人の祈り 163

禁転載

冷え切った魔女の城では死体が腐ることはない。
腐敗する間もなくそれらは魔物たちに食い荒らされ、残りは塵となって消え去る。
あちこちを雪混じりの風が吹き抜け、壁に触れれば皮膚が凍りついてしまいそうな石の城が孕むものは空虚だ。
生命を感じさせない城の最上階で、玉座に座る男は目を閉じる。
この城は彼が作ったもので、だからこそ何処にいても城内のことは大体把握出来るのだ。
今も下層階で誰か人間が絶命する気配を感じて、エルザードは面白くもなさそうに鼻を鳴らした。
「脆い」
アヴィエラは人間のことを好んでいるが、彼からするとどうにもそれは、草花と変わらぬ壊れやすい存在にしか思えない。
生物として、個として、そして集団で生きる種としてそれぞれの欲望を使い分け、慌しく短い生を送っている。
この階層ではもっとも複雑な作りをした生き物だが、その他に見るべきところは特にないだろう。
寿命などないエルザードにとってこの世界での十数年は決して長くはなかったが、既に人間の全ては理解出来た気がした。
「アヴィエラ」
飽いたことを告げる声。
けれどその声に返答はない。ただ壁に跳ね返って響くだけだ。
彼女は今頃城の何処かを歩いてでもいるのだろう。
世界に魔女と名乗った女は、よくそうやって下層階に下りて行っては拾い物をしてくる。
人の骨や、剣や、くたびれた装飾品などガラクタを集めては自室に持ち帰り溜め込んでいるのだ。
その収集癖が何を意味しているのか聞いたことはない。彼女のことは理解出来ない。
ただ漠然と感じるのは、アヴィエラは何かを「残し」たいのではないかということだ。
小さな村を襲わせる時も、彼女は全ての人間を殺さない。何故か一人二人を生かして残す。
エルザードはそれを、より大きな実を得る為に間引きをするようなものだろうかと思っていたが、単に彼の知識では似た例が他にないからそう思うのであって、実質はまったく異なるのかもしれなかった。
親も子も持たない上位魔族は自分以外のものを保とうとする思惟に共感を覚えない。
彼らは完全に個としてのみ在るのであり、同族意識も薄い。
だから彼は時折考えてみるのだ。
彼女が望む「残す」とは、一体何なのであろうと。






時を告げる鳥が囀り始める。
澄んだ空気と静寂が広がる早朝。
ファルサス城の中庭には武官と魔法士合わせて約三十人程が集まっていた。
魔女に挑むにしては余りにも心もとない小隊程度の編成。
しかも今回は軍としての戦闘ではなく、個々人としての戦闘である。
蓋を開けてみなければ分からない事態に緊張が色濃い者も決して少なくない。
けれど彼らは不安を口にすることはなく、思い思いに自身の装備を確認しながらその時を待っていた。

