人の祈り 170

禁転載

報告に上がっている魔物の数は既に十万を越える。
一体一体はそう強い種ではないが、魔女の城周辺に集まっているそれら大軍の存在を聞いて、軍の指揮を取る者たちは緊張を隠せなかった。
今回の作戦に参加した国の中でも、王族自身が陣頭指揮に立つという少数派の国ロズサークは、三万の軍を一旦ファルサス北部領へと転移させる。 そこで他国の軍に合流すると、まだ若い王オルトヴィーンは馬上からレウティシアを見つけ、簡単な戦術を打ち合わせた。
「相手は無限に補充されるのか? だとしたら幾らなんでもやっていられん。対策はないのか」
「ヘルギニス城内の核が破壊されたら四方の構成を切り崩すわ。そうしたら召喚の勢いも止まるでしょう」
「構成を切り崩すのにどれくらいかかる」
「一時間。向こうもそれをさせまいと防衛してくるでしょうけど」
「迂遠だな。城内に入り込んだ者たちが死んでいたらどうする」
「……煩い」
カンデラが混乱に陥った時にその復旧で顔を付き合わせた二人は、互いに苦々しい顔で相手を睨む。
だがそうしていても何ら事態は前進しないだろう。ファルサス王妹は溜め込んだ息を吐き出すと、軽く手を振った。
「その時は私が中に入って核を壊してくるわ。代わりに指揮をお願い。ついでにファルサスもよろしく」
もしこの戦闘でファルサス王族の二人が死亡しても、直系はまだ残る。
そのことを暗に示唆する言葉にオルトヴィーンは端整な顔を顰めた。
「お前たち兄妹は人使いが荒い。ファルサスなど誰が要るか」
「ならアカーシアだけでも持ってきなさいよ」
「要らん」
「貴方にじゃないわ。貴方の息子に渡すのよ。―――― あの城にはヴィエドを守った子も行っているのだから」
一度だけ顔をあわせた頼りなげな少女。
あんな子供までも魔女の城に向ったという話を聞いて、オルトヴィーンは目を瞠った。
しかしすぐに表情を消すと、彼は手綱を引いて自軍のもとへと戻っていく。レウティシアは青い瞳をヘルギニスの方角に彷徨わせた。
闇はまだ来ない。けれどそれは人の心に強い不安を投げかける。
そして彼らがその不安と戦いながらも敗北し絶望した時、この大陸には六百年の時をおいて、暗黒が再来するのだ。






魔女に煽られていただけだと分かると、招かれていた者たちのほとんどは元の街に帰りたがった。
だが、一階に下りるにもそこは既に魔物だらけであるし、外にも魔物がひしめき始めている。
まさに孤立としか言えない状況に陥った彼らに、エリクは手近な一室を使って結界を張ると「比較的安全地帯」を作ってやった。
不安げながらもそこで待つことにしたらしい十数人を置いて、残りの者たちは城を上へ上へと上がっていく。
雫はエリクの手を借りて穴をくぐりながら、彼の耳に囁いた。
「この穴開けたのってエリクですか?」
「違うよ。王じゃないの?」
「あれ。王様もうそんな上まで行っちゃったんですか」
エリクと再会してから雫は一度ラルスの居場所を知る為に本と繋がったが、その時は彼についての記述は何もなかった。
ということはおそらくまだ無事でいるのだろう。そして無事でいるのなら上に向っているに違いない。
またこの穴は雫のいた階の更に下から開けられていたのだ。
そこから既にここまで穴が開けられているということは、穴を開けた人物はかなりのスピードで城を上っていることになる。
もしラルスの仕業であるのならつき合わされている魔法士はさぞや大変だろう。雫は誰かも分からぬ魔法士の苦労を思って声に出さず同情した。階段を上りつつ、後ろに続く人間たちを見やって雫は浮かない顔になる。
「他の人たちって無事なんですかね。大分減っちゃいましたけど」
「断言は出来ないけど時間が経ちすぎている。ここにいないほとんどの人間はもう駄目だと思うよ。
 ただ生きていれば階段の穴に気づくだろうし、いずれ合流出来る」
エリクは可能性の薄い気休めは言わない。雫は自分でも薄々疑っていた答に眉を曇らせた。
皆きっと、こうなることが分かっていただろう。それでも悼まずにはいられない。
彼らは意志のない駒ではなく、紛れもない挑戦者だった。その精神の強靭さを思って彼女は息を詰まらせる。
「もうすぐ全面戦争って本当ですか……」
「本当。今外では瘴気を利用してどんどん魔物が召喚されてる。早く魔法装置を壊さなきゃ不味いよ」
「あ、じゃあ核を……」
「うん。そのつもり。今そこへ向ってる」
ヘルギニスを覆う瘴気も、城にある魔法装置の核と東西南北の構成を崩せば少しは緩和される。
そうなれば異界化は解け、ヘルギニスは元の「魔に閉ざされた土地」に戻るだろう。そこまで考えて雫は首を傾げた。
―――― 本当にそれでいいのだろうか。魔法装置を壊しただけで魔女に勝てるのか。
疑問に思いながらも彼女はエリクに手を引かれ、階段の穴をくぐっていく。
言葉少なに階段を上り続ける彼らが核のある階についたのは、それからしばらくのことだった。



