黄昏 157

禁転載

両手で包み込んだカップは確かな温かさを伝えてくる。
砂糖をたっぷり入れた牛乳に口をつけて、雫はまた体を震わせた。毛布にくるまりながら呟く。
「さ、寒い……」
「当たり前だ、馬鹿。あのままいたら死んでたぞ」
扉を蹴り開けるようにして戻ってきた男を雫はぼんやりした目で見上げた。まだ血の気が戻りきらない手を上げて挨拶する。
「ありがとう。遭難救助隊」
「ふざけてるのか?」
オルティアの命を受けてやって来たニケは、見るからに嫌そうな顔になると雫の額を指で弾く。
彼女は「あいた!」と悲鳴を上げると寝台の隣に座った男に「助かりました。ありがとうございます」と礼を言い直した。

雪の坂を下りていて途中はまってしまったことは覚えているが、どうやらそのまま気を失ってしまったらしい。
気がついた時、雫は雪の上でかつて同僚であった男に顔を覗き込まれ、ひたすら頬を打たれていたのだ。
「馬鹿だと思っていたが何をやってる! 死ぬぞ!」
意識が朦朧としていた雫には、言われている意味を理解することはほとんど出来なかった。
ただ体を支えてくれている男の腕がとても温かいものに感じて、これでようやくちゃんと眠れると思ったくらいである。
しかし彼女の希望とは裏腹に、ニケは「寝るな阿呆!」と叱りながら彼女を麓の宿屋に運び込むと、彼自身は女王の命を果たす為に出て行った。
その間に宿屋の女将の手を借りて着替えた雫は、体温の戻りきらない体で縮こまりながら男の帰りを待っていたのである。
「今回は本当に死んだと思った。危なかったよ」
「俺も死体だと思った。ほとんど凍ってたからな。お前は両生類か何かか?」
「一応人間です」
凍傷になっていた部分は魔法で治してもらったが、長時間薄着で外にいた寒さはそう簡単には抜けきらない。
ガタガタと震えながら雫は久しぶりに会う気がする男を見上げた。
「シロンさんは何だって?」
「話にならないから王に直接事情を説明してきた。が、あの王は駄目だな。
 お前を監禁したことは知らなかったらしいが、宰相を疑えないときている。さっさとこの国を出たほうがいいぞ」
「あーう」
初日に面会した時は物分りのいい優しげな王に思えたのだが、自身の臣下の暴挙を疑えないのはその優しさの為なのかもしれない。
雫は男の手から小鳥を受け取ると、その冷たい体を胸元に入れた。
彼が雫を見つけられたのは、彼女が倒れた時にメアの籠を転がしてしまった為らしい。
籠はそのまま坂の下へと落ちてゆき、ちょうど自身の転移を使ってメディアルを訪れたニケに拾われた。
それを雫の使い魔と知っていた彼は、籠の転がってきた方向を辿って半ば凍りながら眠っている彼女を見つけたのだ。
「メア、大丈夫だよね?」
「魔族はそれくらいじゃ死なん。そのうち起きるだろう」
「うん……ありがとう」
礼は後でオルティアにも言わなければならないだろう。
城の捜索で雫を見つけられる可能性が低いと踏んだファルサスは、むしろ自国の兵を下げさせることでメディアルの油断を誘った。
その上で、入れ違いになるようにキスクを動かして、揺さぶりをかけることにしたのである。
「俺は寛大で通ってるけど、お前は残虐で有名だからな。お前の方が効き目あるだろ?」
とラルスから要請を受けたオルティアは怒りで血管が切れそうになったらしい。雫はそれを聞いて心中で姫に謝罪した。

