黄昏 155

禁転載

雫が行方不明であると聞いたターキスは詳しい事情を知りたがったが、危急時ということは把握したのだろう。
メディアルに来てからのここ二ヶ月間に得た情報を、駆け引きなしにエリクに教えると請け負った。
代わりとして奢られた酒を自分のグラスに注ぎながら、彼は酒に手をつけない魔法士を見やる。
「俺だけ飲んで悪いな」
「いいよ。それより早く教えて」
「まぁ待て。素面で話すのはきつい。あそこまで酷い仕事に参加したのは初めてだったからな」
傭兵として長くやってきたことが分かる豪胆な男が、こうまで言うという事態に、エリクは眉を顰めた。
魔族の襲来はファルサスでも起きたことであるし、実際その対応に出向いたエリクも魔物と交戦する機会はあったが、それは凄惨というほどの戦闘にはならなかったのだ。
しかし目の前の男の表情は確かに昏い。憂鬱と言ってもいい視線が酒を湛えたグラスに落ちた。
「もう二ヶ月以上前のことだ。俺は魔族退治の仕事が多いと聞いて、魔法士の女とこの国に来た。
 実は魔族狩りってあんまり得意じゃないんだが、連れの女が戦争よりもそっちの方がいいって言ったんでな。
 実際、この街についてすぐ仕事は見つかった。一人の女が傭兵を大量に雇い上げて、ここら一帯で対魔族の指揮を取ってたんだ」
「女? 城の人間か誰か?」
「違う。領主や貴族筋でもない。単なる個人だ。でもかなり腕の立つ魔法士だった。転移門をぽんぽん開いて傭兵たちを移動させてたからな」
襲撃が始まった初期には実際多くの傭兵が集まり、魔物の迎撃を行っていたのだとシロンから聞いた。
しかし彼らの多くは今や何処にもいない。
それが何を意味するのか目の当たりにしてきたのであろうターキスと大体を察しているエリクは、酒気よりも重く淀む気鬱を感じながらも、だがそれに引き摺られはしなかった。続きを求められる空気にターキスはグラスをテーブルに置く。
「俺たちは、何度か街での防衛を果たした後、最後に国境を越えて西の高山地帯へと踏み入った。
 そこに魔族たちの大本があるんじゃないかという雇い主の推測に基づいてな。
 実際そこには、今までとは比べ物にならない程の魔物がいた」
「多かったの?」
「質も量も、って奴だ。山に囲まれた荒地で戦闘になったが、ほとんどの奴らがここで死んだ。
 今思い出しても酷い有様だったよ。人も魔物もぼろぼろになって死骸が無数に積み重なってた。
 街から攫われてきたらしい女の死体とかも混ざっててな。それらは半ば腐って酷い匂いを放ってた」
男の瞳は瞬間、ここではない何処かを見やるように宙に向けられた。
そこにどれ程の惨状が映っているのか。ターキスは目を閉じると笑う。
「で、俺を含め生き残った人間たちは何とか離れた場所まで撤退したんだが、その内の何人かがもう一度戦いに行くって言い出してな。
 雇い主も死んだし皆はもうやめようって言ったんだが、それを振り切って十人程が荒地に戻ったんだ。
 ―――― だが、奴らはすぐに蒼ざめて戻ってきた」
「城があったから?」
それが、エリクの一番気になっていたことだ。
懸念よりも深刻な疑惑。
出来れば否定が欲しいと思っていた確認に、けれどターキスはあっさり頷いた。
「お、知ってんのか。そうだ。さっきまで何もなかった場所に城が建っていた。
 それでようやく怖くなったらしい奴らを加えて、全員で街に戻ると後は口を噤んだ。
 城が突然現れたなんていったら正気を疑われるだろう?」
大きな溜息はどちらのものか判別がつかない。エリクは前髪の下の額を指で押さえた。苦い声で返す。
「疑わないよ。上位魔族がいるならそれくらい出来る」
「上位魔族!?」
かつて大陸中を覆った戦乱と裏切りの暗黒時代。
その時代には「神」とも呼ばれた存在が突如持ち出されたことに、傭兵の男はあんぐりと口を開けた。
しかしそれについて詳しく説明する気などないエリクは、軽く指を弾いてターキスの意識を引き付けると気になったことを問う。
「それより一つ聞いていい? 雇い主ってどんな人間だったの? 何で個人で魔族討伐をしようとしたのか知ってる?」
傭兵への報酬は基本的に全額が前払いだ。
個人で大量の傭兵を集めたと言うことは費用だけでもかなりのものになっただろう。
その女は何故、国に任せずそこまでして自分で魔族討伐を行おうとしたのか。魔族の本拠地の情報はどうやって得たのか。
あまりにも不透明で見えて来ない状況に、エリクは思考材料の不足を感じ取った。問われたターキスは腕組みをして首を捻る。
「うーん、動機は知らないぞ。聞かなかった。恨みや使命感に駆られてって感じでもなかったし、いつも飄々としてたな。
 容姿は、銀髪の美人で二十代後半。目は赤茶だったかな。さっきも言ったとおり魔法士だったぞ。
 かなり強かったが、乱戦の中いなくなっちまった。若い女だったし食われたんだろうな」
「名前は?」
「アヴィエラ」



―――― ざわめく。
砂に打ち寄せる波のように、予感がざわざわと音を立てる。
風の強い夜のように。月が届かぬ暗闇のように。
似たような容姿の女などいくらでもいる。
それでも積まれた思惟が彼に囁くのだ。『見つけた』と。