今までの階は円状の廊下の内側に小部屋がいくつか配されていたが、この階には小部屋が一つもない。
その代わり廊下の内側は大きな円形の広間になっており、中央に魔法装置の核が配されていた。
床に描かれた大きな魔法陣。
複雑極まる紋様を描くそれには、各所に透明な水晶球が埋め込まれている。
加えて陣の更に中央には直径二メートル程の真円の窪みがあり、中には薄く水が張られていた。
まるで水鏡のようなそれを雫はつい覗き込もうとしたが、どうやら周囲には不可視の結界が張られているらしく踏み込めない。
歩いていった勢いのまま見えない壁に爪先と額をぶつけ、彼女は声もなく蹲った。
周囲の人間たちが困惑の目でその姿を見やる。特にカイトは雇い主に氷の視線を注いだ。
「君ってどうしようもない馬鹿だね。他の人間が何で止まったかとか考えないの?」
「うう……つい」
不注意に関してはまったく反論のしようがないので、雫は額を押さえながら立ち上がった。
魔法陣の周りには既にエリクをはじめとして九人の魔法士が立ち、中を覗き込んでいる。
「これは、暴走させないよう破壊するのは大変そうだな」
「ある程度解いてから破壊するか? 時間はかかりそうだが」
「アカーシアがあった方がいいかもしれない。陛下を探してこよう」
「待て。陛下は他にやられることがある。これくらいは我らで何とかせねば……」
悩みながらもとりあえず不可視の壁を解こうとする彼らを背に、雫は窓のない部屋を見回した。
壁に隔たれて見えない四方、東西南北を順に見やる。
荒地に建つ城。それを中心とした異界。
けれどこの土地は、もともと強い魔の気の為に、人の住めぬ土地であったのだ。
それを暗黒時代の数百年間、巨大な魔法装置が浄化していただけで――――

そんなことが可能なのか、雫には分からない。
だから彼女はエリクを手招き、小声で問うた。
「エリクってキスク戦の時、魔法使用禁止の構成を書き換えたんですよね」
「ああ。そんなこともあったね。うん」
「じゃあ今もそれって出来ますか?」
彼女が何を言おうとしているのか、掴みかねて男は首を傾げる。雫はその反応に困った顔になると、戸惑いながらも続きを付け足した。
「この装置って、もともとヘルギニスを浄化する為のものを悪用してあるんですよね?
 それを元に戻すことって出来ますか? ……元の、浄化装置に」
異界化を解くだけでは有利にならない。それではヘルギニスは魔の土地のままなのだ。
ならば、ここにある装置を逆に利用したらどうなるのか。
国を建てられる程に土地を清めたという装置に戻せば、有利は手に入るのではないか。
彼女の提案にエリクは目を丸くして考え込む。
「出来るかもしれないけど……元の構成が分からないときつい。闇雲に書き換えることは出来ないから……って、まさか」
「元の構成なら私が読めます」
魔女の本にはそれが書かれている。そしてそれに繋がる雫であれば、構成を知ることが出来るだろう。
不利を有利に転じさせる一手。彼女の提案を把握してエリクは絶句した。
そしてそれは、決して不可能な手段ではなかったのである。

