人の祈り 171

禁転載

目を閉じて、額と額を触れさせる。
意識を共有させる。浮かび上がるイメージを共にする。
雫は両手で本を抱いてそこから繋がる構成図を読み取りながら、同時にエリクの見せる構成自体をも暗闇の中、また眺めていた。
感嘆の息をつかせるほどの複雑かつ美しい線の交差。その凄まじさに彼女の意識はしばし圧倒される。
―――― 見えている世界が違う。
それは、頭では分かっていても理解できないことであった。
同じ人間同士が同じ世界を見ていて、それでも見えるものが違っているなどということは。
けれどずっと、彼の目にはこの世界が見えていた。
魔力という皮層を被せた世界。
可能性の無限を伝える深遠。
違う階層を含むその光景の全てに雫は胸の熱さを感じる。まるで泣きたいような震えが精神を走った。
「いいよ。教えて」
落ち着いた男の声が彼女の意識を引く。
雫は触れている額と、自分の体を支える彼の片腕だけに現実を感じて、精神を動かした。
どちらも手に取るように分かる二つの構成。その差異を基礎から慎重に挙げていく。
「まず第三系列……始点と終点を入れ替えて下さい」
「うん」
「第四を九十度時計回りに回転。第九まで同様にずらします」
「ちょっと待って……いいよ」
「第十一と第三十三の交差を解除。第四十七と繋げて下さい」
淡々と重ねられる指示。それに応える力。
一対となって構成を書き換えていく男女の姿を、皆は固唾を飲んで見守る。
この一手が、戦況を転換させることを祈りながら。






最上階に戻ってきた女は、ぼろぼろに刃こぼれした長剣を一振り抱えていた。
また何処かで拾ってきたのだろう。大切そうに剣を見下ろすアヴィエラをエルザードは呆れ混じりに見やる。
「召喚はもういいのか」
「ああ。あとは自然発生するようにしてきた。瘴気が濃いからそれで充分だろう? 五十万になったら攻勢をかけるさ」
「お前の連れて来た人間たちはほとんどが脱落したぞ」
「そうか」
男の報告に大した感銘を受けた風でもなく魔女は返した。
その様子はとても今、大陸中を相手取って戦争をしかけている人間のものには見えない。
余裕というよりは、全てを達観し受け入れているかのような態度にエルザードは苛立ちを覚えた。
「最初に来た奴らは約半数死亡した。生き残った奴らは中層階にいるな。……一人、凄い速度で上って来ている奴がいるが。もう近いぞ」
「アカーシアの剣士かな」
天敵の接近を楽しげに謳うアヴィエラは、しかしそこでふと目を瞠った。
目に見えぬものを探るように視線を辺りに漂わせる。女の変化に魔族の男は軽く眉を上げた。
「どうした」
「誰かが装置の核に触れているな。これは……構成を書き換えているのか。面白い技術を持った人間がいるものだ」
「感心するな。殺して来よう」
一帯を異界化させている構成を書き換えられては、召喚そのものはおろか既に召喚している魔物たちにも影響が出かねない。
玉座から立ち上がりかけたエルザードを、しかしアヴィエラは手を上げて留めた。
「いい。私が行く。どんな奴がやっているのか見てみたいからな」
「誰がやっていようと同じだ。どうせ殺す」
「違うさ。人が死んでもそれは無ではない。―――― 人間は美しいぞ、エルザード」
「……またお前はそれか」
理解出来ない言葉に男が吐き捨てると魔女は楽しそうに笑った。彼女は持っていた長剣を玉座の脇に立てかけると踵を返す。
「私がいない間にアカーシアの剣士が来たら丁重にもてなしておいてくれ」
「肉塊に変えておこう」
女は返事の代わりにくすくすと笑うとその場からかき消えた。
綺麗に伸びた背筋の残像がまだ辺りに残っている気がして、エルザードは目を閉じる。
彼女が何を望んで戦乱を引き起こしたのか、彼は知らない。
だから男は退屈そうに欠伸を一つして、再び両瞼を閉じたのだった。






