人の祈り 167

禁転載

七百年に渡る暗黒時代がヘルギニスの滅亡で幕を下ろした後、大陸に訪れた次なる時代は「魔女の時代」と呼ばれている。
強大な力を持つ五人の女たちが歴史の影で沈黙していた時代。
だがそれも三百年程前に終わりを告げ、遠い御伽噺となって久しい。
今や「魔女」は子供に語り聞かせる昔話にしか姿を見せず、その力が誇張であったと思う者も少なくないだろう。
けれどある日、安寧を拭い去る新しい魔女が現れ、大陸中に宣戦を突きつけたのだ。

―――― そして世界は再び恐怖を思い出す。
大陸を彩るは変革の時代。これは変革の物語。



七番目の魔女と名乗る女、アヴィエラは深紅の魔法着に長身を包み、穏やかな微笑を浮かべていた。
美しいというよりも艶やかな容貌。
それは彼女の内から染み出るもののゆえだろう。言葉に出来ぬ強烈な印象を見る者に抱かせる。
長い銀髪、赤みがかった茶色の両眼は底知れなく昏い。
かつて幻影を見た時には色の分からなかった瞳が、二人を順に捉えた。
挑戦者を値踏みする視線に雫は我知らず身震いする。けれどその震えで彼女は逆に冷静さを取り戻すと状況を把握した。
雫は持っていた本の、無い題名を隠すよう抱きかかえる。恐れ慄きながらも様子を窺う目で魔女を見上げた。
「……挑戦者?」
「そう。挑戦者だ。魔女に挑み、大陸の王にならんとする人間。お前たちのことだ」
挑戦者の定義がアヴィエラの言う通りのものであるなら、彼ら二人の答は否であろう。
二人はファルサス所属の人間として魔女討伐に参加しているのであり、それは己の野心の為ではない。
しかしその否定を素直に口にしていいものかどうか、雫もハーヴも判断がつかなかった。
探りを入れるつもりなのか、ハーヴは彼女を庇いながら一歩前に出る。
「大陸の王とは随分大げさだ。未だかつてそのようなことを為し得た人間などいないが」
「今までは、だ。それは決して不可能なことではない」
「なら自分でやればいいだろう。何故俺たちにそれを求めるんだ?」
慎重に照らす範囲を広げる問いにアヴィエラは不透明に微笑んだ。その微笑に雫はまた引き寄せられる。
彼女の見せるその表情は、とてもよく知っている感情のような、それでいてぴったりとそぐう言葉を見つけられないような、そんなもどかしさを雫に与えるのだ。
魔女は困惑した来訪者を見やるといささかの稚気を表に出した。
「誇大妄想と思うか? 大陸の統一など不可能と? それを可能にするものがあると言ったらどうする?」
挑発的な口調。
電気を受けるに似た衝撃を覚え、雫は瞠目する。
アヴィエラが何のことを言っているのか、分からないはずがない。
彼女が示そうとしているものと同じものを、雫もまた持っているのだから。



全てを記す二冊の本。
雫はそれを「過ぎ去ったばかりの現在」を知る為に使うが、この本の真価はむしろ各国の詳細な情報や、数々の強力な魔法構成図、暗黒時代に現れた天才たちの政策軍策の記録にこそ見られるものだろう。
一冊では半分しか書かれていないとは言え、その情報力は絶大だ。
これさえあれば諸国の弱みや盲点を知ることもでき、また禁呪の構成図を用いて大いなる混乱をもたらすことも出来る。
かつてカンデラがそうして危機に陥ったように、陰謀を繰って内から破滅を導くことさえ、本の所持者にとってはそう難しいことではないのだ。



魔女が示す可能性を、雫は疑うわけではない。
けれど彼女はそこで―――― これはチャンスかもしれない、と思った。
ここで紅色の本を奪えれば、魔女の有利は一気に揺るぐ。
情報の流出を止められるのなら、極端な話この戦闘を中断し、十二ヵ国を動員した総力戦に切り替えても一向に構わないのだ。
「……本当に、そんなものがあるんですか?」
雫は詰まった息を飲み込むと、震える声で問う。
「ある。詳しく知りたいか?」
魔女の手の中に現れた紅い本。雫とハーヴの視線は食い入るように題名のない表紙に集中した。
雫は自分の本を片手に抱きながら、恐る恐る右手を伸ばす。
「知りたい、です」

もしここで紅い本を処分出来たのなら。
その後魔女にどのような目にあわされるのか、雫はそこまで考えていなかった。
正確には考えたくなかったのだろう。ただ目の前の本を取ることだけに専心する。
アヴィエラは差し出された手が震えているのに気づいて、声を出さずに笑った。
「いい覚悟だ。……だが、これが気になっているのはお前だけではないらしいぞ?」
魔女はその言葉と共に振り返る。
そこにはいつの間に現れたのか粗野な格好をした男が三人、野心と恐怖が渾然となった目で彼女たちを凝視していた。
ファルサスの人間ではない剣を帯びた「挑戦者」に、雫はどう対応すべきか分からずハーヴを見上げる。

