人の祈り 164

禁転載

雫には魔女の思考を追うことは出来ない。細かい行動も分からない。
ただ魔女が魔女として決断を下し場を動かす時、本に記されるそれを読むだけだ。
本来であれば先手を取ることこそが有利を作る駆け引きにおいて、けれど彼女は決して魔女の先手を取れない。
その代わり魔女が下した判断が、また打たれた手が、実際目の前に現れるまでのタイムラグを利用して被害を抑える。
まるで綱渡りのような危うい試み。
だがそれはまた、共に戦う人間たちの命綱ともなるだろう。
そしてもう一つ―――― 。



「ここで迎撃をやめました。城内の魔法装置をいくつか動かし始めています」
「ん」
雫がそう報告したのは一行が三度目の攻撃を退け、城の入り口へと到着した時のことだった。
斬り捨てた魔物の体を跨ぎながらラルスは聳え立つ城を見上げる。
「どんな装置か分かるか?」
「転移装置と罠の類のようです。それ以上の詳細は分かりません。あと城内に魔物が放たれています」
「罠か」
さすがにそれらの内容一つ一つまでは本には記されない。
雫に分かるのは「魔女がファルサス国王を迎えうつ為にどんな手段を取ったか」の概要だけで、それ以上については用心しながら実際に進んでみるしかないのだ。
ラルスは巨大な両開きの石扉の前に立つと、何もない空中をアカーシアで払った。
だが何もないと思ったのは魔力がない人間たちだけで、そこには何らかの魔法構成があったらしい。
王が手を触れさせると、厚い石扉は耳障りな摩擦音を立てながらも自然に奥へと開き始める。
「じゃ、行って来るからな、レティ。一人で帰れるか?」
「帰れます。外には転移が出来るようですから」
王妹はそれだけ言って足を止めた。王を始め城内に踏み入っていく面々を見送る。
たった一人の兄を危地へと見送る彼女の気持ちはどんなものなのか。
姉妹しかいない雫は想像がつくようなつかないような思いで外を振り返った。
彼女と目が合うとレウティシアは微笑む。
「頑張って」
短い中に込められた万感。
雫はその言葉に確かに頷くと、再びゆっくりと閉まり始める扉を背に、前へ歩き出したのだった。






浮かび上がる文字を指でなぞる。
短い一文はファルサス王妹がこの場から去ったことを示していた。アヴィエラは薄く微笑む。
「王妹を下がらせたのは王の命か? 全力で挑んでくればいいものを」
「手間が増えるだけだろう。あの女は精霊とやらを連れている。上位魔族同士でやりあうのは面倒だ」
レウティシアが使役している精霊とエルザード、どちらが強いのかアヴィエラは知らないが、彼もそれを明らかにする気はないらしい。
ただ平静に抑えた声音に、多少の負けん気が混ざっている気がして彼女は唇を上げた。からかうように問いかける。
「随分弱気なことだ。ならばアカーシアなら勝てるのか?」
「造作もないな。使い手を狙えばいい」
男は言い放つと玉座の上で目を閉じた。或いは到達者が現れるまで眠るつもりなのかもしれない。
彼はアヴィエラが言えば手を貸してくれるが、それ以外は気紛れにしか動かないのだ。
魔女は本を閉じると玉座の後ろを振り返る。
硝子のない大きな窓。そこから見えるものはただの瘴気だ。
六百年の昔には澄んだ空気と共に居並ぶ山々の絶景が見渡せたという高みにて、彼女はそれを少しだけ残念に思う。
だがアヴィエラは表情に気だるい失望を見せることなく微笑んだ。
「アカーシアの剣士に殺されるのでは面白みがない。ファルサス国王には悪いが、退場をお願いしたいところだな」






