人の祈り 169

禁転載

窓から見下ろした地上は遥か下方である。
ここから飛び降りたら間違いなくぺったんこになるだろうな、と首だけ外に出した雫は深刻味のない感想を抱いた。
見渡す限り辺り一帯は昏く、空気は淀んでいる。
遠くに見える山々、城の真東に位置する一点を眺めていた彼女は、けれどすぐ上で大きな羽ばたきの音を聞き首を竦めた。
おそるおそる真上を見上げてみると、更に上空には異形の怪物が数百と飛び交っている。
奇声を上げる魔物の大群に雫は慌てて頭を引っ込めた。
ちらりと見ただけであれだけの数がいるのなら、全部でどれくらいの軍勢が召喚されているのか、想像するだに恐ろしい。
全ての魔物が一斉に外から攻撃を仕掛けてきたならこの城は途中でぽっきり折れるかもしれない、そんな光景を思い浮かべて彼女はげっそりした。 溜息をつきながら廊下に視線を戻すと、ハーヴが怪訝そうな顔をする。
「何か見えた?」
「いやー……上、凄いですよ。空真っ黒」
「ああ。瘴気のせいか」
「いえ。魔物で真っ黒」
「…………」
さすがにそれ以上説明する気になれず、雫は廊下を歩き出した。先程からほとんど口をきかないカイトがその後に続く。
最後にハーヴが窓を振り返りながら、床に横たわる魔物の死体を踏み越えた。
大型犬ほどの大きさをしたトカゲの魔族は首を切り落とされぴくりとも動かない。
石床に広がる緑色の血を彼らは踏まないように避けていく。

魔女により新たな招待客が多数城に招かれたと言っても、現状雫たちの目的に変更はない。
アヴィエラの打破、上位魔族の殺害、本の処分などやらなければならないことが複数並んでいるのだ。
もっともその全てを三人でやれと言われたら不可能というしかないが、この城には他にも目的を同じくする人間が分散している。
今のところはその人間たちと合流し、対策を練り直すことが当面の目標と言っていいだろう。
雫は階段に向いながらカイトを振り返った。
「一階って今、危険なのかな。本当はそこに行こうかと思ってたんだけど」
「危険かどうかは知らないね。死体はいっぱいだけど。ああ、死体を食う魔物も集まってきてたな」
「よーし。無理」
死体だけならともかく魔物も集まっているというのなら、それはもう虎口であろう。
ならばわざわざそこに行くよりは、別の合流地点を探した方がいい。
幸いこの城は転移罠を除いては、何処に行くにも同じ階段、同じ廊下を通らなければならないのだし、すれ違うということはまずないのだ。
とりあえず近い階段に向ってから様子を窺おうということで、三人は廊下を黙々と進んでいく。
時折遠くから聞こえてくる爆発音と振動に雫は肩を竦めた。
「これって何の音ですか。さっきから砲撃でもしてるんですか」
「うーん。誰かが大きな魔法使ってるんじゃないかな」
「城折れたらどうしましょう。あっという間に建つって手抜き工事っぽいですよね」
「さすがにそれはないと思うけど……」
雫とハーヴは気の抜けた会話を交わしながら長い廊下を歩き、ついに階段に到達する。
そしてそこで爆発音の理由を知った。
「うっわぁ……」
大人がゆうに二、三人は通れそうな大穴。
階段脇の壁をぶち抜いて作られたその穴によって、本来すぐには行き来できない上り階段と下り階段は、強引に通行出来るよう変えられていたのである。



