人の祈り 159

禁転載

鋭い鉤爪が肉の中を進んでいく。
それは内腑を掴み取り引き抜くと鮮血を散らした。男の体は声もなく崩れ落ちる。
「ギル!」
師であった男の名を呼び駆け寄ろうとするも、少女は横合いからの攻撃を感じ取って飛び退る。
吹きかけられた酸が彼女のいた場所を焼き、耳障りな音を立てた。
遠くから子供の泣き声が聞こえる。
肉の焼ける匂い、濃い血臭も。
けれどもう、目の届くところに動いている人間はいない。
ただ一本の剣を頼りに体を支える少女がいるだけだ。彼女は自分を狙う魔物たちの視線に傲然と顔を上げる。
「わたしは、負けない」
少女は剣を構えた。彼女の体には大きすぎる剣。「お父さんを追うのも程ほどにしなさい」といつか母親から言われた。
けれど今この時、彼女と共に在るべきはこの剣以外にはないだろう。他の誰もいない。魔女のせいで村の皆は死んでしまった。
視界の隅に捻じ曲がった男の体が見える。その上に覆いかぶさる黒い影。何かを咀嚼する音。
空を羽ばたく魔物が襲い掛かる時を見計らう。少女の肌に爪を立て血肉を食らおうと待っている。
絶望が雨よりも優しく降り注ぐ朝。
彼女は大剣を振りかざし絶叫を上げると、脇目もふらさずただ一人、魔物の中へと飛び込んでいったのだ。






それは、雫が執務室に呼び出される二時間前のお話。

「にしても、情報が洩れるのが早すぎるな」
ラルスがそう言いながら書類を捲ったのは、メディアルの一件についてである。
仮にも二百年以上広大な土地を支配した大国だ。軍の編成も移動も彼らは速やかにやってのけた。
にもかかわらず国境を出る前に彼らは魔物の大群をぶつけられ敗北したのだ。
これは宮廷内に監視でも入り込んでいたのだろうか。面倒くさげな国王に対し、しかしエリクは首を横に振る。
「おそらく本のせいです。あの本には国や有力者の動向のうち『確定したこと』は次々書かれていきますから。
 メディアルが軍を派遣すると決まった時点で記述が加えられたのでしょう」
「加えられたって……まさか勝手に記述が増えるってことなの?」
「はい」
「それは反則だなー。筒抜けじゃないか」
紅い本についてその力が事実だとしたら、国や重要人物ほど動きにくくなる。
大陸一の国家の王であり、アカーシアの剣士としても名が知られている男はさすがに嫌そうな顔になった。
腕組みをしながら、妹の部下である魔法士を見やる。
「で、お前は妙に詳しいな。何故知ってる?」
「僕も同じものを持っていますから。
 あとファルサス国内においては情報が洩れることはありませんね。紅い本ではなくこちらの本に書かれます」
言いながら無造作に一冊の本を差し出してきた男に、ファルサス直系である二人はさすがに唖然となった。
彼らにとっては排除すべき対象である本。
外部者の呪具と思われる一冊が、今この場に出てきたのである。これは驚くなと言う方が難しい。
レウティシアは自失から立ち直ると恐る恐る黒いカバーのかかった本を手に取った。
「見ても平気?」
「おそらく。僕も読みましたが平気です」
彼女は兄が頷くのを一瞥すると、題名のない本をぱらぱらと捲った。

膨大な大陸の歴史。
千数百年に渡る記述の最後は、第三十代ファルサス国王が前触れなくメディアルへと向った、という箇所で終わっている。
一週間前にあったばかりの出来事に、レウティシアは眉を顰めるとそれを兄へ渡した。ラルスは片肘をつきながら本を見やる。
「複数あったのか。盲点だったな」
「中を調べたところ、大陸の歴史についてはこの本と魔女の本に別れて記載されているようです。
 どちらにどの国が記載されるかはその時代によって異なっていると思われますが、
 現在こちらの本はファルサス、キスク、ガンドナをはじめとして中央部から南西部の国々を記述範囲としています」
「それで向こうがメディアルら北部と残りの東部というわけか」
驚きはしたものの、口伝により呪具の異質な力を知っていた王の順応は早い。
ラルスの指摘をエリクは首肯して続けた。
「記述に関しては『何処の国の人間が為したか』よりも『何処で為したか』が優先されるようです。
 現にこちらの本には陛下が先日メディアルに向ったことは書かれていますが、メディアルで何をしたかは書かれていません」
ならばそれは紅い本の方に書かれたということであろう。ラルスは舌打ちして頁を捲る。
流し読むように数十頁を捲った彼は、その中に「ファルサス」の国名と外に洩れるはずのない封印された歴史を見出して口を曲げた。
「勝手に記録するな、と言いたいところだが、ファルサスについてこちらに書かれるのは好都合だな。
 国内で準備を整えて、向こうに勘付かれる前にヘルギニスを叩けばいい」
「それはそうかもしれませんが……兄上、本当に本物だと信じてらっしゃるんですか?」
レウティシアの問いはエリクを疑うというより、「本当にそのようなものが実在するのか」怪しんでいるものである。
おそらく誰に説明しても避けては通れないであろう疑惑に、王は「ふむ」と首を傾げた。
「じゃあ実験してみるか。何かやってみよう。アヒルの銅像建立とか」
「……他にないのですか?」
実験したいのは山々だが、そんなことの為に訳の分からない像を建てられても困る。
第一銅像など作るには時間がかかって仕方ないだろう。妹の苦言にラルスは首を反対側に倒した。
「じゃあ手っ取り早く行くか。そうだなー。ああ、オルティアを呼びつけろ」
隣国の女王であり休戦交渉を行ったばかりの相手。
その召喚にレウティシアは目を丸くしたが、すぐに頷くと部屋を出て行った。その間にラルスはまた本を捲る。

