人の祈り 168

禁転載

瘴気で閉ざされた山間部。
遥か遠くに聳える城を視界の中央に置いていた魔法士は、次第に濃くなっていく魔物の気配に血の気が引いていくのを止められなかった。
レウティシアの手によってヘルギニス領内の各所に置かれた探知結界から一旦意識を引くと、彼は隣に居る同僚を見やる。
「これは……不味いぞ。魔物の大群が召喚されつつある」
「大群? どれくらいだ」
「数万、もっとか? 軍を狙うつもりかもしれない。王妹殿下に連絡を取れ」
彼らが慌しく連絡を取る間にも、城を中心とする気配は徐々にその数を増していく。
遠目にも空を飛ぶ幾つもの黒影が見え、耳障りな鳴き声が風に乗って広がっていった。
世界の終わりさえ予感させるほの暗い光景。
そこに慈悲はなく、ただ絶望を呼ぶ意志だけが漂っている。
昏い土地に日は差さない。異界の淀みは清浄を拒む。
しかしその中に聳え立つ城だけは―――― 誰のものとも分からぬ孤高を貫いているかのように、いまだ沈黙を続けていたのだった。






印象が悪い、という言葉だけに収まるのなら、これ程印象が悪い相手はお互いいないかもしれない。
雫は嫌な汗を背筋に感じながら、廊下の先に佇む少年を見やった。
カイトは長剣を鞘に戻すと短剣だけを手にゆっくりと距離を詰めてくる。
戦うべきか逃げるべきか、迷う雫にハーヴが問いかけた。
「知り合い?」
「顔見知りというか……傭兵の人です。結構危険人物」
「だろうね」
何しろ突然現れた彼は無表情のまま拘束してあった人間たちを全て殺してしまったのだ。
これで穏健な人物と言っても到底信じてはもらえないだろう。
雫は逡巡したが、両手を上げるとカイトを留めた。
「ちょっと止まって。話し合いたい」
「何を? 話すこととか何もないと思うんだけど」
「こっちには聞きたいことがあるんです。―――― どうしてここにいるの?」
少なくとも雫たちが城に向っていた時、前にも後ろにも他の人影は見えなかった。
ならば彼や先程の男たちは、その後からわざわざやって来たというのだろうか。既に多くの犠牲が出ているこの城に。
だとしたらタイミングが悪いにも程がある。せめてあと一日待って欲しい、と雫は言いたくなってしまった。
少年は彼女の疑問に眉を寄せる。
「どうして、って。知ってるんじゃないの?
 つい一時間ほど前に、いくつかの街に魔女が現れた。それで人を招いたんだよ。
 魔物や競争相手を下して城の頂に到達出来れば、大陸の王になれるってね。
 で、自分の腕を過信した人間たちが二百人近く転移されてきたけど、すぐ斬り合いになったからほとんどは一階で死んだよ。
 あとは転移罠を踏んだりなんだりでバラバラ」
「げ……」
それは時間的に雫たちが分断されてすぐくらいのことであろう。
ファルサスの人間たちが入り込んだこの時に、魔女は何故あえて挑戦者を招きいれたのか。
それは野心がある者もそうでない者も含め、人間同士で相争わせる為としか思えない。
先程雫たちと招待客の闘争を煽ったように、魔女は駒を追加してはぶつけあって楽しんでいるのだ。
もっともそれでファルサスの人間が困惑し手を緩めることを期待しているのなら、少なくともラルスはまったく気にしないに違いない。
前に立ち塞がる相手が魔物だろうと人間だろうと、王は気にせずに斬り捨てていくだろう。
頭痛を覚える雫にカイトは冷ややかな声を投げかけた。
「で。君は何でいるんだよ。また意味不明な正義感?」
「仕事だよ。ってかあなたも王になりたいの?」
「別に。盛大な殺し合いになりそうだから来た」
「……」
予想通りの答過ぎて何も言えない。
三度目ともなると相互不理解が念頭にある為、雫もすぐには苦言を呈す気になれなかった。
困り果てた顔になってしまった女を見て、少年はますます顔を顰める。
「何だよ。また何か言うつもり? 本当君は鬱陶しいんだよ。
 考えれば分かることを見ない振りして、それで説教とか見苦しいよ」
「見苦しいって……」
「その様子だとさっきの三人怪我させたのは君らなんだろ?
 利き腕折った上拘束して放り出すって、それあとは魔物に食われるしかないだろ。
 だったら殺してやった方がよっぽどましじゃない? 嫌なところだけ手を汚さないくせに文句言わないで欲しいな」
畳み掛けるような少年の言は、けれどあながち的外れとは言えなかった。雫は絶句してカイトを見つめる。



