人の祈り 158

禁転載

闇が押し寄せる。忘却によって遠い彼方に置き去りにされた闇が。
長い夜が始まる。それは人々の精神を変質させていく。

闇に怯える無力な者には、忘れえぬ戦慄がもたらされるだろう。
力なくとも戦う意志のある者には、死と賞賛が。
そして、力と意志を兼ね備えた人間には真実が与えられる。

かつて一つの時代が終わり、そして始まった廃都。
魔に堕ちた地に聳える城は、沈黙と共にその姿を曝け出していた。






何処で選択を誤ったのだろう。
シロンはそれを繰り返し自問してみるが、どうしてもこれという答を取り出せない。そもそも今が本当に誤っているのかも分からないのだ。
彼は震える手で書類に署名をするとそれを文官に渡す。
軍を編成し、国境を越えた先へと動かすというその内容は王の手を経て実行に移されるだろう。彼は昨日のことを思い出す。
「さて嘘つきはどういう目にあいたい?」
逃げ出した少女を小脇に抱えて突如現れたファルサス国王は、そう言ってシロンを見下ろしてきたのだ。
まさかこんなことになるとは思わなかった。これでは一人の少女を切っ掛けに大国二国を相手取ることになりかねない。
遠い暗黒時代にはそうやって一人の女により三国が滅んだという話も残っているが、その時の女は大層な美女だったと伝えられている。
それに比べれば彼が捕らえた少女は変わった顔立ちとは言え、少し可愛らしいだけの平凡極まりない娘なのだ。
慄きながらも納得出来ないという空気を漂わせる彼に、ラルスは辛辣な笑みを湛えると、ある情報と共に一つの案を呈した。
―――― それを実行出来れば、今回の件は見逃してやると。

書類を受け取った文官は、その内容を一瞥して苦笑する。
「魔女ですか。あの『宣戦』には驚きましたが、魔女などしょせん御伽噺でしょう。
 これで魔物の問題も解決するとなれば、願ったり叶ったりですな」
「……だといいのだがな」
歯切れの悪いシロンに文官は不思議な顔をしたが、そのまま執務室を出て行った。
部屋に一人になると彼は机に肘をついて頭を押さえる。
今までずっと「あれ」に頼りきりの父を蔑んでいた。
失ったが最後人格までも変わる依存を煩わしく思った。
だがその父から一年以上もの間、「あれ」についての妄言を吹き込まれたシロン自身、いつの間にか「あれ」に並々ならぬ執着を抱いていたのかもしれない。
度を過ぎた行いの為、崖際に立たされた男は力なく呟く。
「魔女か……」
あの女が「あれ」を持っているというのなら取り戻すしか道はないだろう。既に後ろは閉ざされてしまった。前に進むしかない。
仮にそれを拒否したのなら彼はこの地位を追われ、罪人として遇されるのは確実なのだから。

老齢の王はシロンからの要請に物言いたげな目になったが、黙って承認を出した。
それをもとに編成された軍が、三日後城を出てヘルギニス跡地へと向う。
しかし二万の軍は結局、魔女の城に到達することさえ叶わなかったのだ。
魔女に勘付かれないよう秘密裏に動かされた軍は、転移を使い国境手前に集結したちょうどその時、魔物たちの襲撃にあって全滅した。
前例のない被害に戦慄するメディアルの城へは、主だった将軍たちの首と共に「意志がある者のみを迎える」という魔女からの伝言が届けられたのである。






