人の祈り 161

禁転載

『現に今、気づかぬうちに何かに支配され鑑賞されていたらどうする?
 自分がいつの間にか実験対象となり、何者かに記録されているのだとしたら』
『そりゃ腹立ちますよ。何様だって思いますね』



明かされたこと。
知らなかった、思い出せなかったこと。
それらを言葉として突きつけられた雫の思考が断裂し、精神が吐き気に痙攣したのはほんの数秒のことだった。
座っていた机から跳ね落ちた彼女を男の手が抱き起こす。
こみあげる拒絶から顔を、頭をかきむしり続ける雫の手を留め「大丈夫」と断言したのは、彼女からもっとも遠い場所にいたはずのエリクだった。
王族たちを半ば圧して雫を支え上げた彼は、黒茶の双眸を開かせその奥を覗き込む。
そこに単なる心配だけではない、変化を探す意図を感じ取った彼女は、溺れるように手を上げた。
「わ、私は、私、です」
「うん。君は君だ」
手を取る。
指を絡める。
そしてきつく力を込めて、握り返される感触だけが彼女をかろうじて繋ぎとめる。
この世界には誰もいない。子供だった頃の自分を知っている人間も、自分と血を分けた人間も。
足場がない。「本当は人間ではない」と突きつけられたとしても、それを否定しきれるほどの土台がない。
帰りたい。
元の世界に、元の生活に戻りたい。
姉に会いたい。妹の顔が見たい。
もう自由になりたい。
―――― だからもう、言わないで。



陸に打ち上げられた魚のように苦悶する雫を、オルティアとレウティシアは憐憫と困惑が入り混じった目で見つめる。
確かに時折、雫の言葉には理解出来ない単語が混ざることがあったのだ。
それはおそらく、この世界には馴染みの薄い「変えにくい」言葉だったのだろう。
けれどそれら以外は全て変換させられた。捻じ曲げられた。
雫の話す言葉にも、彼女が聞いていた言葉にも、全てに呪具の力が潜んでいたのである。

小さく首を横に振り始めた雫に、エリクは眠らせる為の構成を注ごうと手をかざす。
しかしその手は構成が形になる前に後ろから別の男に掴まれた。凍てついた王の目が彼女を見据える。
「立て」
「兄上、何を……」
「聞こえないのか? 自分の足で立て。こちらを見ろ」
普段の軽さが微塵もない、重い命令。
その声に雫は体を震わせた。焦点を失いかけていた瞳がラルスを探して彷徨う。



どうやって、証明するのか。
人であると、意志があると、尊厳があると。
それを為すのならば、矜持があるのならば、彼女は自ら立たなければならない。
血によってでも肉によってでもなく、精神によって、彼女は己を証明するのだ。



無体とも言える厳しい叱咤に眉を顰めたのは二人の女だ。
オルティアは半ば腰を浮かし、レウティシアは体を起こしながらラルスを留めようとした。
けれどエリクは王を止めない。構成を消し、雫の手を握る。
それは彼女をゆっくりと落ち着かせ、理性を取り戻させる温度を持っていた。
雫は何度か深く息をすると、彼の手を借りてよろめきながらも立ち上がろうとする。
ラルスはそれを急かすことはせずに、ただ黙って待っていた。ようやく自分の前に立った女を見下ろす。
揺るがない強者の目。雫は蒼い両眼を怯まずに見据えた。そうする為に精神を振り絞る。
「あの時お前は、俺と戦う為に塔から跳んだな」
「はい」
「ならばその命をもう一度使え」

