人の祈り 165

禁転載

気がついた時、雫は体を二つに折って激しく咳き込んでいた。半ば無意識のうちに小石があたった部分をさする。
怪我をした、というほどではないが気管の上に当たってしまったらしい。
何とか咳を飲み込むと彼女は涙目で辺りを見回した。そして思わず立ち尽くす。
「あれ……」
灰色の冷え切った壁と床。そこには窓はなく、家具の一つもない。
いつの間にか雫がいる場所は、先程までの広間ではなく見覚えのない小部屋になっていた。
一見して覚えのない部屋は、けれど気温や壁の材質から考えて、おそらくがヘルギニス城内の何処かであろう。
ただし部屋の中には誰もいない。先程まですぐ傍にいたはずのエリクもその姿が見えなかった。
雫は呆然とした状態から我に返ると、ケープをめくり上げ内ポケットに囁く。
「メ、メア。いる?」
「おります」
馴染みある声に雫は安堵の息をついた。
寒い場所に来たのだからポケットに入っていて貰おうと考えたのが幸運だったらしい。
主人の要請で肩の上に戻ったメアは、窓のない小部屋を見回した。冷静に事態を分析する。
「先程の石一つ一つに転移構成が含まれていたのでしょう。
 当たった人間は片端からバラバラに転移させられたようです」
「いきなりか! やられた!」
ただでさえ少なかった戦力を分散されてしまった。それも一人一人レベルで、である。
雫は他の人間が無事であるのか心配になったが、他の人間はもっとも無力である彼女を心配しているだろう。
部屋に一つだけある扉を見ながら、雫は片目を閉じた。二冊の本に同調する。
「王様は……一人か。他のみんなも分断されたってだけしか書いてないな。メア、人の気配って分かる?」
「瘴気が濃すぎて今の状況では不可能です。もう少し近づけば分かるかもしれませんが」
「ってことは至近には誰もいないのか……」
ついつい肩を落としてしまったが、いつまでもそうしてはいられない。
はぐれた時の基本はきっと「はぐれた場所で待っている」だろう。雫は下り階段を探す為、用心しながらも扉に手をかけた。

扉の隙間から見える外は、広い廊下になっていた。
廊下は長く緩やかに弧を描いており、ところどころにある窓から寒風が吹き込んでくる。
風の中に雪片が混ざっていることからして、おそらく廊下は城の外周部分にあたるのだろう。
広間から見上げた吹き抜けにそれらしい場所がなかったことを思うと、今いる場所はそれなりに高い所にあるのかもしれない。
雫は大体を把握すると、音を立てないよう扉の隙間を広げた。息を殺し気配を窺う。
薄暗さが否めない通路。
だが幸か不幸か動くものは何もない。彼女は意を決すると扉の外に踏み出した。
右に行くか左に行くか迷って結局右に向う。どちらも同じに見えるので賭けのようなものだ。
雫は何度も振り返りながら慎重に歩を進めていった。扉が見えなくなると肩の小鳥に囁きかける。
「朝なのに昏いなぁ」
「瘴気がありますから。マスターは影響ないようですね」
「こういう時異世界人って便利だ」
カンデラでもそうだったのだが、今のところまったく息苦しさも気分の悪さも感じない。
これは実際便利だと誇っていいだろう。人によっては瘴気に接しすぎると精神に悪影響が出るのだそうだから。
もっとも精神に悪影響というなら、雫以上に外部から影響を受けている人間など他にいないのかもしれない。
法則を越えた呪具と繋がり、その力を逆手に取る。
言うは易いが、その行為はいつ精神が飲み込まれるか分からぬ危険性をもまた秘めているのだ。
「エリクは自分がいない時に使うなって言ってたけど……何処にいるんだろ」
「この近くにはいないようです」
「ぐう」
彼と合流出来たらそれが一番いいのだが、中々上手くはいかないだろう。
雫はとぼとぼと廊下を歩いて行き―――― そして足を止めた。廊下の先に見える黒い塊を凝視する。
「……何あれ」
「マスター、注意してください」
馬一頭が蹲ったような大きさの塊。
廊下の中央に在るそれは、会話に反応したのか気配に反応したのか、ゆっくりと動き出した。
山が崩れ落ちるように一つ一つが意思を持ってほどけていき、それは二十匹程の「何か」になる。
耳のない猫に似た、ぬらりとした四つ足の生き物。
潰れた目とその下の牙を見て取って、雫は生理的嫌悪にぞっと蒼ざめた。それらは彼女に向かってよろよろと動き始める。
初めて見る姿ではあるが、おそらくあれが城に放たれた魔物の一種なのだろう。
彼女は背後を振り返るとついつい嘆息した。
「……現代日本出身者としては、ああいうのに殺されたくないな……」
「―――― 来ます」
殺されたくないのなら、それ相応の対処をしなければならない。
雫はメアの声を合図に身を翻すと、廊下を元来た方向に向って走り出したのだった。