王が本の最後の頁を眺め出してから十分後。
何も書かれていなかったはずのそこには、けれど不意に焼き付けたかのような文字が浮かび上がってきた。
たった一文『ファルサスは王の命令によりキスク女王を自国に招いた』との言葉。
誰の手にもよらぬその文章を見て、王は瞬間ひどく冷たい目になると、黙って本を閉じたのである。






魔女の幻影は当然ながらキスクの城都にも現れていた。
折角戦が終わったばかりだというのに不穏な宣戦を受けて人々は慄いたが、ヘルギニスとは距離があるせいか未だ魔族の襲撃はない。
オルティアはその為、いつも通りの執務といざ襲撃が来た場合の対策の両方に手をつけていた。
国境の探知結界を強化するとの書類に目を通し、署名を加える。
「それにしても魔女とはな。大言にも程がある」
歴史上記録されている魔女は六人だが、そのいずれもが強大な力によって恐れられながらも、表立って人と対立しようとはしなかった。
ヘルギニス滅亡に見られるように、時折歴史の表に現れ畏怖を刻み付けることはあっても、彼女たちは魔族の大群を操って数万もの人命を屠るなど、思い切った敵対行為に出ることはなかったのである。
新しい魔女とやらは何をしようとしているのか。オルティアはペンを手にしたまま「宣戦」の言葉を反芻しようとした。
けれど記憶を探るその思考は、先日に引き続きファルサスからの急な連絡を文官が持ってきたことで中断させられる。
またあの傍若無人な王からとんでもない要請でも届いたのだろうか。
女王は憮然となりながらも書き起こされた書類を受け取った。
書類に目を通すと、それは意外にも「魔女の一件について極秘の相談をしたい」というまともなものである。
「相談? 妾を呼びつけるとはいい度胸だ」
転移を使えばすぐとは言え、何故女王である自分が出向いていかなければならないのか。
オルティアは不満を感じたが、ここで拒否して押しかけられたらその方が迷惑だろう。
彼女は手早く処理中の書類に署名をしてしまうと、魔法士を呼びファルサスへと向う。
しかしそこで彼女は、あまりにも荒唐無稽な「本」についての話を聞くことになったのだ。



「秘された歴史の本? 寝惚けているのか? ついに狂ったか」
もっとも、もともと狂っているようなものだがな、と続けかけたオルティアは、人の悪い笑みを浮かべた男に
「本気だ。何を当てて欲しい?」
と返されて言葉に詰まった。自国と自分自身の知られたくない過去が頭を過ぎる。
男の手によって目の前に差し出された本は、題名がないということもあり妙に忌まわしいものに見えた。
両手で受け取ると革張りの装丁はまるで人肌を触っているかのように蠢く気がする。
触っているだけで気分が悪いのは先入観のせいだろうか。
オルティアは虫でも見るようにそれを見下ろした。栞の挟まれた箇所を開いてみる。
そしてそのまま、若き女王は立ち竦まざるを得なくなってしまったのだ。
そこには―――― キスク王族以外は知るはずもない初代女王についての真実が記されていた。
今となっては彼女しか知る者のいない事実を見つけて、オルティアは思わず本を取り落とす。
厚い本は床にぶつかる直前、ラルスの手によって受け止められた。
「これで信じたか?」
「……馬鹿な」
「信じなくても別にいいぞ。お前の用事は済んだからな」
「何だと?」
オルティアはやはり傍若無人な男に詰め寄ろうとしたが、更に最後の頁を見せられ自分が「実験」の為に呼びつけられたと分かると、美しい顔を引き攣らせた。
「キスクは国境の魔法結界を強化することにした」というファルサスは知るはずもない情報も混ざっていることに、怒りと薄気味の悪さを感じて何度もその頁を読み返す。

