人の祈り 166

禁転載

鋭い牙が右腕に突き刺さる。
灼けつくような痛みに武官の男は奥歯を噛み締めた。食らいついている魔物の腹を思い切り蹴る。
「グギャッ!」
小さな翼を生やした猿は床に転がり悲鳴を上げた。男は苦痛を堪え距離を詰めると猿の脳天めがけて剣を振り下ろす。
飛び散る脳漿。異形の体は頭を割られ大きく痙攣した。それも数度で止むとぴくりとも動かなくなる。
「仕留めたか……?」
彼の周囲には同じ猿の死体が数十転がっていた。最後の一匹の絶命を確認すると、男は布を裂いて腕の傷を止血する。
しかし、傷を縛ってもじくじくとした痛みは強くなる一方だった。
それだけではなく牙から何か混入したのか、徐々に熱い痺れが広がっていく。
「参ったな」
今、この状況で利き腕が使えなくなるということは、すなわち死を意味するのだ。
男は上手く握れない柄を何度も持ち直した。他に誰もいない廊下を見回す。

死ぬつもりはない。ただそれは、死ぬ覚悟がないということと同義ではなかった。
魔女に挑むのだ。むしろ生きて帰れる可能性の方が少ないだろう。怖くないと言い切れば嘘になる。
それでも自分はファルサスの武官なのだ。国の為に戦い、王の為に盾となる人間。
だからこそ死の危険が高い要請も迷わず引き受けた。
王自ら乗り込むというのに、同行せずして武官である意味はないと思ったのだ。
腕の立つ人間たちの中でも、独身者ばかりを選んで要請を出したのは王のせめてもの配慮であろう。
剣の落ちる高い音。
彼はついに感覚のなくなった右手を見下ろす。
血の臭いに引かれたのか、低い唸り声が角の向こうから聞こえた。重い足音が近づいてくる。
「……運が悪いな」
男は苦笑しながらも左手で剣を拾い上げた。足音が聞こえる方向に向って剣を構える。
絶望はまだない。
ただ悔しさだけがこみ上げる。

最後の瞬間、彼が目にしたものは、自分に食らいついてくる大きな顎で――――
食われながらも魔物の頭蓋を貫いた男はその時、何も知らぬまま彼の帰りを待っているであろう母親の顔を思い出していたのだった。






背後から複数の何かが追って来る気配がする。
ぴちゃぴちゃと舌なめずる音がやけにはっきり聞こえるのは、「それ」らが足音をほとんどさせない為であろうか。
雫は足を上げて飛ぶように走りながら肩の上の小鳥に命じた。
「メアっ! 近いのから一個ずつ!」
「かしこまりました」
主人の命令に応えて小鳥は力を放つ。
それは先頭を走っていた魔物に命中し、小さな頭を四散させた。次にメアは二番目の魔物を狙う。
雫はその間も足を止めない。廊下の先を見据えて床を蹴る。

―――― 相手は複数だ。
立ち止まって迎え打てばすぐに死角からの攻撃を受け立ち行かなくなってしまうだろう。
そう判断した雫は咄嗟に反転逃走を選んだ。
だがそれは逃げることが目的というよりは、走りながら追って来る個体を撃破していく為の逃走である。
そして彼女の目論見通り、メアが力を放つにつれ雫を追う魔物の数は徐々に減っていった。
走る速度も拮抗しているのか一度に何匹もに追いつかれることはない。このまま走り続ければ無傷で追跡をしのげただろう。
けれどその数が残り数匹になった時、彼女の目には元いた部屋の扉が見えてきたのだ。雫はそれに気づくと慌てて思考を働かせた。
あの扉までは何もいなかったと確認している。だが、この先は何がいるか分からない。
彼女は短い計算の結果、新手に出くわす可能性を考えて声をあげた。
「止まるよ!」
「はい」
短剣を抜きながら雫はブレーキをかける。同時にメアは三匹をまとめて吹き飛ばした。
すかさず飛び掛ってくる一匹めがけて雫は短剣を振るう。
剣など使ったことのない雫の動きは、どちらかというと空中を乱雑に薙ぎ払ったようにしか見えなかったのだが、その刃は魔物の顔に食い込み、あっけなく頭部を両断した。豆腐でも切ったような手ごたえに彼女は嫌な顔になる。
その間にもメアは敵を減らすことをやめない。最後の一匹に雫が短剣を突き刺すと、小さな体は霧散して消えてしまった。
静寂が戻る廊下で一人と一羽は顔を見合わせる。
「勝った、かな?」
「死肉処理用の魔物だったようです」
「うぇ」
気分が悪い話だが、それならあっさり消え去ったのも納得出来る。元から生きた人間を相手にするようには作られていないのだろう。
雫は気を取り直すと再び廊下を戻り始めた。
しかしその時、背後から獣の唸り声が聞こえてくる。
「……」
内臓に直接響く低い声。
確かに感じ取れる気配。
今まで相手にしていた魔物とは比較にもならない圧力が彼女の背筋を凍らせた。雫は強張った指で短剣を握り直す。
振り返りたくはないが、確認しないわけにはいかない。
彼女は意を決すると首だけで背後を振り返った。
そして戦慄する。
「……嘘でしょ」
白い牙。赤い瞳。
雫の体のゆうに三倍以上はありそうな巨体。
肉色の虎に似た魔物が、そこには唸り声をあげて姿を現していたのである。