戦えなかったのは気づけなかったからだ。
ならばこれから先はどうすればいい?
逃げるのか蹲るのか、それとも

「俺は魔女を殺しに行く。―――― お前は魔女の本を読め」
全てが記される歪な本には、王の行方も書かれるだろう。魔女の一手も書かれるはずだ。
それを読み、魔女と相対する。
注がれた力を逆に使う。
この広い大陸であまりにも平凡であまりにもちっぽけな雫の軌跡は、きっと歴史には残らない。本には記されない。
けれどだからこそ魔女の目を逃れて、雫は本を読むことが出来る。
自分だけが紅い本に触れられると思っているアヴィエラは、彼女の存在にこそ足を掬われるだろう。
人が死んでいるのだ。
こうしている間にも犠牲は出続けている。
今も魔女に反しようと剣を取る人間がいて、彼らの躯が積まれている。
慄きながらも逃げることさえ出来ない小さな村が壊されている。
それを嘆くのも憤るのも人であるがゆえだ。
雫はテーブルの上に置かれた本を見やる。
彼女を半ば支配してきた呪具。大陸を縛し続けた一冊の本を。
恐るべき力。だがそれは単なる道具だ。誰かの実験の為の道具で、それ以上のものではない。
ならば―――― 自分がそれを使えぬはずがないだろう。道具を統御し支配すればいい。
雫はテーブルに歩み寄ると本を抱き取る。そのまま振り向き王を見上げた。
「やります」
震えを帯びた返答に、ラルスは頷く。

魔女の宣戦が行われてから一週間後、こうして無力な一人の女が戦う意志を持ってそれに返した。
そして変革の歯車は回り始める。






出立は二日後、ヘルギニスへと向う人間たちの準備が出来次第ということになった。
紅い本への干渉を確実なものとする為、本を持って王と共に現地へ向うという雫にオルティアは唇を噛み締める。
「お前は馬鹿だ。死ぬかもしれぬのだぞ?」
「大丈夫です。姫、帰ってきますから」
命の危険は今まで何度もあった。それでも彼女は、自分で戦うことを選んだのだ。
雫は女王の目に困ったように笑って、けれど表情を引き締めると姿勢を正す。
「命じて下さい、姫。魔女を何とかして来いって。私はそれを守ります」
誰かに支えられて走り出すなら、きっと何処に在っても挫けずにいられるだろう。
かつての臣下の願いにオルティアは顔から苦渋を消した。
琥珀色の瞳を軽く伏せ、そして再び雫を見つめ直すと芯のある声でその背を叩く。
「行って来い。そして必ず帰って来るのだぞ」
「ご命令のままに。任せて下さい」
本当に伝えたいことは言い切ることが出来ない。
だからオルティアは女王として自分の国へと帰っていく






「結局あの本には、雫を元の世界へ帰す手がかりはなかったのですね」
エリクからの提出書類に目を通すとレウティシアは呟く。
そこには本の調査結果として「世界を渡る手段については分からない」という記述の他に「城で一時的に生得言語が戻ったのは本が城に持ち込まれた為のものだろう」との補足も加えられていた。病の原因についてはそれでも不明のままだが、或いはそれはもう一冊の本に起因しているのかもしれない。
ラルスは軍を編成する為の書類を調えながら、同時に「個人として」城へ向い得る人間たちを選出する。
魔法士、武官の中でも一定以上の腕を持つ人間たちを選び出しての作戦は、しかし王からの命令としては異例なことに拒否権を与える予定のものだった。
王は書き上げた一枚の書類を妹に手渡す。
「よし。これをお前に預ける。ちゃんとやれよ」
「え? これって……兵権委譲ではないですか! 何故このようなものを」
「俺が他の人間と先行して魔女を殺し本を破壊する。そしたらお前は軍を指揮して城を落とせ」
全てを読み取る本を排除してからの全面攻撃。
それを十全に為し得る為には確かに王族の指揮が必要だろう。
だがレウティシアはそこに建前とは違う意図を読み取って声を荒げた。
「何を仰るのです! 私も行きますよ、兄上!」
「駄目だ。お前は残ってろ。出てくるのは後からでいい」
「兄上!」
いくらラルスが抜きん出た剣士でありアカーシアの持ち主だとしても、彼が人間という枠に入る存在であることには変わりがない。
一方魔女は、半ば人外と呼ばれる程の魔法士を指して言うのだ。その上相手にはおそらく上位魔族もついている。
そんな敵を相手に、王族の魔法士の守護を欠いて敵地に踏み入るなど、彼であっても危険な賭けとなるだろう。
王妹は何とか兄の無謀を思い留まらせようと口を開きかけた。しかしラルスは静かな声でそれを遮る。
「レウティシア」
本名を呼ばれるのは、何年ぶりのことだろう。
久しぶりのそれ、兄が自分へと向ける本来の感情を思い出して、彼女は凍りついた。
―――― 忘れたままでいられるのなら、その方がよいことも世の中には多くある。
真実は必ずしも人に解決をもたらすわけではないのだから。
「レウティシア。お前は王の命令が聞けないのか?」
彼女を打ち据えるのは王者の声。踏み込むことを許さぬ男の意。
その威の鋭さに王妹はわななく唇を噛み締める。ややあって小さな頭をゆっくりと垂れた。
「……ございません、陛下」
「ならいい。あ、魔族召喚禁止の構成も用意しとくといいぞ。念の為な」
そう言って肩を竦めるラルスは、もういつもの彼である。
レウティシアは瞬間、泣き出したい衝動に駆られて顔を伏せた。優しくあろうとする兄の声が彼女に届く。
「俺に何かあったらもうお前だけだからな。そうなったら女王になって子を産めよ」
彼女はそれには答えない。書類だけを持って踵を返す。
何を恨むのも意味がないことだろう。特にどうにもならないことに関しては特に。
それでもレウティシアはこの時「何故自分たちはこの時代に生まれてしまったのか」と、そんな思いに駆られて、亡き父を呪ったのである。