飲み干したカップをテーブルに戻すと、彼女はまだ感覚が鈍い気がする指を動かしてみる。
「何だ? 違和感があるのか?」
「少し。ちゃんと動くんだけど」
「凍傷で黒くなっていたからな。適当に治したつもりだが」
「適当!?」
多くを問う前にニケはひょいと彼女の手を取る。自分のものより大きな手の伝えるものに雫は目を瞠った。
「あったか! すんごいあったかいよ! 人間カイロ?」
「……お前が冷えてるんだ」
「そっかー。それにしても温かい」
雫はひとしきりニケの手に触れて温度を取り戻すとようやく手を離す。
しかしその時、彼女は逆に手を掴まれ体ごと引き寄せられた。
急に至近になった男に雫はぎょっと目を丸くする。以前別れ際に何をされたのか、忘れかけていた記憶を思い出したのだ。
真意の分からない男が腰に回してきた手を意識しながら、彼女は強張った笑顔を浮かべる。
「ニ、ニケ、ファルサスに連絡いれてくれた?」
「さぁ? どうだったかな」
それは彼に拾われてすぐ雫が頼んだことだ。自分が無事で、メディアルの城都にいると伝えなければならない。
彼女は違和感の残る両手を軽く上げると、もっとも気にかかっていることを口にする。
「早くしないとエリクが……」
「…………」
空気が凍る音が聞こえたのは幻聴だろう。
けれど雫は、まったく分かっていないながらも肌に感じる気配で「しまった」と感じた。
地雷を踏んだ、とはこういうことを言うのだろうか。男の目が不穏に細められる。
「―――― お前は本当に嫌な女だ」
「ご、ごめ……?」
何だか非常に不味い。
雫は動転しながらも顔を背けようとするが、顎を掴んで固定された。いつかと同じように男の顔が近づく。
思わずぎゅっと目を瞑ってしまったその時―――― しかし彼女に聞こえたのは空を何かが切る鋭い音だった。
男の手が緩んだのを感じ取って雫は体を引きながら目を開ける。
「うわっ!」
それを見た瞬間、叫び声を上げてしまったのは無理からぬことだったろう。
目の前で苦い顔のまま硬直している男。そのこめかみに刺さる寸前の空中に、小さな金色の矢が静止していたのだから。



「無事でよかったわ、雫」
「レウティシア様」
絶世の美女と皆が賞賛するファルサス王妹レウティシアは、一分の隙もない笑顔で微笑みながら部屋の中に入ってきた。
上司がわざわざ来てくれたことに雫は慌てて立ち上がりながら、けれどやはり動けないままの男を振り返って問うことにする。
「あの、この矢って……」
「ああ。貴方が『あの』キスクの魔法士ね? 今回はどうもありがとう。余計なことしたら殺すわよ。女王にもよろしく言っておいて」
「…………」
途中にとんでもない脅しが混ざっていた気がする。
何故ニケがレウティシアを恐れているのか、その理由が垣間見えた気がして雫はそれ以上の質問をやめた。
王妹が指を弾くと金色の矢は跡形もなく消え失せる。
つきつけられていた刃が退かれたことで、ニケはようやく立ち上がると儀礼的な挨拶を施した。
しかし、その挨拶が終わるか終わらないかのところで別の声が割り込んでくる。
「何だお前、この娘が欲しいのか。いいぞ、くれてやる」
「兄上! 勝手にやらないでください! 卑怯ですよ!」
「レティのやることも大概だと思うけどなー」
「……あの、私の人権は一体……」
何故王までもがこんなところに来ているのか。
レウティシアの後ろに現れたラルスは妹の頭をぽんぽんと叩きながら背後にある廊下の窓を指し示した。
雪の汚れで見通しの悪い硝子の向こうには、白く聳える山が見えている。
「ここにはまだ来ていないのか? あの宣戦布告は」
「宣戦布告?」



それは、歴史に刻まれる祈り。
血と絶望に彩られた試練。



黄昏時にさしかかろうとしていた街。
その空はしかし、王の言葉を待っていたかのように突如闇に閉ざされた。
日蝕時の如く全てを影が覆い、黒い靄が上空に揺れる。
明かりも少ない街は途端、異界に落ちたかと思う程に世界から切り離された。
残り僅かな陽光を遮って宙をたなびく瘴気に、雫とニケは唖然として窓の外を見つめる。
「ほら、来たぞ」
ラルスは不敵に笑いながら窓を開け放った。
困惑は街の他の住民も同じらしく、あちこちの窓が同様に開けられ、人が空を見上げているのが分かる。
畏れと戸惑いが視線として集中した空。
天変地異としか思えぬ光景の中、けれど空中に一人の女が現れた。
見覚えのない貌。
細身の黒いドレスは首元から足先までを覆っている。
長い銀髪はそこだけ月光を受けたかのように淡い光を放っていた。色の分からぬ瞳が眼下の街を見下ろす。
まるで現実味のない存在。
しかし女は紅い唇を開くと、何処までも響く声を降らせた。
「―――― 暗黒が、来たる」



