人の祈り 160

禁転載

「名前を教えて欲しい」
彼がそう言うと少女は金の目を丸くして首を傾げた。
困ったような顔をした後、彼の持つ水瓶を指して何かを問う。
それが「水の味が気に入らないのか」という意を示しているらしいと気づいた彼は、首を左右に振った。
「違う。名前だよ」
このような隠れ里では彼の使う第零言語は通じないのだろう。
少女はますます困ってしまったようで、何度も村の方を振り返った。
その小さな手を取って、彼は少女を振り向かせる。
「名前。分かる?」
彼は自分の胸を叩くとまず自身の名を告げた。続いて少女を指して首を傾げて見せる。
言葉の通じない同士がやる自然な仕草。
彼女はそれでようやく理解したようだった。無垢な花のように笑って自分の胸を指す。
「ルーディア」
―――― それは昔々のお話。






エリクの発言は無形の発火物のように執務室内に広がっていった。
その中にいる王族三人が示したのは程度の差こそあれ、常識よりも根底にあるものを否定することへの受け入れ難さであろう。
誰もが何もを言葉に出来ぬ中、雫は彼を見つめて息を飲んだ。
「僕は長らく彼女といて、彼女の世界の言葉について学んだ。
 その結論として得た答は『言葉は人の作りしものだ』ということです。
 時代や文化によって人の思考が変わるからこそ、言葉もまた移り変わっていく。
 思考と言語が密接に連動する以上、それが自然な姿であり、当然の変動でしょう。
 むしろ魂と言語に繋がりがないなら、知りもしない、必要もない単語が生まれつき備わっていることの方が不自然だ」
「それは……けれど」
レウティシアは言いながら軽く頭を振る。
エリクの上司である彼女は、「生得言語は魂に依拠しない」という彼の主張を分かってはいても、それが外部者の呪具によるものだとは思えないのだろう。
もし本当に彼の主張が正しいのだとしたら、今まで自分たちはずっとそれの影響を受けてきたことになる。
受けてきて、気づけなかったのだ。
忌々しいというには収まりきれない嫌悪感に、王妹は言葉を飲み込んだ。代わりにその兄が顔を斜めにする。
「何故そう思った? 根拠があるだろう」
「あります」
エリクは短く断言すると、持っていた書類の束から一枚の表を取り出した。
一見年表に見えるそれは、十年単位で紺色の本に記述があった国々を抜き出し一覧に纏めたものである。
もっとも彼の近くにいたレウティシアはその一覧を受け取ると、軽く目を通して眉を寄せた。
暗黒時代の初期のある時、歴史上目立った事件があったわけでもない時を境に、記載されている国の数が倍近くにまで増えているのだ。
彼女は紙をオルティアに回しながら部下に問う。
「これって……この時期に国が爆発的に増えたってことではないのよね?」
「違います」
「―――― ざっと数えて、当時大陸にあった全国家のうち記述範囲が三分の一から二分の一にまで増えているな」
王族教育の一環として暗黒期の歴史も一通り修めたオルティアが指摘すると、エリクは「その通りです」と頷いた。
彼女の手から書類を受け取ったラルスは問題の時期を見て「ふーん」と気のない相槌を打つ。
エリクは回っていく紙を目で追いながら説明を再開した。
「暗黒期のある時期を境界線として、前後で記述量が変動している。
 この変化の意味していることは―――― 本の数の増減です」
藍色の瞳が雫を捉える。
いつか、何処かで、同じ会話をした。
そんな錯覚に囚われて雫は口を開く。
「本は最初、三冊あったんですね」
「うん。正解。それが途中から二冊になった。だから一冊の負う量が増えたんだ」