城の一階に廊下はなかった。
というよりも何もないと言ったほうが正しい。
扉をくぐった先は階全てを使った広間になっており、そこには家具も装飾品もなかった。
ただ氷板のように冷えた石床が敷き詰められており、天井も吹き抜けになっている。
がらんどうとしか言いようのない大きな空間に、雫は天井を見上げた。
隣を歩いていたエリクがさりげなく彼女の背後に移動したのは、上を見過ぎて転ぶとでも思ったのだろうか。
一行が警戒しながら広間を調べ出す一方、雫は立ち眩みしそうなくらい上方にある吹き抜けの終わりを見つめる。
案の定よろめきかけエリクに支えられた彼女は、隣にやって来た王とハーヴに気づくと目礼した。
「結界の核は上か」
「です。ちょうど真ん中くらいの階ですね。最上階には魔女と上位魔族が。本は魔女が持っています」
「魔女と上位魔族か。まぁ何とかなるかな」
王の述懐に周囲の人間には緊張が走る。
先日不意を突かれたとは言え上位魔族の前に、熟練した魔法士であるトゥルースが一瞬で重傷を負わされたのだ。
その彼は今回、軍の指揮に加わっておりこの場にいないが、魔法士長である男の実力を考えるだに嫌でも敵の強大さが感じ取れる。 押し黙る部下たちをラルスは見回した。
「無理するな。魔女も上位魔族も俺に回せ。そこまでの魔物を掃討出来ればいい。
 ああ、魔女の持っている紅い本も破壊対象だが、破壊できないようだったら俺のところに持ってこい」
外部者の呪具とは本来破壊が困難なものらしい。
だからこそアカーシアが対抗武器として意味を持っているそうなのだが、ラルスにばかり負担が集中しそうな状況に、雫は複数の意味で心配になった。
魔法具の類なのか珍しく嵌めている指輪を弄っていた王は、時計を取り出すと彼女に視線を移す。
「もうそろそろだ。いけるか」
「やってみます」
雫は意識を集中させると広間を右往左往しながら場所を探した。
平面上の場所を揃えることに意味があるのか自信はなかったが、何となくその方がいい気がして動き回る。
時間はもうあまりない。彼女はようやく中央近いある一点に立つと両目を閉じた。
ケープの中の本と、その遥か真上にある一冊に意識を同調させる。






同時刻。
メディアル宮殿内の一室には十一人の王が集まり、その時を待っていた。
城の主であるヴィカスは勿論、キスク女王オルティアやガンドナ王ダラスなど大国の王たちを始め、有力国家の王権を持つ者たちが一堂に会している。何もなければまず揃わない彼らが、時と場を同じくしているのはある目的の為だ。
ファルサスから要請を受けてのこの行動によって、果たして本当に魔女を退けられるのか、彼らは確信を持っていない。
ただ一人オルティアだけが要請の持つ裏の意味を知っているだけだ。
「そろそろか……」
ヴィカスの声に一同の視線が集中する。
隣の領地に魔女の城が出現したことにより、前例のない苦境に立たされたメディアルの王は、けれど取り乱したところの一切ない落ち着いた態度で机上の時計を見やった。魔法仕掛けの湾曲した針がゆっくりと円を描き、中央を指す。
指定された時の始まり。
老王はおもむろに口を開いた。
「今この時をもって……メディアルは魔女アヴィエラに宣戦する」



―――― 始まった。
その衝撃は雫の精神に濁流のように押し寄せる。



何の前触れもない唐突な宣戦布告は、しかしメディアルだけのものではなかった。
ガンドナ国王ダラスは軽く手を挙げて笑う。
「ガンドナもだ。総力をもって魔女を排除する。過去の遺物は沈黙していろ」
「キスク女王オルティア・スティス・リン・キスクは只今より魔女に宣戦を布告する」
「ベストルは本日、王の権限を以って魔女への戦を行うことを宣言する」
「ナドラスは魔女に屈することをよしと思わず。これより国を挙げて戦争に入る」
決められた時間。
決められた宣戦。
十一人の王によるそれらは単なる宣言に留まらない。次々に具体的な指示が飛び、軍の編成とその布陣までもが決定されていく。
同じ部屋にいる彼ら。しかし王たちはお互い議論を交わすわけでもない。
他の王の言葉など聞かず、ただ自国の軍策を文官たちに伝達するだけだ。
異様としか言いようのない彼らの指示に、それまで静寂に満ちていた部屋が一気に喧騒で溢れかえった。

その全てを手配した男は、冷え切った城の広間で一片の畏れもなく笑う。
「勿論ファルサスも宣戦だ。首を飾ってやるから待っていろ」
かつて魔女の一人を屠った王剣を手に、ラルスは上階を仰いだ。
その傍らでエリクは周囲の様子に気を払いながら、雫の体を支えている。



大陸に残る二つの本。これらの本はそれぞれ大陸の歴史を二分して記している。
それは場所的な区分による記述であり、仮に本同士を同一の場所に置いたとしても、一帯の記述は先に在った本に優先されるようになっていた。
雫が監禁された時に紺色の本を見て、そこに何も記されないと確認したエリクは記述の優先法則を知ったが、彼はそこからまた別の可能性をも考えた。
すなわち―――― ある一箇所、ある時刻に、大陸における歴史の転換点を集中させたらどうなるのかと。
エリクは自分が調べた紺色の本に、明らかな歯抜けがあることを分かっていた。
そしてその中には、同じ戦場内における事件にもかかわらず五ヶ国以上が入り乱れたせいか、一つの戦闘についてもう一冊へも記述が分かれたという事例も混ざっていたのである。