エリクは横に置いておいた本をテーブルに乗せた。黒いカバーを剥ぎ取り、紺色の表紙を曝け出して示す。
「その女は、これの紅いやつを持っていなかった?」
おかしなところは何もない質問。
けれど大陸の根底に関わる問い。
期待と恐れをないまぜにしたかのような間に、ターキスは題名のない本を覗き込む。
「……ああ、言われてみれば似てるかも。革張りで装飾がしてあって題名がない。
 俺も近くではっきり見たことはないけどな」
題名のない本。
その紺色の表紙は何も語らない。頁を捲らなければ何も得られない。
それでも、望みさえすれば膨大な知識を与える異物を見やって……エリクは事態の混迷に、片手で顔を覆って息をついたのである。






「寒い」という言葉には収まりきらない。
むしろこれは「痛い」と言ったほうがいいだろう。雫は全身に突き刺さる痛みを堪え、籠を抱えたまま雪の中を進んでいく。
監禁されていた部屋を何とか逃げ出したのはいいが、代わりに極寒の外へと閉め出されてしまった。
これは彼女に対する罰か、或いは凍死でも狙っているのだろう。
曇天の下、降り始めた雪を見上げて雫は白い息を吐く。
着ているものはとても外を歩けるような厚みのあるものではない。
このまま何時間も外にいれば風邪を引くどころか本当に死んでしまう。
だが、彼女は開いている場所を探して城の中に戻ろうとは思わなかった。
向こうも最初からそれを警戒しているだろうし、もっと言うなら待ち構えているかもしれない。
そうなっては何の進展もなく、また捕らえられ監禁されてしまうだろう。
むしろこうして外に出られたのはきっと幸運だ。
メディアル城都の城壁は、街と城を一緒に囲んでいるのであり、城と街の間には何の壁もない。
ただ街から伸びる一本の道に衛兵が立っているだけで、周囲は長い雪の斜面があるだけだ。
彼女たちがファルサスから来た時は、坂の下にある転移陣に出てそこから道を登ってきた。
だから今回も坂を下りて転移陣のある建物に侵入するか、もしくは一旦街にでも隠れてしまえば何とかなるだろうと雫は思っていた。

狙撃や衛兵に見つかることを恐れて、道ではなく厚く積もった雪の上を一歩一歩踏みしめながら、彼女は遥か遠くに見える街へと下りていく。
「メア、ごめん……ちょっと待ってて……」
籠の中に囁くも返事はない。
試みてはみたものの、結局魔法具らしきこの鳥籠を開けることは、雫には出来なかったのだ。
とっくに感覚のなくなった指に息を吐きかけて、彼女は棒のように固くなった足を前に出す。
踏み出すはしから足はずぶずぶと沈みこみ、徐々に冷水が爪先から染みこんできた。
髪の上に舞い散る白。
耳が千切れそうな程に痛い。
この城都全てを閉ざすは雪は容赦なく彼女の体温と体力を奪い、凍える空気中へと拡散させていく。
雫は真っ赤に膨らんだ十指を一瞥すると、雪から籠を庇うようにしっかりと抱き込んだ。深く沈んだ足を引き抜き、前へと動かす。
「さむ……」
歩き出してからどれくらい経ったのか。まだ坂は終わらない。
そりでもあればよかったな、と考えた雫は笑おうとしたが、顔が強張って動かなかった。遠い街並みを見つめる。
元々監禁されてからというものの、床の上に蹲るばかりでろくに眠っていない。
けれど疲労を自覚した瞬間、眠気が襲ってきそうで、彼女はただ歩くことだけに意識を集中させていた。重い右足を踏み出す。
「あ……っ!」
唐突に揺らぐ視界。
前のめりにバランスを崩して雫は倒れこんだ。籠を抱いたまま顔が半ば雪に突っ込む。
踏み出した場所が思ったよりも厚く積もっていた場所だったのだろう。底なし沼のようにそのまま足を取られて転んでしまったのだ。
雫は無事な左膝をつくと、めり込んだ足を引き抜こうとする。
「あれ……抜けな、い……」
見ると右足は太腿の付け根まで雪中に入ってしまっていた。これを戻すにはかなりの力が要りそうである。
彼女は一旦籠を置くと両手を雪の上についた。けれど力を込めようとしたそばからその手も雪の中に沈んでいく。
途端に彼女はぞっとして横に転がると腕を引き抜いた。
無理な捻り方をしたせいか埋まったままの足の付け根にまで鈍い痛みが走る。
「っ……痛いな……もう」
しかしそれでも、深く嵌りこんだ右足はびくとも動かない。冷たさで感覚も薄らいで行き、もはや自分の体とは思えなかった。

見上げる空は圧し掛かってくる程に近かった。
螺旋を描いて落ちてくる雪片を彼女は横目で見つめる。
「あー……最悪」
全身がとても痛い。目に見えない程小さな針を押し当てられているかのようだ。
だがそう思ったのも束の間、すぐに眠気が逆らえない圧力となって雫に押し寄せてきた。
体ごと深く沈み込んでいくような重さに、恐怖さえも不思議と薄らいでいく。
「ねむ……」
ちょっと休憩してもいいかな、と思う。
少しだけ休んで、また歩き出せばいい。まだ時間はいくらでもあるのだから。
投げ出した腕が何かに当たった。けれどそれが何かを確かめる力もない。
彼女は睡眠時間を削って勉強していた受験時代を思い出し、口元だけで微笑んだ。凍りついた睫毛を揺らし目を閉じる。
怖いことはない。何処にもない。
ただ会いたかった人間の顔だけを思い出して、雫の意識は吸い込まれるように落ちていった。