瞼を閉じれば、おぼろげな映像が浮かんでくる気がする。
白い机の上に並べられた三冊の本。それは既視感よりも更に掴み所のない霧の中の景色だ。
ぼんやりと白昼夢の中に落ちて行きそうになった雫を、けれどその時王の声が引き戻す。
「ということは一冊処分されたのか?」
「違います。この一冊がどうなったのかは、実は資料に残っているんです。
 暗黒時代の始まりから約百三十年……この時期に大陸で何があったか。
 戦乱の激化、アイテア信仰の拡大、帆船の改良。つまり……」
魔法士は答を求めるようにラルスを注視する。
当然気がつくであろうとの無言の問いかけ。そして王はそれを裏切らなかった。望まれた回答を口にする。
「移民か。本は、東の大陸に移動したんだな」
「ええ。アイテア信徒の一人がそれを持ち込みました。預言が記された神の書として」
エリクは持っていた書類の中から論文を取り出す。それに見覚えがあった雫は「あ……」と小さく声を上げた。
彼女に視線が集中する前にエリクは補足を口にする。
「これは生得言語欠損の病について、アイテア信徒が提出した論文です。
 この中には『神話の時代における言語非統一の可能性』という論述から始まって、
 東の大陸での言語について多くの興味深い記述が見られました。
 非常に量があるので全てを紹介することは省きますが、その中には
 『東の大陸の人間とははじめ充分な意思の疎通が出来ずにいたが、
  神の書に触れその理解を得ると同時に彼らは皆、我らの話に耳を傾けてくれるようになった』
 という当時の信徒の手記が引用されています」
その引用により彼が何を示したいのか、四人はすぐに理解した。
移民として別大陸でも信仰を広めようとした信徒の記録。
だがそれは一般的に解釈されるであろう「アイテア信仰が相互理解に繋がった」という意味ではなく、単に「本の力によって言葉が通じるようになった」というそのままの意味を指し示しているのだ。
足元を掬われるような解釈の転換にレウティシアは溜息をつくと壁によりかかり直した。
肘掛に頬杖をついていたオルティアが眉を顰める。
「その論文、キスクより持ち出したものか?」
「ええ。問題がありましたか?」
「構わぬ。どうせニケが雫にでも渡したのであろう。
 それより、妾はそれだけで本とその効果を特定出来るとは思えぬな。
 持ち込まれたものも違う本かもしれぬし、言葉についてもたまたまではないのか?」
「僕もそう思ったので、『神の書』に関して全ての記述にあたってみました。
 別大陸でのことですので記述は量こそ少ないものでしたが、何冊かはその具体的な内容まで書いてありましたよ。
 暗黒時代初期の大陸の歴史、東の大陸の歴史、そして矛盾する複数回の記述……。
 三冊目は東の大陸に移ってからはあちらの歴史を記すようになったのでしょう。
 『消された試行』が記されている為か、彼らはそれを『未来を記した預言書』と崇めた。
 他にも『神の見えざる手により歴史は記され続ける』とのくだりは、自動的に記述が増えることを意味していますね。
 こんな本は他にない」
エリクはそこで言葉を切ると息を整えた。全員の顔を見回すと話を続ける。
「そして言葉について、ですが。
 本来三冊の本はこの大陸用にもたらされた呪具だったのでしょう。
 充分な効果を出す為には三冊共が必要だった。
 大陸の膨大な歴史を記す為に三冊要するわけではありません。
 一冊なくなった後、記述が二冊に分かれたことからもそれは明らかだ。
 では何故三冊なければならなかったのか。それは、生得単語を充分に行き渡らせる為です。
 実際、本が二冊になってしまった為、この大陸にはささやかな不都合が現れた。
 ―――― 地方によっては訛りが出るようになってしまったんです」



暗黒時代に東の大陸へと移住した人間たちがいた。
戦乱に満ちていた彼の大陸では当時の記録がほとんど残っていないが、少なくとも現在では向こうの大陸においても生得言語は当然の存在となっている。
ただ違う点があるとしたら、東の大陸では訛りがきつく、それがある地方も多いということだろう。
一方こちらの大陸では移民が大量に出航した後、何故かある地方で訛りが出るようになったのだ。