嫌なことから逃避できるのなら、今まで逃げ出したい機会は腐る程あった。
しかし中でもこれは上位に入る状況だろう。
雫は生きながら食われる自分を一瞬想像して息を詰まらせた。魔獣が一歩を踏み出すと同時に、自分も一歩後ずさる。
「メア、勝てるかな?」
「生命力が強い種です。殺すには時間がかかるかと」
「うん………………まぁ、やってみよう」
巨大な敵というと、いやでも禁呪の大蛇に追われた時の記憶が甦るが、それよりは遥かにましな相手であろう。少なくとも敵はただの魔物だ。
雫は短剣を一旦ベルトに戻すと、代わりに魔法薬の小瓶を手に取った。肩の上のメアに指示を囁く。

落ち着いて、体を動かすこと。
それがもっとも重要なことだろう。
震える程怖くても、恐れに鈍れば、それは死に繋がる。
けれど冷静に動けば、まだそこには活路が残っているはずなのだ。

雫は紅く光る魔獣の目を見据える。
恐怖を表面には出さない。それをすれば侮られると分かっているからだ。
そのまま彼女はゆっくりとタイミングを計った。相手が攻撃を仕掛けてくるその時を待つ。
音はない。どちらも音をさせない。呼吸音さえも止んだかのようだ。
雫は奥歯を噛み締めて敵を見上げる。
「―――― 来い」

武器を持たない女。
その体を引き裂こうと魔獣がおもむろに飛び掛かる。
誰の目にもそれは、捕食者が獲物を仕留めるだけの光景として映ったであろう。
しかし肉色にぬめる巨体は、雫に触れる寸前、空中で別の力に押し止められたのだ。
メアの結界に絡め取られた虎に向って、雫は小瓶を振る。
鼻につく刺激臭。
本来ならば消毒用の魔法薬であった液体は、魔獣の顔にかかると人間でさえ顔を顰めたくなるような臭いを発した。
そしてそれは、獣にとってはより強烈な効果をもたらしたのだろう。悲鳴じみた咆哮がこだまする。
「メア! 目!」
雫は短剣を抜き直しながら叫んだ。同時に魔獣の眼球が破裂する。
一瞬で視覚と嗅覚の両方を奪われた獣は怒りの声をあげた。
闇雲に大きな爪を振るい、敵を叩き伏せようとする。
しかしその時には既に、雫は魔獣の脇をすり抜け背後に回っていた。暴れ狂う巨体を見ながら距離を取る。
「杭打ちます」
肩の上で小鳥が新しい力を練った。それは石の杭となり、魔獣の四肢へと次々突き刺さる。
次第に動きが取れなくなっていく魔物を見やって、雫はようやく息をついた。
「何とかなりそう、かな?」
言う間にもメアの攻撃は続き、床にはどろりとした血溜まりが広がっていく。
肉色の虎がただの肉になっていく過程。
それはとてもでないが正視に堪えないグロテスクなものだった。けれど雫は唇を噛んで睨み続ける。
今ここで目を逸らすようなら、それは覚悟が足りないということだ。
そして自分はそうではない。
魔女の挑戦を受けて、自らの意志でこの城へと来たのである。