エリクは彼にしては長い沈黙を経て口を開いた。消せない苦渋が平坦な声に浮かぶ。
「僕は正直、君にあまりこの本を使って欲しくない。記述権を奪ったことで充分すぎるくらいだ。これ以上はやりすぎだよ」
「でも出来るんですよね? なら、やらせてみてください。このままじゃきっと取り返しのつかないことになるんです」
魔物の大軍と人間の軍隊がぶつかりあうことになれば、その惨状はこれまでで最大のものとなるだろう。
そうなる前に出来るだけの手を打ちたい。
何かをしたいと思ったからこそ、この城に来たのだ。
必死に訴える雫にエリクは整った顔を顰める。
彼はそのまましばらく雫を見つめていたが、小さく溜息をつくと不可視の防壁が解かれた魔法陣を振り返った。
「……分かった」
「エリク!」
ほっと笑顔になる彼女の頭を指で叩くと、エリクは魔法士を集めてなにやら相談を始める。
洩れ聞こえるその内容は雫にはよく意味が分からなかったが、どうやらこの核が巨大な装置の効果を制御していると確認しているらしかった。 他の魔法士たちは悩みながらも一人一人魔法陣を見下ろす。そのうちに皆の意見が一致すると、エリクは指を上げて東の方向を指し示した。
「多分、四方の構成はヘルギニス国にあったものと共通だと思う。
 実際に見たけど単に核から効果を受け取りながら、一帯に力を回すための構成だったから。
 ここを書き換えてしまえばそのまま浄化装置に使える」
「なるほど……。それが出来れば外にいる魔族も半分以上は送り返されるだろうな。浄化結界に耐え切れない」
「だが机上の話だろう。規模が尋常ではないし、過去の構成も分からない」
「その辺りは何とかするよ。書き換えも僕がやる」
エリクは中央の水鏡の前に立つと雫を手招く。
彼女がそれに応えて魔法陣に踏み込むと、構成技術をファルサス王妹からも賞賛される男は、周囲の人間全てを見回した。
淡々とした声が大きな広間に響き渡る。
「これからヘルギニスを異界化させている装置を浄化装置に転じさせる。
 かかる時間はどれくらいか分からないけど、成功すれば多分魔物のほとんどは消滅するか弱体化するだろう。
 ただ、書き換え途中で気づかれれば魔女か魔物が妨害に来る可能性が高い。
 その間君たちには攻撃を食い止めてもらいたいけど、これはかなり危険な戦闘になると思う。
 居合わせたくないと思う人間は今のうちに避難しておいて。僕には責任とれないから」
熱のない宣言。
しかしそれに呆れる人間はいても、立ち去ろうとする者は一人もいなかった。
二十三人いる彼らは思い思いに無言の視線でその問いに応える。
エリクは苦笑もせず頷くと、二十四人目である女を見下ろした。
「構成図の読み方って教えたよね。覚えてる?」
「覚えてます。大丈夫です」
それは彼に代わって構成図を描いた時、散々やったことなのだ。
少なくとも構成図に限って言うならエリクと意志を通わせる自信は充分にある。彼は少しだけ微笑むと真下の魔法陣を見下ろした。
「これを見て、違う箇所を指摘して……って、君は魔力が見えないか。仕方ない」
「え。あれ。不味いですか」
ここに刻まれているものが全てではないのか。焦る彼女の額をエリクは指で叩く。
「大丈夫。表層意識を共有させよう。僕の表象が伝わるから君にも魔力が見えるようになる」
彼は言いながら魔法陣の上に直接片膝を立てて座った。手を引かれた雫はそのすぐ前に膝立ちして男と顔を見合わせる。
エリクは片手で彼女の腰を抱いて体を引き寄せた。途端に間近になった彼の顔に、雫はさすがに赤面しそうになる。
こんな近くで彼の顔を見るのは初めてかもしれない。だが前にもそんなことを思った気がして内心首を傾いだ。
そんな混乱が伝わったのか伝わっていないのか、エリクは平然とした顔で彼女に注意する。
「あんまり余計なこと考えないで。意識が濁る」
「うっ……プライバシーは自主防衛」
おかしなことを考えてそれが伝わりでもしたら目もあてられない。
平常心を唱え始めた雫を置いて、男は複雑に張り巡らされた線を見やると、その中の太い一本に手を乗せた。
指先に耳飾から汲み出した魔力を集中させる。
「アカーシアがあったら侵入がしやすかったんだけど。強引に入るしかないか」
エリクは集めた魔力を圧縮し、構成の一端を狙う。
雫を除いた全員の視線がその手に集中した一瞬後―――― 火花が弾けるような音と共に「侵蝕」は始まったのだった。