壁を破って近道を作るなど、まともな人間の考えることではない。
しかし雫もハーヴもそういう発想をしそうな人間に心当たりがあった。お互い苦めの顔を見合わせる。
「これって王様ですかね」
「いかにもそれっぽいけど。でも陛下は魔法を使えないよ」
「じゃあ魔法士の人にやらせたとか」
「それはありえる」
本来ならここはただの上り階段であったのだ。しかし今は壁の穴越しに向こうの下り階段も見えている。
ならば更に上の階はどうなのかというと、それは雫のいる場所からは角度的に分からなかった。
一段目に足をかけた彼女をカイトが留める。
「僕が先に行く。人の声がする」
「え。本当? 全然聞こえない」
「耳悪いだけだろ」
棘のある声に、けれど雫は平然と「人だったら殺さないでね」と釘を刺しただけだった。
返ってきたのは大きな舌打ちだが反論はないらしい。三人は慎重に階段を上っていく。
カイトは残り二段というところで体を返すと軽く跳躍した。おそらくそこにも穴が開いているのであろう。彼の姿は視界から消える。
一拍置いて、頭の上から声が降ってきた。
「いいよ。来なよ」
雫も一人であったなら、階段の途中から斜め上方へ飛び上がるなど不可能だったに違いない。しかし今は幸いメアが補助をしてくれる。
そのまま彼らは開けられた穴を辿って三階分を上に上った。そこまで来ると雫の耳にも人の言い争う声が聞こえてくる。
「……って……ら、………!」
「そんな…………だ!」
「お前たちは………………ろう!」
二人や三人ではない、十人以上もの声。
楽観的に考えても衝突寸前といった感じの口論に彼女とハーヴは顔色を変えた。慌てて階段を上っていく。

問題の口論は、そこから更に二階上の階段前で行われていた。
穴を抜けて雫が顔を出してみたところ、剣を抜いた男たちが二手に分かれて激しく言い争っている。
いつ斬り合いになってもおかしくない騒然とした空気。
互いの態度を非難する罵り合いは、見たところファルサスの人間とそれ以外の人間たちに分かれての応酬となっているようだった。
他の階にまで聞こえる声に引かれて集まってきたのだろう。分断されたはずのファルサスの武官や魔法士が十人以上居合わせているのを見て、雫はひとまず胸を撫で下ろす。剣を手にした武官の一人が、彼女たちに気づいて目を丸くした。
「無事だったか」
「おかげさまで。ところで、何がどうしたんですか?」
口論の断片を聞いても事情がまったく分からない。怪訝な顔の雫に彼は簡単にあらましを説明してくれる。

元はと言えば、誰かが階段の壁を抜いたことで通路が一直線になったことが間接的な原因らしい。
そこを上って来た挑戦者が通路を同じくするファルサスの武官たちと出くわし、小競り合いになりかけてしまったのだ。
ファルサスの人間は「こんなところで何をしている。危険だから退去しろ」と彼らを押し返そうとし、魔女に弄された招待客たちは「王になれる本を奪おうとしている」とファルサスを非難する。
一度は双方剣を抜くところまで行った言い争いはしかし、ファルサスの魔法士が結界を張ってそれを押し留めたことと、魔女に招かれた者たちの中でも冷静な人間が場を抑えたことでで再び口論に戻ったのだという。かと言って現状、まったく収まる気配のない対立を見やって雫は眉を寄せた。
「あー……こんなことしてる場合じゃないのに」
「殺す? 大して手間じゃないしね」
「待って待って待って」
そんなことをされては彼を雇った意味がない。
頭痛薬が恋しくなる程に頭を痛めた彼女を、不穏な会話を聞き取ったのか傭兵らしき一人が見咎めた。凄みのある目で雫を睨みつける。
「何だって? 今何と言った」
「殺してやろうかって言ったんだよ。雑魚が煩いから」
「あああああ! 事態が加速度的に悪化!」
一触即発の一触どころか思い切りめりこむようなカイトの発言に彼女は思わず絶叫した。
これで戦闘にでもなったら責任はきっと雫に回ってくるだろう。実際責任があるのだから仕方ない。
人間同士で争わせるという魔女の意図に面白いほど簡単に踊らされてしまっている。
彼女は情けなさに涙が滲みそうになって眉間を押さえた。
しかし相手の男は、雫の予想とは真逆に蒼ざめて沈黙する。
「お前……カイト・ディシスか」
「そうだよ。だから何? 何番目に殺されたい?」
「ま、待て」
「待ってってば!」
同時に発せられた同じ意味の言葉。
けれどカイトは、真横で怒鳴った雫の方に舌打ちしただけだった。あまりにも場に似つかわしくない女の怒声に一同の視線までもが集中する。