エリクと雫が構成を書き換え始めてから既に二十分が経過した。
その間二人は微動だにせず、ただ構成の書き換えを指示する声とそれに対する返答だけがぽつぽつ続いている。
あまりにも巨大な構成の中を、少しずつ少しずつ動かしていく魔力はささやかなるものだが、それでもエリクにかかる負担は少なくないらしい。 頬を伝っていく汗に彼は息をつくと、「次を教えて」と腕の中の女に促した。
対する彼女は目を閉じたまま、若干の間を置いて修正箇所を口にするということをただただ繰り返している。
半分夢の中にいるような雫の貌は、けれど時々現実を見失ったかのように薄弱としたものになり、その度に男の声が彼女の意識をゆるりと引き戻していた。
まるで不可思議なその光景。
始めはその様に注目していた者たちも、けれど事態を認識すると敵襲に備え各人準備をするようになった。
魔法士たちは二人を中心に何重にも結界を張り、剣士や武官は意識を研ぎ澄ませながら己の愛剣を簡単に磨き直す。
嵐の前の静けさに似たひととき。
その中にあってカイトは、緊張するわけでもなくただ短剣の刃を確かめながら、時折雫の背を振り返っていた。
乱戦を期待してこの城を訪れたというのに何だか妙な成り行きになってしまったが、それはそれで別に構わない。
むしろ魔女を殺す機会が回ってくるなら願ったり叶ったりだ。彼は笑おうとして、しかし不機嫌そうな表情になる。
先程からいまいち気分がよくないのは、きっと自分を雇った女のせいだ。彼女がいちいち小うるさく注文をつけるから。
或いはそれはもっと前から続いていたのかもしれない。
いつからか自分は、人を殺しても前のように面白いとは思わなくなっていたのだから。

『笑えなくなった』
とカイトが古くからの知己に洩らした時、相手は『年を取ったんだろう』と返してきた。
それを聞いた時は「そうなのか」という気持ちと「そんなはずがない」という気持ちがせめぎあったが、理由を考えてもそれは後付けでしかないだろう。
ただ彼は、笑えなくなった。
人を殺すことに抵抗はないが、それを楽しむことはなくなった。
刃物を振るい敵を絶命させるのは仕事で、もはやただの作業だ。面白いとも何とも思わない。相手が見苦しく命乞いをした時などは不快でさえある。
けれどそれを認めたくないからカイトは危険な仕事も次々と引き受けた。魔女の城にも飛び込んだ。
結果として彼はまた、彼女に出会ってしまったのだ。やたらと腹立たしく、頑固で口うるさい愚かな小娘に。
正論や正義を振りかざす人間には今までも沢山出会ってきた。
そして彼らは皆、偏狭な自分の視野でしか物事を見られない、幸福で無知な人種だったのだ。彼女もまたそうであるように。
しかしその中でただ一人、彼女だけがもう一度彼の前に現れ、二度彼の嗜好を拒絶した。
たまたま知己の依頼人であったから殺さなかっただけ。そこに何かがあったわけではない。子供じみた意見に感銘を受けたわけでも。
けれど二度目に彼に見え、なおかつ脅されてもまだ似たような非難を述べた彼女の言葉は、彼に苛立ちとあるはずもない可能性を思わせたのである。
『もしあの人間を殺していなかったら』
『もしあの人物にもう一度会っていたのなら』
彼らは何と言っただろうか、どんな顔をするだろうか。
考えても仕方がない、考える意味もない仮定。
―――― だがそこから彼は、何故か笑えなくなってしまった。

「暇すぎ。苛々する」
カイトは手に持った短剣を何度か返してみる。よく磨かれたその刃に、雫の小さな背が映った。
鎧も何も着ていないその背は、今短剣を投擲すればそれだけで死に至るだろう。
だが相手は仮にも雇い主だ。殺してみようとは思わないし、そうでなくても面倒臭い。
ああいう人種とはさっさと別れて以後顔を合わせないに限る。彼は思考を閉ざすと、ただ自分が必要とされる時を待った。
そして、その時が来る。