魔物たちが跳梁跋扈するこの城で、戦えない状態の人間を更に拘束するということは、どういうことか。
考えて分からないはずがない。雫自身が力を持たない人間なのだ。逃げられなくなったらどうなるのかよく分かる。
それでも彼女は―――― 確かにそこまでは考えていなかったのだ。
それどころか、メアに命じて人間を攻撃させることにも躊躇いを持たなかった。雫はそのことに気づくと思わず自分の足下を見下ろす。

旅が始まったばかりの頃、武器を持たせようとしたエリクの提案を拒否したことがある。自分の道の為に人を傷つけることはしたくないと思っていたからだ。
にもかかわらず、彼女の中でそれは、いつのまにか仕方のないことになっていた。
向こうから攻撃してきたから、自分たちには大義があるから、そんな理由をあげて正当化しようと思えばいくらでも出来る。
むしろ彼女以外の人間なら、そこで痛痒を覚えることはしなかっただろう。
けれど雫は、無自覚の変質を指摘されて何も言えなくなった。
人の死に鈍感になったのか、争いの空気に慣れすぎたのか、とにかく彼女は知らぬうちに、昔と変わってしまっていたのだ。
呆然とする雫の肩をハーヴが叩く。
「聞かない方がいい。ああしなきゃまた攻撃されてたんだ」
「そうだね。僕は別にそれを否定する気はないよ。僕だったら最初から殺してただろうし。
 でも君はいつもいつも煩いんだ。君にあるのは自分が殺されてもいいってだけの気持ちで、殺すことについては何も考えちゃいない。
 けど殺されることに何の覚悟が要る? そんなものがあろうとなかろうと、殺される時は殺されるんだ。そんなことは誰にだって出来る」

覚悟がなくとも、死ぬ時は死んでしまう。
死は誰にでも訪れる。そこに不平等はない。
では不平等を生み出す覚悟とは何か。

「綺麗事を振り回すのもいい加減にしなよ。君の理想じゃ何も出来ないし、君自身もうそれに気づいているんだ。
 それともまだ生温いままでいたいっていうなら―――― ここから出て行けよ」
滔々と述べられた雫への反論は、まるでずっと長い間温めてられていたもののように淀みなかった。
前回の別れから、もし彼女に再会することがあるのならこれを言ってやろうと思っていたのかもしれない。
忌々しげに吐き捨てた少年を雫は瞠目して見つめる。
キスクで二度目に会った時も、彼には「自分の命を軽んじている」と痛いところを突かれたのだ。
そして今も、カイトの言葉は雫の固まりきっていなかった部分に突き刺さる。水に似た冷たさが奥底へと染み渡っていった。
彼女は黒い目に空白を宿す。



覚悟はあった。戦う為の覚悟と死ぬ覚悟。
けれどそれは本当に、自分の手を汚すことを踏まえた上でのものだったのか。
魔女を倒す。或いはそれを為すために妨害者を排除する。
それは実際何を意味するのか。
ずっと力を持たずにいた自分は、結局誰かに攻撃を加える覚悟を分かっていなかったのではないか。



鈍感ではいたくない。人の命に関することなのだ。
雫は目を閉じる。
短い間。
しかしそれは決して無ではなかった。彼女は全ての息を吐き出すと前を向く。
そして相対し続けてきた少年を真っ直ぐ見つめると、雫はそのまま深く頭を下げた。
「ごめん。浅薄だった」
「って雫さん!?」
声をあげるハーヴと似たり寄ったりの驚愕を、カイトもまた浮かべている。
まさかそう返ってくるとは思わなかったのだろう。彼は口を開けて彼女を見やった。雫は顔を上げ、続ける。
「確かに分かってなかった。言ってくれてありがとう」
ここで言われなければ、ずっと無自覚なままだったと、彼女は思う。
知らぬまま力を揮い、少しずつ破綻していく。もしかしたらそんな未来を迎えたかもしれない。
そうならずに済んだのなら、この邂逅はきっと幸運なことだろう。
けれど、それでも、譲れぬものはある。
「でもやっぱり、私は出来るなら人を殺したくない。
 私が武器を取るのは戦う為で、人を殺すためじゃない。あなたのことも……」
雫はカイトの後方に横たわる死骸に目をやる。重い悔恨が刹那、彼女の喉につかえた。
―――― 彼らが死んだ責の半分は自分にあるだろう。自分が鈍感だったからこそ彼らは殺された。
誰が何と言おうとそれは真実の一つで、おそらく一生忘れることは出来ない。
彼女がいない戦場でも誰かが死んでいったように。魂を抜かれた女性を救えなかった時のように。
掬い上げられなかったものの重さを雫はずっと負っていく。
この世界で出会った人たちは皆、そうして覚悟を決めながらも生きてきているのだ。
「あなたのことも肯定は出来ない。殺さないで済むなら、その方がずっといい」
「あっそう。それで?」
「だから……私に協力して」
雫の言葉に二人は声を失くす。
まるで煮えたぎる油の中に水を落とすような発言。唐突すぎる転換に、ハーヴはおろかカイトでさえも僅かに蒼ざめた。
だがその愕然とした空気を感じ取りながらも、雫は怯まない。目を逸らさない。
彼女には既に己の発言を撤回する気はさらさらなかったのである。