ヘルギニスへ赴くため選出された人間の中にはハーヴも入っていた。
彼は緊急かつ極秘の要請書を見下ろして溜息をつく。
「どうするかな……。お前は行くんだろ?」
「行くよ。王妹は行かないしね」
それに何よりも雫が行く。
ならばこの友人が行かないはずはないだろうと、ハーヴは苦笑した。もう一度書類を読み返すとそれを手の中で焼く。
「俺さ、正直怖いんだよな」
「みんなそうだと思うよ。相手は魔女だし」
他に誰もいない研究室。四方の壁に並べられた本からは歴史そのものの圧力を感じる。
ハーヴはそれら文献を見回すと、お茶の表面に視線を落とした。
「魔女も怖いけど、それだけじゃなくてな……」
ぽつぽつと滴る言葉。窺えない思惟は不透明なものだ。
エリクは書類から顔を上げると友人を見やる。
「どうかした?」
「いや……何でもない」
再びの沈黙。
形のないそれは少しずつ部屋の中を浸していく。
やがてそれぞれのカップが空になった頃、ハーヴは何処か吹っ切れたような顔で笑うと「やっぱり俺も行く」と立ち上がったのだった。






人と人との出会いは、何処までが偶然で何処からがそうではないのだろう。
もしこの出会いが誰かの意図によるものだとしたら皮肉がきいている。廊下を行くエリクはそんなことを考えてふと微苦笑した。
だが、だとしても彼女と出会ったことに後悔はない。そう思ったことは一度もない。
彼女と会い、彼女を知ったからこそ多くのことに気づけた。
それは偽られ続けて一生を終わるよりもずっと有意義なことだろう。
その結果魔女と相対し、早すぎる結末が自分を待つのだとしても。
ただ雫は……彼女自身はこの旅によって何を得られたのか。
この世界に来たことで、自分と出会ったことで、少しでもいいことがあったのだろうか。
彼は埒もない思考を自覚すると自嘲を浮かべる。
その疑問に肯定は返せない。他人のことは分からない。
―――― だからせめて、彼女には未来をやりたかった。

「エリクさん」
女の声に呼び止められ、彼は背後を振り返る。
そこにはレラが本を数冊抱えて立っていた。彼女は持っていた本を男に差し出す。
「これ、研究室内に残ってたのを見つけたので。回収してるのですよね?」
「ああ。ありがとう」
「これどうなさるんですか? 全てを回収したのならかなりの量でしょうに」
「処分するよ。また何か問題が起きたら困るから」
「あら……無理もないですけれど勿体無いですわね。子供たちなどは気に入ってましたのに」
レラは名残惜しそうな目を本に向けながらも一礼して去っていく。
その姿が見えなくなると、エリクは再び歩き出した。腕の中に雫が描いた絵本を抱えて。

精神と命、どちらを守ってどちらを損なうのか。
彼女を裏切るのか、支えられるのか。
その答が出る日が来ないことを祈りながら、彼の姿は廊下の先に消える。