誰に何をすればいいのか、アヴィエラを除いた全員が咄嗟に判断を迷った。
だがその迷いを切り裂いて、魔女は鮮やかに笑う。
「ほら、王になれる本だ」
軽く、空中に投げられた本。
虫たちの中に砂糖を投げるように、息を飲む人間たちの中間高くに放られたそれを見て、男の一人が素早く駆け出した。
雫もまたその動きに弾かれ走り出す。
何人もの思惑が錯綜した一瞬。
楽しそうに目を細めるアヴィエラの目前で、落ちてくる本を受け止めたのは剣を佩く若い男だった。
しかしその体はすぐに、ハーヴの放った魔法により弾き飛ばされる。雫は男の手の中から零れ落ちる本を拾い上げた。
「小娘っ!」
「メア!」
二人目の男が雫に向って剣を振り下ろす。
その腕をだが、小鳥は不可視の力で逆に捻った。骨の折れる嫌な音がする。
奇妙な悲鳴を上げ蹲る男。しかしそれには拘泥せず、雫は本を背後に放り投げた。
ハーヴが呪具を受け取ると同時に彼女は魔法薬の小瓶を手に取る。緑の液体が入った瓶を怒りの形相で走ってくる最後の男に投げつけた。
硝子が砕ける音。激しい咳き込み。
雫は緊張に喉を震わせて叫ぶ。
「ハーヴさん……!」
―――― 燃やして、と。

それさえ為せば、勝利に手が届く。魔女の暴虐を食い止められる。
思いもよらず降ってきた好機に雫の心臓は跳ね上がった。掌が汗で濡れる。
しかし名を呼ばれた当の男は―――― 呆然とした目で、手の中の本を見つめただけだった。
ほんの数秒の自失。
振り返った雫が何か言うより先に、白い女の手が優美な仕草で本を取り上げる。
元通り本を小脇に抱えた魔女は満足そうな笑みを二人にのぞかせた。
「そうだ。そうして足掻けばいい。
 他者を退けろ。高みを目指せ。意気のある者こそがこの大陸を塗り替える」
軽やかに転がる煽動の声。
珠のような笑い声を残してアヴィエラはその場から消え去った。
束の間沸き立った廊下は、一転して冷えた空虚に取り残される。
雫は急速に冷えていく汗を感じ取って小さく嘆息した。
あっという間に失われた好機。 ハーヴは何もなくなった手の中を見下ろしてぽつりと呟く。
「ごめん、雫さん……」
「ハーヴさん」
「ごめん……」
重い溜息をついて男は頭を抱えた。
その中に、単なる失敗を悔いるだけではない自省を見て取った彼女は、何も言えぬまま沈黙せざるを得なかったのである。






二人は男たちを手分けして拘束すると柱の隅に寄せた。それをしながらハーヴは何度も溜息をつく。
冷静になって振り返ると、魔女の前で本を燃やすという行為はかなりの無茶であるし、あの一瞬にそれが出来なかったとしても無理はない。
しかしそう慰めをかけることさえ躊躇う重さで男は首を左右に振った。廊下を歩き出しながら、彼は困惑する雫を自嘲ぎみに見下ろす。
「本当はね……ここに来るのやめようかと思ってたんだ。こういう失敗するんじゃないか、って気がして」
「失敗、ですか?」
「うん。―――― 白状すると、俺は師匠にあの本の話を聞いてからずっと……あれを読んでみたくて仕方なかった」
目を丸くする彼女にハーヴは微苦笑する。
初めて見る彼のそんな顔は、普段は隠された研究者としての貪欲が少しだけ透けて見えるものだった。
どう相槌を打っていいのか分からない雫の前で、男は苦渋の目を伏せる。
「危ない本だって陛下から聞いたのに駄目だよな……。あれがあるから陛下も雫さんも、こんなところに来てるっていうのに。
 いざ本を燃やすって場面になったら体が動かなかった。勿体無いって思っちゃったんだよ。
 この中には貴重な真実が無数にあるだろうにって」
歴史を研究対象とする男は、本の存在を知った時からその禁忌を知りつつも惹かれていたのだろう。
だからこそ雫が紺色の本を差し出した時、それをすぐには受け取れなかった。
あの時蒼ざめた彼は、本そのものではなく、本に傾倒しかねない自分こそを恐れていたのだ。
度し難さを悔いる溜息を、ハーヴはまた一つ廊下に落とす。
「過去のことって言えばその通りだけど、そこに知られざる記述があるって聞いたら、やっぱ知りたくなった。
 その時何があったのか。誰が何を考えて何を為したのか。人がどうやって時代を動かしたのか……ごめん。そんな場合じゃないのにな」
「いえ……分かります」
学究心に囚われている場合ではないと、分かっていてもその気持ちは分かる。
知りたいという欲望は時に、彼女にとっても逆らい難い力を発揮するからだ。
まるで悪魔の囁きに似た誘惑は、一方では進歩を、もう一方では破滅を人にもたらしながら、常に付き纏い離れていかない。
それを人間らしいと思っても非難することは出来ないだろう。少なくとも雫はそうだった。
彼女は気分を切り替える為、大きく伸びをするとハーヴに微笑みかける。
「きっとあれでよかったんですよ。本を燃やしてたら私たち二人とも殺されてたでしょうから。
 無茶苦茶してすみません」
「いや……」
苦笑と言うには苦味だけが多い表情でハーヴは否定を言いかけた。
しかしこの時―――― 二人の背後で唐突すぎる悲鳴が上がったのだ。
慌てて振り返った彼らの見つめる先で、二人目の男が胸に剣を受け絶命する。
「え……」
雫は今まで生きていた人間が死体となって重なる瞬間を、呆気に取られて見やった。
止める間もなく最後の男の首が短剣で切り裂かれる。



鮮やかな手際。
動けない人間を殺すことに躊躇を見せない一連の動きに、雫は戦慄しながらも納得した。
それを為した殺人者の顔を、彼女はずっと前からよく知っていたので。
「……何でここに」
「また君?」
一度目の対面は血の海で。
二度目の対面は剣を突きつけられて。
そして三度目には魔女の城にて、雫は少年に出会う。
―――― 言葉が通じるとしても、人は分かり合えるとは限らない。
それを誰よりも彼女に教えた人間、カイト・ディシスは血に濡れた剣を軽く振ると、不快げな目つきで雫を睨んだのだった。