カイトは数秒の忘我から戻ると唇を曲げた。顔を斜めにして雫を見やる。
「協力って、馬鹿? 君って前から思ってたけど馬鹿でしょ」
「馬鹿はよく言われるけど煩いよ。というよりあなた傭兵なんでしょ? 私に雇われてよ」
「……は? 払えんの? 高いよ?」
「金額言ってみて」
自慢ではないがそれなりに貯蓄はある。
キスクで働いていた四ヶ月間、オルティアはかなりの高給を雫に払ってくれていたのだ。
おまけにその金額は女王の要請でファルサスにも引き継がれている。
宮廷に住み込んでいる彼女は食と住は保障されていて、性格上浪費もしない雫は給料を使うことがほとんどない。
せいぜいエリクに差し入れる菓子に使う材料費くらいで、それも微々たるものなのだ。
思いもかけない提案にカイトは憮然となったが、それでも一日分の金額を口にする。
その額は相場を知らない雫には高いか安いか判別出来なかったが、充分に支払い得る額だった。彼女はほっと安心すると笑顔になる。
「あ、それなら払える。じゃあ今日一日お願い」
「本気? 前金なんだけど」
「え。今は持ってない……城戻らないと」
無言で長剣を抜こうとする少年に、雫は慌てて手を振った。決裂しそうな交渉を何とか続けようとする。
「あああ、待って! 絶対後で払うから! 五割増しにする!」
「……何でそんな必死なの?」
呆れたようなカイトの問い。理解出来ないとあからさまに蔑む視線に、雫はほろ苦く微笑んだ。
自分の言葉で自分の意志を口にする。
「殺されたくないし、殺したくない。でも私にはやることがあるから。力を貸して欲しい」
理想はきっと理想でしかないのだろう。
それを現実にすることは出来ない。分かり合えない相手を望み通り変えることは出来ないように。
けれど今だけは。
こんな時くらい少しの妥協を求めてみたい。
条件を示して、言い分を摺り合わせて。剣を取るのはその後でもいい。
たとえこのままお互いに理解できずとも、言葉は確かに通じているのだから。



少年は冷ややかな目で雫を睨む。
彼女の姿勢そのものを拒絶する目にハーヴが無詠唱で構成を組み始めた時、けれどカイトはぶっきらぼうに吐き捨てた。
「二倍。後金にするなら二倍。じゃなきゃこの話はなしだ」
「分かった。払う」
雫は頷くと、ハーヴに「私が死んだら私のお金の中から彼に報酬を渡してください」と念を押す。
魔法士の男は困惑を隠せない様子ではあったが、「保証するよ」と声に出して支払いの意志を明確にした。
不機嫌そうな少年は激しい舌打ちと共に雫の前に立つ。自分より幾分背の高い彼を、彼女は微苦笑で見上げた。
「ってことで今日一日よろしく。えーと、名前聞いていい?」
「カイト。カイト・ディシス」
「よろしくカイト。あ、この人はハーヴさん。で、私は」
「雫。ターキスから聞いた」
相手が自分の名を知っていたということに雫は少しだけ驚いた。けれどすぐに「そっか」と苦笑すると肩を竦める。

人を殺したくない。殺させたくない。
でも今世界では多くの人が殺されていて、それが嫌だから自分は戦うことを決めた。
ただそう思う自分は―――― 果たして本当に肝心な時、為すべきことを為すことが出来るのだろうか。
ハーヴが本を燃やすことを躊躇ったように、自分もまたその場で躊躇ってしまうのではないか?
雫は飲み込んだ痛みを堪え、起こりうるかもしれない未来について考え始める。
もし魔女を殺せる……そんな場面に出くわしたのなら自分はどうするのかと、答の出ない問いを繰り返しながら。