人の祈り 162

禁転載

魔法で眠りを操作される感覚。
はじめは慣れない気だるさがあったそれも、十数度目の試みからは次第に「そういうもの」として馴染んできた。
雫は黒い睫毛をあげて、自分を覗き込んでくる男を見上げる。
「どう?」
「平気、です」
「気分は」
「比較的明瞭」
試しに手の指を動かしてみると思った通りに動く。彼女は寝台から立ち上がって伸びをした。
肺の中の空気を全て吐き出し、また深く吸い込む。
そんな雫の様子をじっと観察したエリクは手元の本を開きながら問いかけた。
「ファルサス暦四百五十五年」
「第十八代ファルサス国王レギウス・クルス・ラル・ファルサスの治世。
 北の隣国ドルーザより魔法生物兵器を用いた侵攻が開始された」
「うん。いいね。問題ない」
自分の意識が遠くにある別のものと繋がっているというのは実に不思議な感覚だ。
最初こそそれに気づいた瞬間、嫌悪感と侵蝕感に錯乱してしまったが、落ち着いて意識を広げればそれら情報や繋がり自体には意思がないと分かる。
無数の記述が漂う海に、自分もまた浮かんでいるようなものだ。
それらの中から望む情報を取り出すことも、最初に比べれば大分早く出来るようになってきた。
雫は「もう一段階」と声をかけられ寝台に戻る。横になった彼女の額に男の指が触れた。



出立が二日後と決まってから、雫は起きている時も本の情報を引き出せるよう訓練を受けることになった。
外部者の呪具が彼女に行った操作は実に巧妙で、覚えのない知識を持っていることは意識できても、その出所はおろか不自然さについて深く考えることも出来ない。
雫が自身を不審に思わぬよう「元の彼女」を出来るだけ維持しようとしたのだろう。暗示は奥深くに薄く広がっていた。
しかしその欺瞞は、「本と繋がっている」と指摘された瞬間、罅割れた皮のように剥がれ落ちたのだ。
本来個として分けられている人間の精神。
だが雫はその指摘によって、自身の精神の境界が曖昧にぼやけており、また自分の中に別のものと混じりあっている部分があることを容易く認識できてしまったのである。

まずは魔法によって深く眠り、紺色の本と接触することで呪具との繋がりを確立させる。
その後エリクが構成を弄って段階的に覚醒させ、緩やかに完全な覚醒へと雫を引き戻していった。
ほとんど眠っているが受け答えは出来る段階、半覚醒の段階、眠りが僅かに残っている段階などを何度も行き来し調整を繰り返す。
途中で本との繋がりが薄らいでしまったり、記憶が曖昧になる失敗も多くあったが、丸一日かけて意識を慣らしていくうちに、雫は起きながら紅色の本の内容を取り出すことが何とか可能になった。エリクからの試問に全て答えてしまうと、彼女はほっと息をつく。
「これカンニングし放題ですよね。どんな本にも繋がってたなら科挙とか通れるかも」
「……大体言いたいことは分かるけど、君の変な前向きさは何処から来るの」
「どんなことにも長所を見出せば楽しくなるかと」
雫はメアから温かいお茶を受け取って口をつけた。
体力的な消耗はないのだが、短時間に眠りと覚醒を何十往復もするということを繰り返したせいか妙に疲れている。
だがそれにつきあって魔法を使っていたエリクの方は普段とほとんど変わらない。真面目な顔で花の形をした茶菓子を摘んでいた。
彼は少し考え込むと、別の本について質問する。
「三冊目の本って感じ取れる?」
「東の大陸に行った本ですよね。分かりますよ。まだ向こうの大陸にあります。
 ただ距離があるせいか内容はあまり取れないんですよね。繋がりは確かにあるんですが」
「なるほど。でもそれはやっぱり二の次だな。向こうの大陸には向こうの事情があるだろうし」
「ですね」
今彼らが解決すべきは猛威を振るう魔女の方だ。
遠く離れた別の大陸については、その大陸の人間が何とかするのかもしれないし、しないかもしれない。
この土壇場にあってそちらに気を取られていては為すべきことも揺らいでしまうだろう。雫は砂糖菓子を一つ手に取る。
「もし魔女が倒せて、本を破壊したらこの大陸ってどうなっちゃうんでしょう。みんな言葉が通じなくなるんでしょうかね」
「多分、病が病ではなく当然のものになると思う。
 既に言語を身につけた人間は変わらないだろうけど、これから生まれる子には学習が必要だ。
 でも君の世界ではそれが当然なんだろう?」
「です。けど」
雫は「姉にもうすぐ子供が生まれる」と言っていたレラのことを思い出す。
この大陸には彼女だけではなく、真剣に子供の病を憂い、治したいと思っている人たちが多数いて、今も奔走しているのだろう。
彼らの願いや祈りを思うと、生得言語をも排除しようとしている自分たちの行いがまるで驕りのように思えてしまう。
だが、だからと言って本をそのままには出来なかった。
言葉が乱れ、誤解が生まれ、多くの齟齬が生まれるのだとしても、そこにはそれだけではなくきっと自由がある。
だから今は人の可能性を信じて前に進むしかないのだ。