初めはくびきを逃れようと猛り狂っていた魔獣も、体に刺さる杭が増えるにつれ次第に弱まっていく。ついには足を折って床に伏した。
血肉の生臭さが充満する中、雫は動かなくなった相手の気配をおそるおそる窺う。
「死んだ?」
「マスター!」
メアの忠告と、魔獣の半身が跳ね上がるのはほぼ同時だった。
死に掛けた獣は最後の力で体を返すと、雫に向って飛び掛ろうとする。
空隙がもたらした刹那。
彼女は衝撃を予感しながらも後ろへ跳んだ。瞑りそうになる目を意志によって固定する。
しかし次の瞬間―――― 血まみれの体は彼女に届かぬまま、空中で炎に包まれたのだ。
唖然とする雫の前で、獣は隅々まで焼き尽くされると焦げた塊となって床に転がる。
代わりに少し息を切らせた男の声が背後から彼女を振り向かせた。
「無事だった? 雫さん」
「ハーヴさん!」
人のよい笑顔を浮かべる魔法士の男。
分断された敵地でようやく知己と再会できた雫は、両手を上げて喜色を浮かべるとそのままハーヴに飛びついたのである。






「参ったな。みんなバラバラだもんな。俺はすぐ下の階にいたんだけど……」
「この城って何階建てなんでしょうね。一フロア一人だったら途方もないと思うんですけど」
逆方向からやって来たハーヴによると、この階にはもう他の人間はいないらしい。
また外周を円状になっている廊下は一周が繋がっているわけではなく、視力検査の輪のように端と端が切れており、それぞれ上りと下りの階段になっているのだという。つまり、城を上っていくにしても下っていくにしても通る階全ての廊下をぐるりと回らなければならない。それを聞いた雫は「設計のあこぎなデパートみたいですね」とずれた感想を洩らした。
彼女はハーヴと並んで下り階段に向いながら、外の景色に目をやる。
そろそろ時間的には昼近いと思うのだが、瘴気に包まれた荒地は薄暗いままだ。
今頃他の皆はどうしているのだろう。雫は自分の力によって分かる唯一の人間を思い出すと、隣の男を見やった。
「そう言えば王様って一人なんですよね。無事かどうか見てみましょうか」
「陛下もお一人なのか! って駄目だよ、雫さん! 一人で使っちゃ危ないってエリクに言われただろ」
「あー……」
もともと紅い本の情報を持ち込んだ本人であるハーヴは、雫が異世界人であることこそ知らないものの、能力を同じくする紺色の本と彼女がそれに繋がっていることは知っているのだ。加えて友人からその危険性を知らされていたのだろう。諌める目で雫を見下ろす。
「大体、陛下がお一人って知ってるってことはもう使ったのか。駄目だよ。気をつけなきゃ」
「す、すみません。状況が知りたくてつい……」
「気持ちは分かるけど。これ以上はやらない方がいい」
「うう」
力を使わないままでいることは勿体無いとも思う。自分は他に何も出来ないのだから特に。
けれどこの場合はハーヴが正しい。雫は項垂れると己の軽挙を反省した。しかしそこで、別の方法に気づく。
「あ! ハーヴさんがこの本読めばいいんじゃないですか?」
「え……」
「そうですよ! 私が読むとどうしても繋がっちゃいますけど、ハーヴさんならただ読むだけですから。
 六割だから上手く行けば王様の状況も載ってますよ!」
雫は自分でも名案と思う提案に、ケープ下の本を差し出した。
ハーヴはぎょっとして紺色の呪具を見下ろす。
秘された歴史までもが記されている記録書。そこには今の状況に関しても何かが記されているのかもしれない。
だが目の前にいる男は少し蒼ざめて、その本を手に取ろうとはしなかった。
雫は訝りながら相手の顔を覗き込む。
「ハーヴさん? 多分危なくないですよ。エリクもレウティシア様もそう言ってましたし」
「あ、ああ……」
確かに得体の知れない本だが、雫以外の人間が読む分には支障がないだろう。ハーヴは躊躇いながらも本に手を伸ばそうとする。
しかし男の指が表紙にかかるその時……彼らの目前で不意に空気が歪んだのだ。
魔法士が転移で現れる際に生まれるひずみ。
それを目にして二人は咄嗟に身構える。



覚悟はある。
あるからこそ、この城を訪れた。
本を支配し、魔女に打ち勝つ、その為だけに。
けれどその覚悟は―――― 今、このような状況に対しても果たして有効なものだったのか。

「ようこそ、挑戦者よ。私の城に」

雫は言葉なくその場に立ち尽くす。
奥歯がカタカタと鳴る小さな音。それを、彼女はまるで自分のものではないかのように聞いていたのだった。