「つまり、軍を動かさずに個人として来いってことか」
敵方の勢力を計る為、自身が圧力をかけて動かしたメディアル軍の結末に、ラルスは面白くもなさそうに嘯く。
魔女の幻影が大陸全土の主要な街に現れてから一週間。
けれど未だ、城の頂に到達出来た人間がいるとの情報は入ってきていない。
何しろヘルギニスは高山地にある為、跡地に踏み入ることさえも普通の人間には困難なのだ。
戦いを生業にしている者であっても、その場所を知って諦めた者は少なくない。
しかしそれでも「大陸の王になれる」との言葉に野心を煽られた者や、御伽噺にしか聞かない魔女の存在に興味を持った人間も少なからずいた。
彼らは数日の間に百人近くが転移陣を使って近隣の街を経由し、それぞれが武装して魔女の待つという城に向ったという。
もっともその結果、城から逃げ帰ってきた者は少数いれど、戻ってこなかった人間の安否は不明である。
他にもヘルギニス跡地から見て北と西の小国に連絡が取れないという報告に目を通して、ファルサス国王はやる気なく手を振った。
「これ、どう足掻いても俺に要請が来そうだな」
「来るでしょうね。魔女討伐と言えばアカーシアの剣士です」
「そんな伝統を作った先祖が憎いぞ」
「伝統というか、アカーシアの力が諸国に知れてからずっとそうですよ、兄上」
妹の冷静な指摘に王は悪童の仕草で舌を出す。執務机の椅子に寄りかかると彼は天井を見上げた。
「北部の街に張った結界は持ちそうか?」
「これでは長くは持たないでしょう。時間の問題ですね。既に他国では街ごと滅ぼされたところも出てきているようですし」
「さすがに放置は出来ないか。おまけにあの魔女は『あれ』を持っているんだろう? 外部者の呪具を」
ラルスの視線が妹の隣にいる男を捉える。
何冊かの本を小脇に抱えたエリクは間を置かず頷いた。
「魔女に雇われていた傭兵たちから証言が取れています。
 確かにあの本の所持者ならヘルギニスを魔に落とすくらい出来るでしょう。
 かつてのヘルギニスの浄化結界については記録が何処にも残っていませんが、あの本であれば記載されているでしょうから」
「それを悪用すれば異界も作れるというわけか」
「傭兵を雇って召喚した魔族と戦わせたのは、魂や負を集めて城を建てる為ですね。
 女の魂の方は魔の領域を生み出す結界にでも使われたのでしょう」
当初の被害者である傭兵たちを含め、既に現時点での犠牲者数は相当のものである。
歴史に残るであろう大事件に、執務室にいる三人はしばし、それぞれの考えを巡らせた。






研究室の机の上には絵本の原稿の代わりに地図が広げられている。
その北西の一点を指すハーヴに、雫は視線を合わせた。
「そもそもヘルギニスがあった場所はもともと魔が濃い場所だったんだよ」
「魔が濃い?」
「うん。別階層への境界が薄いっていうのかな。大陸にはところどころそういう場所があるんだ」
それを聞いて雫はメアのいた湖を思い出す。
あの湖も元は魔力が濃く、魚の棲めない場所だったらしいのだ。
だがメアの主人だった上位魔族が一帯を浄化して城を建てて以来、生物が棲み漁が出来るようになって水神と敬われた。
ヘルギニスもそのような土地だったのだろう。ハーヴは雫の理解が得られたと分かると説明を続ける。
「魔が濃くて誰も立ち入れなかった土地に、けれど千百年程前、聖女と言われる人間が来て命と引き換えにそこを浄化した。
 で、彼女に付き従っていた者たちがその死を嘆きながらも無駄にしまいと、建国したのがヘルギニスだったんだよ」
「はぁ……何か凄いですね」
何故わざわざ命を犠牲にして住みにくい場所を住めるようにしたのか。雫は不思議には思ったがそれを問わない。
そういうものにはそれぞれの事情があると思っているからだ。
「ヘルギニスにはどうやら浄化を継続して為すための魔法装置があったらしい。けどその詳細は残っていないんだ。
 ある日突然、一夜にして滅んでしまったから」
「……魔女ですか?」
雫がつい先日聞いたばかりの不吉な単語を口にすると、ハーヴは苦笑した。人のよい容貌に薄めた翳が見て取れる。
「そう、魔女。ある晩街に魔女が現れ、国を焼いた。
 魔女は城を跡形もなく破壊して……その中には魔法装置も含まれていたんだろうな、ヘルギニスは再び魔に包まれるようになった。
 それ以来あの場所は何百年も人の立ち入らぬ土地のままだったんだよ。つい最近までね」
「今は大陸中の注目の的ですもんね。悪い意味で」
現状を言葉として指摘すると、二人ともその深刻さに押し黙らざるを得なくなる。
雫はすっかり冷えてしまったお茶を啜ると、ここ数日のことを思い返した。

