える風景を前に、閉め出された彼女は緊張の息を飲み込むと何も言えぬまま大きくかぶりを振ったのである。