ほとんどが男性である彼らの中には、けれど女性も少数混じっている。
その中の一人、雫は人の輪の中央近くで腰につけた二本のベルトを調整していた。
皮で出来た細ベルトの片方には魔法具である短剣が留められており、もう片方には何種類かの魔法薬の小瓶が並んでいる。
何処かに絡まないよう髪を後ろでみつあみにした彼女は、厚手のブラウスとサブリナパンツの上から防御魔法と防寒魔法を織り込んだケープを羽織っていた。
腰の下まで届くケープは切れ込みが入っており腕の動きに支障はないが、普通にしていれば彼女の手は見えることがない。
つまり、紺色の本を持っていることは一見して分からないようになっている。
今回の戦闘において情報戦の鍵となるであろう彼女は、ベルトが落ちていかないことを確かめると顔を上げた。
「これ、大学受験より緊張しますね」
「比較対象がおかしいのではないかしら」
雫の隣にいるレウティシアは白い魔法着を着ている。
そう言えば高名な魔法士である彼女の戦闘着を目にするのは初めてだ。雫は惚れ惚れと美しい上司を見上げた。
レウティシアは今回城の中までは入らない。
転移門を開いて戦闘部隊を送り、なおかつ彼らが城内に踏み入るまで援護をするだけである。
その後彼女は一旦城に戻り、軍の指揮を執りながら攻撃の機会を見計らう手筈になっていた。
直系の兄妹をそれぞれ戦闘部隊と軍の支柱に据えての作戦は魔法大国ファルサスの本気を窺わせる。
この国において王族とは、戦場にあって他を圧する者を意味するのだ。
雫は真向かいに立つ鎧姿の王に視線を移す。
「王様ってちゃんとしていると格好いいんですね」
「朝から不敬罪か。いい度胸だ」
「敬えるなら敬いたいとは思っているんですが」
アカーシアを佩いたラルスは、全身鎧ではなく胸部を始めとして各急所を覆う銀色の部分鎧を装備している。
馬上での戦闘ではない上、寒冷地であるからして全身鎧を避けたのだろう。
ただ簡略の姿であっても王剣の主人として彼の威は堂々たるものだった。
かつて大陸を恐怖で震え上がらせた「魔女」に僅か数十人で挑まなければならないという畏れに対しても、この王の存在があるからこそ何とかみな平静を保てているのだろう。
傲岸不遜の見本のような男は、背の低い女の頭を叩きながら彼女の後ろを見やる。
「俺とこいつが一緒にいると向こうに読まれるからな。中に入ったら別行動だ。ちゃんと面倒見ろよ」
「分かりました」
このような時でも揺らぎのない魔法士の声に、雫は密かに安堵した。
彼女に求められていることは魔族との戦闘ではない。いかに死なずに相手の手を読むかだ。
雫に護衛兼連絡の魔法士としてつくエリクは黒い魔法着に細身の長剣を佩いている。
相変わらず薄着の彼は、その剣以外はいつもと何ら変わりがないように見えた。
彼女はエリクの隣に移動すると姿勢を正す。もうすぐ出立の時間だ。雫は肩の上の使い魔に笑いかけた。
「行こうか」
出来うる限り気負いを減らした言葉。それを汲み取るかのようにレウティシアが手を上げる。
何の声もない合図に、しかし中庭にいた全員の視線が王妹に集中した。自然と中央に空間が生まれる。
彼らのうち何人が生きて魔女に到達出来るのか、彼女に打ち勝てるのか。
本も今はそれを語らない。記されるのはいつでも終わってしまったことだけだ。
雫は腕の中の一冊を抱きしめながら、開かれる転移門を見つめる。
それはこの世界に迷い込んだ時の穴よりもずっと、人の決然を思わせる美しい門だった。