アヴィエラの宣戦布告が大陸中に放たれて以来、人々は「暗黒の再来」「魔女の再臨」と恐れ戦いている。
実際ヘルギニスを根城としてあちこちの町や村を魔族が襲撃し、日を追うごとにその犠牲者は増えていっているのだ。
各国はその対応に悩み、だがメディアルの件を知って二の足を踏んでいる。
大陸全てが闇に覆われてしまったかのように陰鬱さに包まれる一方、けれど野心や正義感に駆られて城に向う個人がいるように、ファルサスでもまた昼夜を問わずその対応が議論されていた。
実際に城まで行き、内外部を調べてきたというエリクはその議論において魔法士側の筆頭にいるため多忙らしく、雫は帰ってきてから彼と顔を合わせていない。
その代わりかハーヴが様子を見に来てくれたので、ついでに彼からヘルギニスの歴史について教えてもらうことにしたのである。

「それにしても魔女か……参るよね、本当に」
「魔女ってどれくらい強いんですか?」
エリクと出会ったばかりの頃も魔女について聞いたことはあったが、雫にはそのイメージがよく掴めない。
非常に強い魔法士の女を魔女と呼ぶのだとは知っているが、「非常に強い」がどれくらいなのか想像もつかなかった。
素朴な疑問を呈する彼女に、ハーヴは手の中のペンを回そうとして机の下に取り落とす。
彼は身を屈めてそれを拾い上げながら苦笑混じりの息で返した。
「魔女って言っても個人差はあったらしいけど。
 大体一人で数万の軍隊に匹敵したって言われてるね。人間の域を越えてるよ」
「うわぁ」
本当にそんな人間が現実に存在しているというのか。
雫はあの日闇の中に浮かんでいた女の横顔を思い出し嘆息する。
暗黒の再来を謳い、挑戦を手招く彼女の貌はけれど、紛れもなく人のものに見えた。雫はそう感じたのだ。
自らを忌まれし「魔女」と名乗った女は、一体何を考えてあのようなことを言ったのだろう。
「やっぱ魔王を倒すにはレベル五十くらいないと駄目なんですかね……」
「何それ」
まったく噛み合わない雑談。
しかしそれは、研究室に見慣れぬ兵士たちがやって来たことにより中断させられることになった。
彼らは雫に向って「王がお呼びだ」と用件を告げる。
突然の呼び出しに驚きはしたものの、それを拒否する権限は雫にはない。
彼女は付き添ってくれるというハーヴと並んで兵士に先導されながら王の執務室へと向った。
「何の用なんでしょう。人参ケーキでも食べたくなったんですかね」
「それだけはありえないと思うよ。また二時間走りこみとかじゃないの?」
「あれは食欲なくなるから嫌です」

暢気さが否めない会話を彼らが続けていられたのは執務室に入るまでのことである。
兵士によって扉が開けられると同時に、室内から「雫!」という鋭いエリクの声が飛んできて、彼女は目を丸くした。
状況を見極める間もなく、王の腕が伸びてきて雫を捕らえる。
服の上からでも鍛えられていることが分かる男の腕に拘束され、彼女は目を白黒させた。
抗議を口にしようとする前に、喉にラルスの手がかかる。
呼吸を圧するように喉を覆った掌に、思わず息を止めた雫の耳元で王は笑った。
「言え。言わなければこのまま首をへし折るぞ」
「貴様!」
憎憎しげな女の非難。
その時になって初めて雫は、部屋の中にオルティアがいることに気づく。
だがラルスの視線は彼女ではなく、一人の男に向いていた。藍色の瞳が怒気を孕んで王を見返す。
「彼女を放してください」
「俺の言うことが聞こえなかったのか?」
冗談ごとでは済まない険悪な空気。
ラルスの手に力がこもるのを感じて雫は凍りついた。意味も分からぬままエリクを見つめる。
けれど彼女がその時目を留めたのは、テーブルに置かれた紺色の本で―――― それを見た瞬間雫は、息苦しさよりも何故か眩暈を覚えてよろめいたのである。