まったく、腹立たしいことこの上ないのだ。
人の命を無造作に刈り取っていくことも、人心を容易く揺るがし操作することも。
けれどそれが魔女の業というなら、その逆をやってやるだけだろう。雫は落ち着いて皆を見回す。
「あの、誤解があるみたいですけど、あの本って王になれる本なんかじゃないんですよ。ただの魔法具です」
「何だと? だが魔女はあれには禁呪の構成図も描かれていると言っていたぞ」
カイトには怯んだ男も、年若く見える雫ならば圧しやすいと思ったのだろう。息荒くまくしたてる相手に彼女は首を横に振った。
「違います。あれは持つ人間の精神を侵蝕する魔法具です。今回の魔女討伐でも破壊対象に入ってますよ。
 第一本当に王になれる本なんてあるなら、何で魔女はそれを自分だけのものにしないで皆さんに教えたりするんですか」
何故本の存在を明らかにするのか。それは単に人の戦意を煽る為の行動だろう。
しかし言われた当の男を始め、何人かは明らかに虚を突かれた表情になるとお互い顔を見合わせた。
雫は彼らに考える時間を与えないよう畳み掛ける。
「皆さんがここに招かれたのは私たちが城に入ってからのことなんです。
 おそらく魔女が皆さんを煽動して私たちを排除しようと目論んだんでしょう。
 でも残念ながら王になれる本なんて話は嘘ですし、本を手にすれば精神を狂わされて魔女の力になるだけです。
 ―――― 例えばこの城がどうやって作られたか、皆さんはご存知ですか?」
水を打ったような沈黙。
ややあってそれに答えたのは、今までずっと沈黙していた剣士の一人だった。
彼は静寂に添うような低い声で口を開く。
「人の命を使って作ったんだろう。傭兵たちを何百人も雇って魔物と戦わせて」
「ええ。そうです」
どうして知っているのか。いささか驚いた雫に男は苦い顔を見せた。
「俺はその時の生き残りだ……。あれは酷いものだった。古くからの知り合いが何人も死んだ。
 だから今はせめても魔女に一矢報いたくてな。正直王などはどうでもいい」
男の隣にいる魔法士も同様なのか小さく頷く。
彼らの纏う決意は疑いを挟む余地がまったくないもので、その重さに今までいきり立っていた者たちも皆、口を噤んだ。
煽られていた野心が冷えていくと同時に、忘れ去っていた恐怖が甦ってくる。
自分たちは今、魔女の城にいるのだと、今更ながらその実感が彼らの足先を絡め取った。
雫は目の前で絶句している男を見つめる。
つい先程までは戦うことに酔い、怒りと我欲に沸き立っていた顔が、今は強張り蒼ざめ始めていた。
だが彼はまだ引き下がれないのか、幾分弱くなった声で彼女に問う。
「しかし……だったら何故魔女はお前たちを自分の力で殺さない? 魔物だって何だって使えばいいだろう」
「そんな余裕がないからだよ」
涼やかな声は上階に続く穴から聞こえた。
多くの視線がそちらへ向くと同時に、穴から魔法着を着た男が現れる。雫は喜色を浮かべてその名を呼んだ。
「エリク!」
「うん。今、魔女は僕らを相手にしてる暇がないんじゃないかな。
 十二ヵ国から宣戦されたし、それに対して魔物の大軍を召喚してる。
 今、外は酷いことになってるよ。全面戦争まであとちょっと、ってとこ」
「え……」
まさかそこまで事態が進んでいるとは思わなかった。
その場にいた全員の顔色が変わり、何人かが窓の外を見やる。
暗い空。濃すぎる瘴気。
目を逸らせない現実が背筋を冷やしめ、諍いの狂熱を残らず奪い去って行った。
雫に食って掛かった男は完全に血の気が引いた顔になると、震える声で呟く。
「俺たちは……騙されたのか?」
「だね。人を欺くのは魔女の常套だ」
追い討ちをかけるエリクの言葉。
それは短い口論の幕切れとも言える、唐突な終わりの言葉だった。