分かっていたことだがヘルギニスは寒い。
雫は肌を切るような寒風に、耳当ても探してくればよかったと後悔したが後の祭りである。
だがいつぞや死に掛けた時と違って、今回は厚着というほどではないが防寒用の魔法がかかったケープを羽織っているのだ。
彼女は白い息を吐き出しながら、左右に聳える切り立った岩壁を見上げた。
「凄いですね……」
「この山道を少し登ればすぐだよ」
彼らが転移で出た細い山道からは岩山に遮られ城の姿は見えないが、この先の空気が淀んでいるのは雫であっても分かる。
城の周囲は魔法装置によって瘴気に満たされており、外からは転移座標の指定がきかないほど異界と化しているのだそうだ。
一行は雪が積もる山道を速やかに移動し始める。
前にも足跡が複数ついているのは、個人で魔女討伐をしようと向った人間がいたのだろう。
彼らが今も無事でいるのかどうか、雫はそんな考えに一瞬気を取られた。けれどすぐに雪道を転びかけて思考を手放す。
彼女の顔が雪の中に突っ込む前に、手を伸ばして体を支えた男は呆れた顔になった。
「ちゃんと前と足元を見る」
「す、すみません」
これではまるで幼児である。雫は気を引き締めると一歩一歩に注意を払い進んでいった。
エリクの言う通り、緩やかなカーブを描く山道を十分程登ると、一気に視界が開ける。
六百年前にはヘルギニスの国境門であった場所。岩山を縫う道の終わりに立つと、彼らはその先を見つめた。
「これは―――― 」
皆が皆、その異様な光景に絶句せざるを得ない。
それくらい目の前に広がる荒地は形容し難い圧力に満ちていた。
暗く閉ざされた場所。
雪の積もっていない乾いた大地は、けれど冷え切って岩のように固い。
草も木もなくただ石が転がっているだけの土地は、夜の始まりに似て薄暗く、陽光の欠片さえ見出せなかった。
凍えた風が雪片を巻き上げて吹きすさぶ。暗雲よりも黒い靄が一帯を覆って蠢いた。
その中央に聳える黒い城を王は注視する。
かつてヘルギニスに建っていた城を模したのか違うのか、城はまるで塔のように天へと突き抜ける形を取っていた。
頂までどれくらいの高さがあるのか、城の先端は上空の瘴気に埋もれて見えない。
ラルスは吹き付ける風と同じくらい冷ややかな視線で黒い靄を見上げた。
「レティ、魔族召喚禁止の構成が敷けるか?」
「この瘴気では無理ですね。普通の生物でも汚染されかねません。魔法装置を破壊することは困難ですし」
ヘルギニスを異界と為した魔法装置は、領域内の外周、東西南北に一つずつ据えられた構成と城内部の核の五つより成っている。
そこまでは、雫が本から取り出した知識によって判明しているのだが、あまりにも巨大すぎるその装置に、破壊は現状ではほぼ不可能という結論が既に出されていた。中央の核を破壊した後であれば力の流れが弱まる為、東西南北の構成を破壊することも出来るだろうが、核が生きた状態で外周の構成を崩そうとすれば、均衡が崩れて辺り一帯吹き飛びかねない。
それがヘルギニス領内に留まらず、大陸北西部丸ごととなれば「外周の構成を破壊してみよう」と言い出せる人間はいなかった。

人の心身を消耗させ、魔物には逆に力を与える瘴気をレウティシアは忌々しく見やる。
一方兄の方は特に落胆も見せず「残念」と言っただけで、迷いない足取りで雪上から荒地へと踏み出していた。
その一歩に他の人間が続く。だがすぐにラルスの背後から女の声が飛んだ。
「王様、気づかれました」
「そうか」
雫からの報告に王は剣を抜く。
城までの距離は全速で走って五分程であろうか。他に比較対象が何もないため距離感が掴みづらい。
本をケープの下に抱え込んだ彼女は、この場にはないものに集中出来るよう片目を閉じて続けた。
「迎撃用の魔族が放たれます。数は五、六十。空からです」
「じゃあ一人二体でちょうどいいな。倒せなかった奴は夕飯抜き」
「王様それ私も人数に入ってませんか? 鬼ですか?」
「さー、頑張るぞー」
いつも通り綺麗に無視された雫が足元の小石を蹴ると同時に、城の方角、空に数十の黒点が現れる。
みるみるうちに近づいてくる飛影。
その接近に対して、次々に剣を抜く音が鳴り、詠唱の声が重なった。
人よりも一回り大きい異形の姿を視認して雫は緊張に足を止める。本を左脇に抱え、腰に帯びた短剣を探った。



だが、短剣を抜く必要は結局なかったのだ。
魔物たちが標的目掛けて高度を下げ出したその時、王の傍から苛烈な白光が放たれたのだから。
強い閃光は刹那で黒い一群を飲み込み、その眩しさに雫は思わず目を瞑った。遅れて静けさが辺りに広がる。
何が起きたのか、身を竦めたまま動けない彼女の肩をエリクが叩いた。
恐る恐る雫が目を開けると空には一つの影もない。
ラルスの暢気すぎる声が代わりに響いた。
「あー……レティ、加減しろ。全員の夕飯抜きが決定したぞ」
「馬鹿仰っていないでさっさと進まれてください」
魔法大国に集まる魔法士たちの更に頂点に位置する女は、絶大な力を見せつけながらそう冷ややかに返す。
長い黒髪を払う彼女は兄よりも先を歩き出すと、「城に入るまで兄上にはかすり傷一つ負わせません」と続けたのだった。