広間の入り口近くに現れたひずみ。
それを見て、全員が刹那で臨戦態勢に入った。
時を置かずしてその場に一人の女が現れる。
深紅の魔法着。艶やかな銀髪が転移の余韻を残して揺らめいた。赤みがかった茶色の瞳が広間を見回す。
「ほう……面白い。ファルサスの魔法士か?」
魔女が見出したのは魔法陣の中に座する二人。
その視線に気づいた数人は咄嗟に動くと自らの体によって二人の姿を隠した。無言の戦意が水位を上げていく。
魔物たちを、そして野心に目が眩んだ人間たちをも退け集まった者たち。
アヴィエラは恐れを越え自らに挑もうとする人間たちを一人一人見つめた。紅い唇に笑みを刻む。
「いいだろう。全力でかかって来い。私を止めたいと思うのならば」

かつて六百年の昔、ここには一つの国があった。
聖女が清めた土地に生まれた国ヘルギニス。
戦乱溢れる暗黒時代にあっても長く平和を保っていた辺境の小国はしかし、ある夜突然滅びさる。
街を焼き、城を破壊したのは魔女と呼ばれる女。
人にして人ではない畏れの存在。

「魔女か。上等だよ」
カイトは短剣を手に意識を集中させる。
ここしばらくどんな仕事をしても面白いと思えなかった気分が、今確かに昂揚していた。少年は右手に長剣を抜き放つ。
恐れはない。そんなものを感じたことはない。
だから彼は息を細め、「獲物」を見つめた。
アヴィエラは微笑んで細い左腕を伸ばす。
長い指。しなやかな思惟。
そして魔女が指を弾いた―――― それを合図として、ヘルギニス城の広間では苛烈な戦闘が開始されたのである。






城の最上階、玉座の背後にある大きな窓からは濁った風が強く吹き付けていた。
他に何もない広い空間。一つだけ置かれた玉座には魔族の男が目を閉じて座している。
代わり映えのしない時。
だが、永遠も一瞬も彼にとっては大差ない。
生まれては死んでいく人の生が、泡沫と等しく思えるように。
ならば何故、まだこの世界に残っているのか。
彼とアヴィエラを繋ぐ契約は、いつでも破れるような拙いものなのだ。
彼女が紅い本に書かれた知識をもとに彼を呼び出したのはまだ十代だった頃。あの頃の彼女は未熟さが残る魔法士だった。
だから、帰ろうと思えばいつでも帰れる。この世界の全てに飽いてしまったのなら。
けれどエルザードは目を閉じてその場に座ったままだ。そして彼女が帰って来るのを待っている。
時の変化を感じ取れないからこそ、未来のことなど想像もせずに。

「何だ、お前だけか」
ぞんざいな男の声。足音はしなかったがその接近は分かっていた。エルザードは片目を開けて侵入者に対する。
世界で一振りしかない、そして上位階層にもない魔法の効かぬ剣。それを携え一人現れた王は不敵な目で玉座を見上げた。
「無駄に階段を上らされて腹が立ったぞ。魔女は何処だ?」
「ここにはいない」
「ならお前を殺した後に探しに行くか。面倒だが」
ただの人間が、神とも呼ばれる上位魔族に向って大きな口を叩いている。
そのことが妙におかしくてエルザードは笑った。滑らかな仕草で立ち上がる。
「探しに行く必要はない。ここで待てばいいのだ。肉塊になってな」
明確に死を思わせる言葉に、だが王は傲岸な目で返しただけだった。
男は剣を下ろしたまま抵抗なく距離を詰めてくる。その態度にエルザードは舌打ちしたくなった。
「一応忠告しておくが……アヴィエラより俺の方が強い」
「だから?」
ラルスは鼻で笑って一蹴するとアカーシアを構える。ファルサス王家に顕著な青い瞳が挑戦的に輝いた。
「一番強いなら尚更、俺が相手をするのが無難だろう?
 ―――― さっさとかかってこい。死を教えてやる」
淀みを孕む冷えた風。
窓の外から無数の羽ばたきが重なり聞こえてくる。
だがそれら忌まわしい喧騒も玉座の間を侵せない。研ぎ澄まされた空気がその場を浸す。
エルザードは詠唱もなく構成を組み上げると、それを指先に灯した。青白い光越しに人の王を見やる。
未来のことなど想像できない。
変わり行く時間が分からない。
だからこそ彼は自身の敗北など微塵も考えずに―――― 脆弱な命を貫く電光を打ち出したのだった。