人の祈り 172

禁転載

閉ざされている視界に白い閃光が走る。
それは彼女のいる場所までは届かなかったが、容易に窺える周囲の異変に雫の体は震えた。
焦りと、様子を知りたいという思いが彼女の精神を傾ける。
しかしその瞬間、目の前に見えいていたはずの構成が揺らぎ、男の声が彼女を叩いた。
「駄目。落ち着いて。共有が解ける」
やるべきことをやれと、雫を叱咤する声。
それを聞いて彼女は焦燥を押し殺すと意識を戻した。次の箇所を指摘する。
「第八百二十四系列。回転を逆に。第千四十四と三度交差」
「分かった」
今はこれをやる。
これをやらなければいけない。
集中が乱れれば見えるものも見えなくなってしまうだろう。雫は溜まった息を吐き出すとまた深く吸い込む。
「いいよ、次」
「第八百三十二系列。南北を境界線として線対称に」
「うん」
彼女は唇をきつく噛む。全ての精神をつぎ込む。
他に何も見えず意識だけが彷徨う中、雫は再び構成だけが光る暗闇へと下りていった。



無言で踏み込んでくる男。鋭い軌跡を描く剣先にアヴィエラは左手を向けた。そこに結界を張って剣を受ける。
詠唱さえない薄い結界は、けれどそれだけで剣先を逸らし得るに充分なものだった。たたらを踏む男を魔女は右手で突く。
圧縮した空気。掌に帯びた魔法を直接体に打ち込まれた男は瞬間、血を吐いて態勢を崩した。
すかさず止めを刺そうとするアヴィエラを、しかし別方向から炎の矢が襲う。
複数の魔法士による数十もの矢の雨。
逃げ場もないほどに降り注ぐそれらに、魔女は目を細めると指を弾いた。途端、全ての炎はかき消える。

広間に集まっていた人間たちは、一人一人がそれなりに腕の立つ人間であるのだろう。皆が鋭い動きで次々に攻撃を仕掛けてくる。
だがさすがに単独の人間相手に連携を取って戦う経験などないに違いない。
アヴィエラは強力な結界を張ってほとんどの攻撃を打ち消しながら、彼らが時折見せる戸惑いを狙って徐々に打ち崩しつつあった。
今も内臓を破壊されながら剣を振るおうとする男に向けて、彼女は微笑む。
「退かないか。いい意気だ」
結界を使うまでもなく精彩のなくなった刃。それを避けると、魔女はよろめく男の脇腹に右手を突きこんだ。
鎧の隙間から肉の中へと捻じ込まれた手、手首まで深々と食い込んだその指先でアヴィエラは臓腑を中から破壊する。
くぐもった破裂音と同時に彼女が白い手を抜きさると、鮮血の飛沫が上がった。
小さな呻き声を上げて血溜まりの中に倒れ伏した体、痙攣し動かなくなる男を目を伏せて見つめると、遺体を踏まぬようアヴィエラは前へ出る。

一人で多数を相手取る魔女の動きは決して俊敏なものではない。
むしろ緩やかな舞のように最小限で攻撃を無効化し、合間を縫っては強力な一撃を打ち出してきている。
彼女は彼らの抵抗自体を楽しんでいるかのように積極的な攻勢には出てこないが、既に死亡者を含め戦闘不能者は十一人になっていた。
これでまだ彼女が現れてから十分程しか経っていないのだ。ハーヴはエリクたちを守る結界を強化しながら息を詰める。
先程から隙を作るべく魔法での牽制を行っているが、魔女にはまだ傷一つついていない。
一方構成の書き換えは外から見たところようやく七割近いというくらいだろうか。
ハーヴは焦りに動悸が上がってくるのを止められなかった。
彼は再び炎の矢を作ろうと詠唱を始める。と、そこへ今までは離れたところから魔女の動きを観察していたカイトがやって来た。
少年はアヴィエラから目を逸らさぬまま耳打ちする。
「魔女が使ってる防御結界って無効化出来る? あれさえなければ殺せる」
「殺せるって……本当か?」
「当然。あれは所詮魔法士の動きだよ。結界さえなきゃ魔法を使う前に仕留められる」
口元に笑みさえ浮かべる少年は、けれど大言を吐いているようには見えない。ハーヴは目を細めてアヴィエラの方を見やった。
「無効化か……正直難しい。無詠唱で張られているし強力だ。
 ただ、攻撃構成と結界を同じ手に組むことは出来ないみたいだから、そこを狙うって手はある。判断が難しいけど……」
「分かった」
カイトはこれ以上は用が無いとでも言うように背を向けるとアヴィエラに向って歩き出した。その背をハーヴは慌てて留める。
「ま、待て。向こうの攻撃を防げなきゃ仕方ないだろ」
「避ける」
「そんな無茶な。範囲魔法だったらどうするんだ」
肩に手をかけて忠告する魔法士を、少年は激しく舌打ちして振り返った。顔を斜めにしてハーヴを見上げる。
「だったら何。弱いのは黙っててよ」
「弱いの……俺、一応宮廷魔法士……じゃなくて。君に結界張るよ。ちょっと待って」
魔女の防御結界がない部分とはつまり、攻撃の力が灯る箇所でもあるのだ。
その攻撃を避け切れなかったとしても結界で緩和することが出来れば次に繋げられる。
自分に向って詠唱を始めた男をカイトは胡散臭げな目で見やった。
傭兵仲間からも異質視される彼は、他の人間と組んで仕事をするということがほとんどない。
その為このように援護魔法をかけられた経験もないのだ。ハーヴは詠唱を終えると声を潜めて問う。
「ところで君って魔力見えるの?」
「見えない。けど大体分かる。目線とかに注意すれば」
「なるほど……」
見えないし分からないと言われたらどうしようかと思っていたハーヴは、少しだけ安心して肩の力を抜いた。
もしそうであったならやる前から敗北は分かりきっている。
今背後にいるエリクなどは雫に魔法陣の構成を見せているが、それは正確には魔力を見えるようにしたわけではなく「自分が見ているものを彼女に伝えている」だけなのだ。勿論それには静止していることやお互いの身体的な接触、意識の集中が必要であるし、とてもではないが白兵戦をする人間に魔力を見せることなど不可能だ。そしてだからこそ魔力の見えない剣士たちなどは、魔女の結界がある場所に切り込んでしまうのだが、普段からそういった連携を取る訓練をしていない彼らには、すぐにどうこうすることの出来ない問題だろう。
ハーヴはアヴィエラの腕の一振りで壁に叩きつけられた武官を見やって息を飲む。その横でカイトがそっけない声を上げた。
「もういい? 行くけど」
「あ、ああ。出来るだけ俺も援護する。気をつけて」
「鬱陶しいからいいよ」
身も蓋もない返答と共に少年は歩き出す。
その危うい自信に眉を上げたハーヴは、けれど一度だけ魔法陣の方を振り返ると、自分もまた魔女に対する為に詠唱を開始したのだった。