振り下ろされる豪腕の一撃。
石床をも砕くそれに、エリクは跳び退って空を切らせた。
大振りによって生まれた隙を逃さず、短い詠唱で二本の矢を作る。
炎を纏った鏃は男の制御により曲線を描くと、寸分違わず異形の両眼に突き刺さった。
上半身だけは人間に見えなくもないそれは苦痛に金切り声を上げる。ぶよぶよとした腹から突き出る六本足がのたうった。
「やれやれ」
エリクは軽く息を整えたが、相手にはそれも聞こえていないらしい。
視力を失った魔物は怒りの咆哮と共に、見当違いな場所へと太い腕を振るう。
拳は重い音を響かせながら外壁へと食い込んだ。細かい石片が床の上に散っていく。
魔物はそこに標的がいないと分かると振り返った。
「……これは放置できないか」
あまり余計な魔力は使いたくないのだが、このままにしておいて他の人間が通りかかっても困るだろう。
彼は改めて詠唱を開始すると空気の槍を作った。
狙うは腹の中央。こういった形の魔物は腹の中に心臓があることが多いのだ。
エリクは槍を手に取ることなく、構成だけで狙いを定める。
「撃て」
次の瞬間、槍はまっすぐに膨らんだ腹部に食い込んだ。
それは正確に肥大した心臓を貫き、先程のものとは比べ物にならない絶叫が上がる。
耳を痛める甲高い叫び。だがその声もすぐに止んだ。
エリクが最後の構成を繰ると同時に槍は魔物の体内で弾け飛び、その命を刈り取ったのだ。
上半身しか残らなかった死体を見下ろして、男はまじまじと異形の姿を見やる。
文献などでしか見られない魔物を目の当たりに出来るのは興味深いと言えば興味深いのだが、それどころではない。
一刻も早くはぐれてしまった女を探し、塔の一階に戻らねばならないだろう。
「本を使ったりしてないといいんだけどね」
あの本は乱用していいものではない。特に彼女は。
今は緊急事態であるからして仕方がないが、魔女に打ち勝てたのならすぐさま遠ざけ、本の存在自体忘れさせる必要がある。
それを彼の欺瞞と非難する人間も当然いるだろう。彼女自身も嫌がるかもしれない。
けれど既にエリクは、それを決定事項と考えているのだ。
「さて、上か下か、どっちだろう」
男は目にかかる髪をわずらわしげに払うと城の廊下を歩き出す。
誰のものとも同調しない足取りは、冷えて乾いた石の上に小さな音を響かせ、何も残さずに消えていったのだった。






数階分もの吹き抜けを通して見下ろす階下に人の姿はない。ただ石床に突き刺さっていた巨岩の残骸が見えるだけだ。
ラルスは続いて左右を見回し、そこにも人影がないことを確認した。先程までよりずっと近くに見える天井を仰ぐ。
「どうせならもっと上に飛ばしてくれればよかったのに」
岩が砕け散った時、彼は向かってくる破片のほとんどをアカーシアで相殺した。
しかし周囲の部下たちがその破片を受けて消えていくのを見て、彼は剣を引くとあえて破片を受けることを選んだのだ。
結果として転移させられた先は、それまで見上げていた吹き抜けの上である。
ここまで歩いて登らずに済んだのはよかったが、どうせだったらもっと上層階がよかった。
部下たちについてはともかく、自分が一人になったことに対しては何ら不安を抱いていない王は、嘯きながら階段へ向おうとする。