言葉の奔流。
その只中に立つ雫は、無形の力に押し流される情報をかき分け、自らへと引き寄せる。
二つの本を接近させた上で情報量を決壊させるというこの試みの成否は、本と繋がる彼女がどれだけ二冊の優先順位を逆転させられるかにかかっていた。
紅い本が記しきれない情報を紺色の本に渡し、同時に一帯の記述権をも徐々に奪い取る。
自分の体の外にまで精神を流出させ動かすという挑戦は、彼女の自我に多大なる負担をかけていた。
頭蓋を割るような初めの頭痛が薄らぐと、代わりに「自分」という意識も曖昧になっていく。
「っ……あ、あ……」
「雫」
名を呼ぶ声と共に、肩を叩かれる。
その声で、感覚で、雫は自分に肉体があることを思い出す。自分を思い出す。
彼女は閉じていた目を開くと、重みのない頭を振って息を吐き出した。正面に立つエリクが顔を覗き込んでくる。
「大丈夫?」
「すみません。平気です」
呼吸をすれば体を思い出すのは何故なのだろう。
この息こそが自分の魂なのかもしれないと、彼女は少し笑った。再び目を閉じる。
そして雫はまた見えない海へと漕ぎ出した。少しでも多くを掴み、魔女の手から奪い去る為に。
これは彼女と魔女の戦いであると同時に、彼女と本との戦いでもあるのだ。






予定されていた時間は五分間。
それ以上は雫の精神が持たないとあらかじめ決められていた。
指定の五分が終わると、彼女はエリクの腕の中に崩れ落ちる。
呼吸は荒いが意識を失ったわけではない。その証拠に黒い瞳が王を見上げた。ラルスは笑いもせず問う。
「どのくらい取れた?」
「六割。すみません」
「上等だ」
本当ならば完全に記述権を奪い取りたかった雫は、汗の滲む額の下で悔しそうな苦笑を見せたが、事態は好調と言えるだろう。
これで、以後アヴィエラが知り得る情報はそれまでの四割だけになったのだ。
本自体に意思がない以上、二冊への振り分けは無作為なものになり完全な漏洩は防げないだろうが、全て筒抜けと半分以下では大分違う。
おまけに雫がいれば、ファルサスは全てを知ることが出来るのだ。
ラルスは満足そうに頷くと、壁に沿って上階へと向う階段を見やった。自分付きの連絡係であるハーヴを手招きする。
「ご苦労。お前たち二人はここにいろ。俺たちは上。行って来る」
「気をつけて下さい、王様。階段登りすぎて足がくがくにならないように」
「実はちょっとそれを心配している」
最上階に到着するまでにはどれくらい階段を登らなければならないのだろう。
密かに雫は上に向う人間たちに同情したが、どうにもならないことは仕方ない。
ようやく眩暈を乗り越えた彼女は、エリクの手を借りて立ち上がると服を調えた。腕の中の本を抱き直す。



その時、女の笑い声が聞こえた気がした。



「危ない!」
唐突な叫びに押され雫はたたらを踏んだ。
すぐにエリクが彼女の手を引き、その場を離れる。
何が起こったのか分からない。
雫に出来たことはただもつれるように走ることだけで、本に同調することも出来なかった。
背後から重い衝撃音が響く。
床を揺るがす振動に、彼女は地震でも起きたのかと錯覚したくらいだ。
次いで何人かの驚愕の声が重なり、一同の視線が中央に集中する。
エリクが手を離すと雫もそれにならって振り返った。
「……大岩?」
「だね」
直径が大人の背丈二、三人分はあるであろう床にめりこんだ巨岩。
付近の高山を思わせる鋭く尖った岩は、遥か上階から落下してきたのか広間の中央に突き刺さっている。
幸い押し潰された者はいないようだが、逃げ遅れていたならまず命はなかっただろう。
思い思いの方向に避難した人間たちはぞっと蒼ざめてその岩を見やった。ラルスが眉を顰めて高い吹き抜けを見上げる。
「これが罠か?」
「いいや? これからだ」
割り込んできた女の声。
全員が一瞬で臨戦態勢に入りかけた。
しかしそれより早く、中央の大岩が砕け散る。
「―――― っ!」
向ってくる無数の石礫。
全身を打たれる予感に雫は片手で顔を覆った。彼女を庇ってエリクが前に立つ。
けれど次の瞬間、雫が見たものは跡形もなく消え去る男の背で―――― 思わず愕然とした直後、彼女もまた石を胸に受け、その場から消え去ったのである。