横に大きく跳んで魔法の一撃を避ける。
それは空中に激しい火花を散らしながら石床へと接触し、爆音と共にそのまま大きな穴を開けた。
激しい振動と飛び散る石片。階下までも貫通した穴をラルスは横目で見やる。
「あんまり穴を開けると城が壊れるぞ。折れたらどうする」
「このような城いくらでも作れる」
「建て増しか。上に伸ばしすぎると倒れるぞ」
飄々とした人間の男。
魔法士や魔族の天敵とも言える剣を持つ王は、エルザードの力を見せ付けられてもまったく恐れを見せず肩を竦めただけだった。
それどころかほとんどの攻撃は王剣で無効化し、巧みにすり抜けてしまう。
知識としては知っていたが、思っていた以上に厄介な剣の存在に上位魔族の男は忌々しさを覚え始めていた。
今度は避けられないよう、エルザードは網状に広がる構成を組む。右手を上げるとそれをラルス目掛けて打ち放した。
しかし王は、相手の意図に気づくとむしろ構成に向って数歩踏み込む。
「おっと」
軽い声を上げながら、ラルスは術が広がりきる前にアカーシアで構成の要を切り裂いた。
力の断裂を縫って攻撃をかいくぐった人間に、エルザードはさざなみのような苛立ちを覚える。
ラルスは相手の表情の変化に気づいて楽しげに笑った。
「どうした? 怒ったか?」
「何故俺が人間などを相手に怒らねばならぬ」
「なら楽しいか?」
さらりと投げかけられた問い。
王は打ち消しきれなかった構成が掠めていった左腕を見やると、滲み始める自身の血に歪な笑いを見せる。
その得体の知れなさにエルザードはざらついた不快を抑えられなかったが、動揺まではしなかった。新たな構成を組みながら吐き捨てる。
「何も。つまらぬだけだ」
「そうか。残念」
青い瞳が皮肉に細められ、エルザードの背後を捉えた。
しばしの静止。
そこに何があるのか、魔族の男はラルスから注意を逸らさぬまま振り返る。
空の玉座。
立てかけられた剣。
それらに意識を移したのは一秒にも満たない刹那だ。しかし次の瞬間、エルザードは突きこまれた剣を避けて飛び退る。
「……っ!」
気を抜いてはいなかった。
だが、あと少しでも気づくのが遅れていたなら致命傷は免れなかっただろう。
ゆうに数歩分は開いていた距離をほんの一瞬で詰めてきた王は、更に踏み込みながら笑う。低い声が玉座の上を滑っていった。
「その剣は俺の部下のものだ。まさか何の意味もなく殺したなどという訳はないだろう?
 ―――― さぁ、楽しいと言え、魔物」
打ち込まれる王剣をエルザードは反射的に結界で防ごうとした。けれどアカーシアは彼の力を無効化しながら至近へと食い込む。
全ての力を拒絶し拡散させる剣。
かつて人外がファルサスに与えたというその刃に、エルザードは個の意識を持って以来初めて……戦慄を覚えた。
自らを貫こうとする切っ先を前に、彼は単純な構成で力を打ち出す。そしてその先を見ぬまま、剣の届かぬ空中へと飛んだ。
石床が砕け散る音が爆ぜる。

たかが人間相手に逃げ出した。
遅れてやってきたその認識はエルザードに消し難い屈辱を与える。
そしてそれは、舞い上がる粉塵の中から姿を見せた王が、血みどろになった左肩に面倒そうな溜息をついても変わらなかった。
虚勢であるのか違うのか、少なくとも苦痛を表面に出さぬ男は皮肉な笑みでエルザードを見上げる。
「どうした? まさかずっと浮いている気か?」
「……ほざくな、虫が」
人間に何の価値があるというのか。
面白いことなど少しもない。期待に応えてくるようなものは何も。
エルザードはラルスの挑発を無視してその場から大規模破壊構成を組んだ。
標的もろとも広範囲を飲み込む構成。それを、彼は不遜な目をする男に向け、何の宣告もなく打ち下ろす。
一瞬の閃光。
城そのものを揺るがす轟音。
破裂した力は窓の外にまで叩きつけるような爆風をもたらし……それが過ぎ去った後には、何ももたらさぬ静寂だけが立ち込めていったのである。