「歴史の記述と言語の統一、どちらが主目的であったのか、そこまでは判断できません。
 ただ言語が思考そのものに影響を与える以上、言語を統一させることによって思考の制限を行った可能性もあります。
 現に彼女、雫の世界では言語自体がその国の歴史と文化を孕むものであり、
 他国の人間がその全てを理解することは容易くない。
 しかし、外部者にとってはそのような齟齬は実験に必要のないものだったのでしょう。言語を統一し、起こりうる問題を削った」
もしかしてエリクは非常に怒っているのかもしれない。
雫はいつもと変わらぬ冷静な彼の貌を見ながら、けれどそう感じて緊張を覚えた。
メディアルにて彼女が持論を述べた時、彼は何かを考え込んでいるような浮かない反応だったのだ。
その時から彼は、「言語を統一されたことによる不自由」を考えていたのだろう。
異世界からの技術知識の混入を不自然だと拒むエリクにとって、思考の基盤たる言語に外部からの手が加えられていたという結論は、許し難いものだったに違いない。
普段はあまり動くことのない彼の感情が、平静な説明の下で大きく波立っている気がして雫は藍色の両眼に見入った。
男は彼女の上で視線を留める。
「大陸において全ての文章は一度、暗黒時代に入る百年ほど前に処分されています。
 今はもうないこれらの文章は、おそらく複数の言語で書かれていたのでしょう。だからこそ処分された。
 外部者の呪具が影響を及ぼし得るのは生得言語だけであり、それは音声言語に限定されていますが、
 音声言語が揃えば文字もおおよそ揃えることが出来た。
 以後の記録は全て統一言語でのものになったのです。
 そこまで徹底して外部者は、言語が一つであることに不審を抱かせないよう大陸を整えた。
 ―――― だからこそ外部者にとって、大陸外からの来訪者は邪魔な存在だったのです」



邪魔、と言う言葉がまるで金槌のように雫を殴りつける。
ここからはきっと、自分の話になる。その確信が雫にはあった。
自分でもよく分からない自分の話。
それが彼女にもたらすものは何であるのだろう。



「かつて漁船が未知の大陸の遭難者を拾ったという事件がありました。
 その男は岸についてから領主に迎えられ、その片腕となりながら故郷についての手記を残していますが、
 それとは別に彼を助けた漁師はこんなことを言っていたそうです。
 『助けた男ははじめ衰弱し錯乱していたらしく、何だか分からないことを言い散らしていたが、
  やがて落ち着いたのか町につくと普通の言葉を話すようになった』
 つまり最初は呪具の効力が及ばず、別の大陸の言葉を話していた男が、岸に辿りついてから言語を変えられたのでしょう。
 呪具は巧みに来訪者を探知して、上手く懸念要素を取り除いたのです」

そうして別の大陸から来た男は、この閉ざされた箱庭に馴染んでいった。
故郷を思いながらも帰れぬまま一生を大陸で終えた。
彼は己の運命を詰っただろうか、恨んだだろうか。

「けれど実験が始まってから千四百年が経った頃、大陸には前例のない来訪者がやって来た。
 彼女は、別の言語を話すというだけではなく、言語の多様性を当然のものとして認識している異世界の人間だったのです」
全員の視線が雫に集中する。
彼女はそれに気まずさを感じたが、俯くことはしなかった。顔を上げてエリクを見つめる。
男は瞬間、いつも通りの優しい目で彼女を見た。そして複雑な微苦笑を浮かべると、与えられた言葉を紡ぐ。
「呪具は彼女の言語を変える為、そして『この大陸の違和感に気づかせない』為、かなりの力を使ったと思われます。
 結果としてそれは成功し、彼女は『何故言葉が通じるか』を疑問に思わず、ただ元の世界に戻るため旅をするようになった。
 しかしその代わりとして―――― 彼女には副作用が現れてしまったのです。
 言語について呪具からの強い影響を受けた為でしょう。彼女は無意識下で本と繋がり、その内容を読めるようになった。
 はっきりと覚醒している時は本から知識を得ていると思い出せない。
 けれど眠っている時などには彼女の意識は本に近づき……その知識を自分の中に取り込むようになったのです」



何故、どうして、知っているのか。
あるはずのない知識が怖いと、彼に訴えたことが二度ある。
だがそれも思い出せない。
思い出せないようになっている。
はじめから彼女はずっと、檻の中に閉じ込められていた。
箱庭の中の檻に。一人で。知らぬ間に。
それは



「私は……っ!」
頭が痛む。
記憶の底で誰かが悲鳴を上げている。
世界が歪んでいく。外も内も、等しく傾き拉げていく。
体が揺れ、床に落ちるまでの時間。
雫は飲み込み続けた嗚咽を吐き出すと、短い爪で己の顔を掻き毟ったのだった。