馬鹿馬鹿しいと一蹴出来るならそうしたい不気味な本。
けれどそれでも彼女がその場に残ったのは、いわば訳の分からないことへの恐怖と興味であろう。
人形のように固まったオルティアを椅子の一つに座らせると、ラルスはエリクへと視線を戻す。
「この本を焼いたらどうなると思う?」
「僕の推論では、以降全ての記述が紅い本へと移ります」
「なるほど。今処分しても相手を利させるだけか」
そうでなければすぐにでも炎の中に本をくべそうな男に、ファルサスの口伝を知らないオルティアは訝しげな目を向けた。
だがさすがにラルスもそれについて説明する気はないらしい。
王は強力な禁呪の数々までもを記した本を手に思案顔になった。壁によりかかる妹を見やる。
「一度ヘルギニス領域に入ってしまえば、俺の行動は向こうに筒抜けになるだろうしな……。さてどうするかな」
「個人の挑戦は受け付けると言っても、兄上が入り込んで他の剣士たちと同様に扱われるかが疑問ですね。
 軍を動かすならどれだけ迅速に、かつ短時間で城を落とせるかが肝になるでしょう」
「だよな。……まぁそれについては後で考えることにしよう。
 今はとりあえず、お前だ」
軽い声音。
けれどそれは剣を覆う布のような軽さだ。
王の目に射抜かれたエリクは眉を寄せる。
「何でしょう」
「この本を何処で手に入れた?」
「一月程前に、行商人から」
「嘘をつくなよ」
他の人間であれば、身に覚えがなくともうろたえてしまったであろうラルスの眼光。
けれどそれを、エリクは平然と見返す。
そこに「嘘」を感じさせるものはない。何もなさすぎて問うこと自体憚られるくらいだ。
しかしラルスは笑ったまま視線を逸らさなかった。険悪になっていく空気に二人の女は戸惑いを見せる。
「本の機能が分からないままだと魔女に勝てないと思って情報を明かしたんだろう?
 だが、俺を騙すつもりならあの娘にも徹底させるべきだったな。
 正直に言え。―――― この本は、あの娘から貰ったものだろう。違うか?」
肯定以外は許さない確認。
エリクは目を細めて王に対する。
張り詰めた空気は目に見えそうな程だ。彼は否定を返そうと口を開きかける。
或いはそのまま話が進んだのなら、エリクは自身の言い分によって王を納得させられたかもしれない。
けれどそこに……何も知らない雫が来てしまったのだ。






息苦しい。眩暈がする。
けれどそれは、王の手による圧力の為だけではなかった。
現にラルスの手は雫の呼吸を阻害してはいない。顎を上げさせ、細い首に手をかけているだけだ。
理由の分からぬ事態のせいか、彼女は一歩よろめいて王の体にぶつかる。ラルスは崩れ落ちそうな女の体を支え直すと、再度エリクに問うた。
「言う気がないのか? そのせいでこの娘が死んだら本末転倒だな」
「彼女は何も知りません」
「だが、あの時お前もいただろう? キスクの砦でオルティアと交渉をした時に。
 こいつはあの時、オルティアも知らない王家の隠し財産を知っていた。これはどういうことだ?」
その言葉に表情を変えなかったのはエリクだけだ。
あの場に居合わせたオルティアも、そして雫本人も虚を突かれ目を瞠る。
特に雫は「知らないはずの知識」を揺さぶられて胸を押さえた。
頭が痛い。気持ちが悪い。
足場が失われるような感覚が全身を襲う。

「あの水晶窟については、この本にも書かれていない。つまり魔女の方の本に書かれているんだろうな。
 では何故こいつはあれを知っていた? こいつは内通者なのか?」
何故、知っているのか。
それを一番知りたいのは雫だ。
いつの間にかその知識は彼女の中に入り込んでいる。
まるでずっと昔からそこにあったかのように。彼女の奥底に潜むように。
―――― 戦えないのは気づけないからだ。

誰かの溜息が部屋を伝う。
それはレウティシアかオルティアのものだったろう。エリクは溜息をつかない。ただ苦い顔で雫を見つめただけだ。
雫は生命に繋がる息を嚥下する。それはエリクが王に答えるとほぼ同時だった。
「分かりました。説明しましょう」
「本当のことを言えよ」
「勿論。彼女は単なる被害者だ」
ラルスは雫の首から手を離すと、彼女を持ち上げ机に座らせる。
首を押さえた雫をはじめ、全員の視線が魔法士の男に集中した。
壁に染み込んでいくような静寂。
エリクは中央のテーブルに置かれた本に視線を走らせる。
そこに微量の侮蔑が含まれているように見えたのは雫の気のせいだろうか。
「この本も魔女の持つ本も、共に歴史を記す本です。だが、これらの持っている力はそれだけではない」



彼が何を言うのか、雫は知っている。
知っていて思い出せない。取り出せない。
だが、思い出せなくても分かる。感じている。
彼だけが気づいたのだから。
彼だけが辿り付ける。
それを雫はずっと前から確かに分かっていたのだ。



「この本が持っている力は、大陸における生得言語の植え付け。
 人間には元々生得言語なんてなかった。外部者の呪具が記録を取る為に、人の言語を統一させていたんです」