翻弄された幼子の結末。
埋もれた歴史の果て、失われた記憶の続きに、人は生まれ続ける。



「暗黒が来たる。闘争がやって来る。
 安寧にまどろむ人間たちよ。今再び、闇に怯え死を恐るる時代が来た」
朗々と紡がれる言葉。
それは何を意味するのか。ラルスは笑い、レウティシアは目を閉じる。
「罪のあるなしにかかわらず、闇はお前たちを蝕み、腐らせていくだろう。
 理不尽な終わりがそこかしこに溢れ、守るべきものは失われていく」



かつて、大陸を七百年の長きに渡って支配した時代があった。
間断なく戦が人と大地を灼き、数多の国が作られ倒れる時代が。
奪いしものが奪い去られ、育てしものは蹂躙される暗黒の時代。
その再来を宣言するような言葉に、雫は息を止めて立ち尽くす。



「死が降り積もる。例外は何処にもなく、絶望は等しく与えられる。
 境界は薄らぎ、負が世界を浸していくだろう。
 ―――― お前たちがそれに屈して敗北するのならば」
女の声は、淀みもなく濁りもなく、ただ意志を持って透き通っていた。
美しいと思わせる、だが言うことを憚らせる気高さを以って彼女は笑う。
「その意気があるのならば、人よ、挑め。
 力を見せ、喪失を退けよ。
 血と怨嗟の頂に辿りつきし者こそが新たなる王として、この大陸を手に入れるだろう」
女は息を切るとふっと微笑んだ。
雪に覆われた世界を見回す、その一瞬だけ今までの鋭さが消え、母が子を慈しむような光が両眼に浮かぶ。
矛盾にも思えるその光。けれど雫の視線はその一点に引き寄せられた。
そして彼女は最後に謳う。
「私の名はアヴィエラ。七番目の魔女。時代の終わりと始まりでお前を待っている」






女の姿が掻き消え、闇に閉ざされていた街に黄昏の光が戻ると、雫は隣にいたラルスを見上げた。
問う語尾が自然と震える。
「何ですか今の……」
「宣戦布告だろ? 魔女の」
「ま、魔女って」
「ただの人間だ」
暗黒時代の次に大陸を支配したのは魔女の時代。
その魔女さえも忌んだという剣を持つ王は何と言うことのないように言ってのけた。
傲岸な青い瞳が雫の頭上を越えて、廊下の先を見やる。
「それで? 何処に来いって?」
「ヘルギニス跡地。新たな城が建っていました」
「エリク!」
返答と共に現れた魔法士は、雫を見て刹那、判別出来ない複雑な目をした。駆け寄ろうとする彼女を手で押し留める。
「魔物の返り血浴びてるから。寄らない方がいい」
「すみません! 私……」
「謝るのは僕の方。無事でよかった」
エリクはニケに視線を移すと「ありがとう」と会釈した。言われた方は何故か苦い顔で「礼を言われる筋合いはない」とそっけなく返す。
「城の中も少し見てきましたが、かなり広いですね。中の空間が歪んでいて見た目以上に広くなっています」
「そこにあの『魔女』がいるのか?」
「おそらく。城都に現れた上位魔族も」

変革が始まる。
暗黒の再来とその打破が近づいている。
雫は自分の中が物言わずざわめくのに気づいて胸を押さえた。冷たい使い魔の体に触れ息を殺す。
何故こんなにも不安を覚えるのか。視線を彷徨わせた先でエリクと目が合うと、彼は眉を顰めた。珍しく迷いが男の顔に現れる。
しかしすぐに王の力ある声がその場を叩いた。
「まだ何かあるんだろう? 言え」
逡巡するのは知っているからだ。
エリクは自分に視線が集中すると表情を戻した。温度を感じさせない瞳がラルスを見返す。
「あの女は、紅い本の所有者です」
探していたものの行方。
その言葉に絶句したのは雫だけだった。
レウティシアは溜息をつき、ニケは怪訝そうな顔になる。
ラルスは喉を鳴らして笑うと昏い空を見上げた。



日が落ちていく。
短い黄昏が幕を下ろす。
そうして始まる長き夜は、この大陸において類を見ないものになるであろう。かつての闇に届く程に。
雫は眩暈にも似た揺らぎを覚えて額を押さえる。浅い息を吐いて目を閉じる。
始まりと同じ闇。
手が届きそうで触れられないそれが、世界全てを覆っていくような気がして。