エリクは固い女の顔から緊張の理由を読み取ったらしい。お茶のカップを置くと苦笑する。
「まぁ生得言語に関しては僕の推論が間違っているという可能性もある」
「それ言っちゃいますか!?」
「だからそれ程気負わなくてもいいよ。本を壊しても生得言語はなくならないかもしれないんだから」
男の言葉は低く抑えられてはいたが、彼女の肩の荷を軽くする為のものだけにしては強すぎるようにも聞こえた。
雫は僅かな引っかかりを覚えてまばたきをするが、彼の表情はいつもと何ら変わりがない。
エリクは雫の視線に気づくと顔を傾ける。
「さて、今日は早寝した方がいい。明日の出立は早朝だから」
「寝た方がって……何か眠れる気がしないんですけど」
今日一日寝たり起きたり半覚醒になったりを繰り返していたのだ。とてもではないが寝付ける自信はない。
翌日寝惚けてラルスに怒られる自分が想像できるようで、彼女は肩を落とした。
しかしエリクはおかしそうに笑うと軽く手を振る。
「眠らせてあげるよ。じゃないと体持たないだろうし」
「え。本当ですか? やった!」
それなら何も問題はない。
雫は軽食と入浴を考えて二時間後もう一度エリクに来てもらうことを約束すると、慌しく翌日の準備に取り掛かった。
メアが食事を用意する間レウティシアから支給された魔法具を改め、明日の服を用意する。
普段彼女がスカートを履いているのはこの大陸の文化にあわせてのことだが、明日は動きやすさを考えて迷い込んだ時に着ていたサブリナパンツを履いていくことにした。代わりに剥き出しになる足元は頑丈なブーツにする。
自分でも変な格好かもと思うのだが、馬での移動ならともかく鎧を着て歩き回る程の筋力はないのだから仕方ない。
そうこうしているうちにメアがパンケーキと野菜のスープを運んできてくれたので、雫は食卓についた。
甘い香りがする楕円型のケーキに金色の蜂蜜をたっぷりとかける。
少女の姿をした使い魔は温めた牛乳のカップだけを手に主人の向かいへ座った。
今まで何度も繰り返した二人だけの食卓。
平凡で温かく、けれどこれで最後かもしれない夕食に、雫の脳裏には様々な思い出が去来する。
「メア」
「はい」
「怖い?」
「いいえ」
まったく間を置かない返答に彼女は微笑んだ。ほんのり甘いスープを一匙口に入れる。
きっと自分は幸福で、申し訳ない程に恵まれている。
生まれてからずっとそうであったからこそ、この大陸でも生きてこられたのだろう。
そしてこの異世界でも恵まれていたおかげで、胸を張って戦えるのだ。
無謀すぎる彼女の決断は、人の為、世界の為と他の人には思われるかもしれない。
けれどそんな身の丈にあわない理由の為ではなく、「人が殺されるのは嫌だ」という感情の為に、そして人間としての矜持ゆえに雫は立つことを決めた。
「戻ってきたら次は何処に行こうか。……雪国はもうやだな」
「南の海は青が澄んでいると聞きます」
「うわぁ。いいなぁ! 私この世界に来てからまだちゃんと泳いでないんだよね。濠とかばっかで」
「城都の南には湖もありますよ」
「え。知らなかった。あー、日記帳も買いに行ってないんだよね。帰ってきたら買い物行かないと」
未来の話に雫は声を上げて笑う。
幸福を幸福と気づける時。
それはとても温かく、何故か少しだけ物悲しかった。



エリクは時間通りに再び雫の部屋へやってきた。湯上りの彼女に迎えられると眉を顰める。
今までも何度か思っていたのであろう苦言が、雫の頭上に降り注いだ。
「君はどうして夜着で人前に出てくるかな」
「え。だってパジャマですよ。これから寝るのに」
「そうだけど」
オルティアなどは肌が透けそうな格好で寝ていることもあったが、雫は上も下も木綿の服をきっちり着ている。
運動着とさして変わりないと思うのだがそれ程問題なのだろうか。
彼女は何が不味いのか重ねて聞こうと思ったが、それより早く「君の世界はそうなんだね、分かった」と纏められて何も言えなくなった。乾かされたばかりの髪を纏めると寝台に上がる。
「本は念の為今晩は僕が持っていくよ。眠らせたのに起きられちゃ意味ないから」
「お願いします」
「じゃあ明日の集合二時間前に目が覚めるようにする。それでいい?」
「はい」
聞いているだけで落ち着く詠唱。
額に触れる指も最早慣れた感触だ。
雫はゆっくりと胸を上下させながら目を閉じる。
明日起きたなら、その時は戦いの時。自分がそこでどうなるのか予想もつかない。
彼女は落ちていく意識の中、彼の瞳をもう一度見たいと思って目を開ける。
けれどその意思とは裏腹に眠りは深く雫を絡めとり、抗う間もなく夢のない夜の中へと引き込んでいったのだった。



エリクは雫の寝息が聞こえ出すと、軽く黒髪を引いて眠りの深さを確かめた。
術がちゃんと効いていると確認すると寝台の傍を離れ、本棚へと向う。
全ては埋まっていない棚のうち、彼が手を触れさせたのは絵本の草稿が纏められている紙袋だ。
エリクはその中から数枚の原稿と草稿を選び出すと、後は元通り棚へと戻した。
メディアルで雫が監禁された間接的な原因とも言える絵本は、既に彼の指示により一部回収されている。
勿論公表しても問題がない数作はそのままだが、あとは原稿が残っていても不味い。
エリクはそれらを本と重ねて小脇に抱えた。メアに鍵をかけるよう命じると音を立てずに部屋を出て行く。

その日の夜は早く、皆が眠りについた。
全ては明日。
新しい時代はここより幕を開ける。