彼が足を止め、吹き抜けを振り返ったのは、空気が揺らぐ気配を感じてのことだ。
アカーシアを意識しながら隙なく体を返したラルスは、吹き抜けの真上に浮かぶ女を見て目を細めた。
アヴィエラは男に妖艶な笑みを見せる。
「よく来た、と言うべきか? アカーシアの剣士よ」
「寒い。もっと暖かいところに呼べ」
「ああ。ファルサスの人間にここは堪えるだろうな。だがこの地が一番異界化させやすかったのだよ」
魔女は剣の届かない空中で肩を竦めてみせる。
どうやら幻影ではなく実物のようだが、あの位置にいられてはラルスから直接攻撃することは出来ない。
無論、無茶をするならアカーシアを投擲することも出来るのだが、それをして避けられた時には確実な死が待っているだろう。
王は気づかれぬよう投擲用の短剣を探りながら魔女を見上げた。
「しかし魔女とは大見得を切ったな。それを名乗っては大陸も本気になるしかないだろう?」
ファルサス直系である男の目には、魔女が内包する力の大きさもまた見えている。
彼は王剣の剣士であり魔法については妹にまかせきりなのだが、構成や魔力を見ることだけは出来るのだ。
事実を指摘する言葉に女は微笑む。そこにたじろぎはまったく窺えなかった。
「私の魔力が分かるのか。さすがはファルサス王家だな。
 そうだ。私は魔力から言えば歴代の魔女たちの足下にも及ばないさ。
 ただ―――― こんなものがある」
取り出された紅い本をラルスは冷淡な目で見やった。
それが何であるのか、片方は知っていて片方は未だ知らない。
「王よ。秘された歴史を知りたくはないか?
 起こったことも起こらなかったことも、忘れ去られたものも隠されたものも。
 過去のことと侮るな。これには諸国の暗部や天才たちの策だけではなく、封じられた魔法の数々もまた記されている」
魔女の言葉は多くの人間にとっては甘美な誘惑として響いただろう。
知によって力を得る為の本。
これさえあれば大陸さえ手に入ると女は弄言し、人の目を眩ませる。
だが、本の本質を知っている男はその誘いを一蹴した。青い瞳が皮肉に細められる。
「知りたくないな。歴史については充分やった」
「だがそれも単なる一側面だ。真実はもっと無数にある。
 忘れ去られた歴史にどれ程の重みがあるか、自らの立つ足下を見下ろしてみればいい」
千数百年をゆうに越える大陸の歴史。
「今」に行き着くまでにどれ程の積み重ねがそこにあったのか。
埋もれてしまった、なくなってしまった過去を振り返れと魔女は囁く。
そこに人を誑かす為だけではない熱を嗅ぎ取って、ラルスは冷笑した。
「なかったと思われていることであれば、それはもうなかったことだ。
 しがみつくならば自分一人でしがみつけ。他人を巻き込むな。鬱陶しい」
嬲るというよりも斬りつける言葉。
それはアヴィエラを沈黙させ、感情を閉ざさせる力を持っていた。
途端に無表情になった女を王はねめつける。
「出来損ないの魔女が。お前の望みは過去の顕示か?」
観察者の道具に踊らされた女。
その為に彼女は暗黒の再来を謳い、無数の躯を積み上げたのか。
人々を煽り本をちらつかせ、自分の望みを投射しようというのか。

肌を凍らせる空気よりも冷えた問い。
女は少し微笑んだ。赤みがかった瞳が宙を彷徨う。
「私の望みは名を残すこと。―――― 王よ、お前は自分の名を残したくはないのか?」
「御免だな。死後も語られる王など虫唾が走る」
「ならば他の者に聞くとしよう」
軽い笑声と共に魔女の姿は消えた。何もなくなった空中をラルスは眺める。
王はそのまましばらく気配を探っていたが、二度と彼女が自分の前に現れないと悟ると、踵を返し階段へと向った。