人の祈り 173

禁転載

「転移門の事前設定は全て完了しました。いつでも移送出来ます」
魔法士長トゥルースからの報告を、レウティシアは馬上にて受け取った。彼女は暗雲立ち込めるヘルギニスの方角を見上げる。
既に二十万に届きつつあるという魔物の軍勢だが、これは何としても大陸全土に拡散してしまう前に叩かなければならない。
ファルサス北部の野営地に集まっているのは宣戦した十二ヵ国のうち四ヵ国十五万の軍勢だが、これらの軍をいつヘルギニス山中に転移させるかはレウティシアの采配に委ねられていた。彼女はしなやかな指を顎にかけて考え込む。
「トゥルース」
「は!」
「転移門を開く作業は任せてもいいかしら」
「それは勿論……どうかなさいましたか」
大軍をどれだけ速やかに目的地近くへ転移させられるかは、その国の魔法士の能力と密接に関係している。
それは他国への遠征については大規模転移座標の取得自体が困難だということと、また転移先が遠ければ遠いほど門を大きく開くことや長く維持することが難しくなるという理由の為だ。
遠距離へ大きな門を長時間開くことは、宮廷魔法士であっても単独ではまず不可能である。結果としてほとんどの国はあらかじめ複数人の魔法士で分担して大きな門の構成を組むのだが、ファルサスに限ってはレウティシアがいる時ならば彼女が門を開くことが通例となっていた。
しかし今回はそれをしないという彼女には、何か問題でもあったのだろうか。
部下の心配そうな声に、レウティシアはかぶりを振った。
「どうもしばらく前からエリクがかなり魔力を汲み出しているのよね。彼のことだから何かしてるのではないかしら。
 今、私が大きな魔法を使ったら向こうに障るかもしれないわ」
「左様で。結界の核でも破壊しようとしているのでしょうか」
「さぁ……。とにかくぎりぎりまで任せてみるつもりよ」
レウティシアはトゥルースがその場を離れると、頭の中で時間を計る。
魔力が継続して汲みだされ始めてから既に四十分以上が経過しているが、これは一つの構成を組むにしてはあまりにも長すぎる時間だ。
一体エリクが何をしているのか、それはいつ終わるのか、ファルサス王妹は美しい眉を寄せ思考を彷徨わせる。
だが彼女はすぐに冷徹な表情に戻ると、武官を呼び各国の将軍に進軍を開始する旨を伝えさせたのだった。






力は単純だ、とカイトは常々思っていた。
それはとてもすっきりしていて、余計な思考を挟まない。
殺しの場においては力だけが結末を左右し、及ばぬものは死に落ちる。
全てはそれだけで、そこには善悪など存在もしなければ、得体の知れない煩悶も割り込むことはないのだ。

優美な女の手。
二つあるそれを、少年は注意深く見つめる。
もとは白かったその手は血塗れて不吉さを増し、相対する彼らにとって死そのものの様相を呈していた。
既に当初いた人間たちの半数以上は床に伏し、広い部屋であるにもかかわらず血の匂いが濃く充満している。
絶望がゆるやかに頭をもたげる時間。
そんな中、アヴィエラは自分を中心として一定の距離を保つ人間たちを見回し、童女のように小首を傾げていた。
「どうした? もう降参か?」
その答は否であるが、圧倒的としか言いようのない差を目の当たりにした彼らも闇雲に攻撃を続けることは出来ない。
どうすれば勝機が得られるのか、見つからないものを探すかのような人間たちの間を縫って、カイトは慎重にアヴィエラへの距離を縮めていった。
女の、両の手だけを注視する。

人が死に至る―――― その瞬間が好きだった。
周囲の影響によるものではない。父も母も普通の人間だったように思う。もっとも彼らはカイトが幼かった頃に死んでしまった。
残されたのは僅かな財産と、曽祖父が戦場で功を挙げた際に家名とあわせて下賜されたという一本の剣だけ。
その剣を持って彼は十一の時家を出た。やって来た親類たちの世話になる気はなかったので。
思えばその時既に、彼は自分が他の子供たちと違うことを自覚していたのだろう。
殺すことが好きだった。
何故好きだったのかは分からない。
それはただ言葉に出来ない感情未満の嗜好としてあったのみで、理由を言葉にしようとした途端、その何かは靄のように捉えられなくなってしまったのだ。
だから、後からつけられる理由はきっとどれも真にはそぐわないものになるしかないのだろう。
「何故」と聞かれたから答えた。
けれど、それは口にした瞬間から違うものになった。
単にささいな違和感だ。
しかし彼は自分が違和感を抱いたことに気づかず……そうしてただ少しだけ、変質したのである。



紅い唇の両端を上げて魔女は微笑む。
彼女に相対し戦う意志を見せる人間たちは、けれど余りにも可能性の見出せない賭けに、全てを乗せる切っ掛けが掴めずにいた。
武器を構え、詠唱をし、だがそこから先が動けない。
そんな彼らの様子を眺めたアヴィエラは、皮肉げに眉を上げてみせる。
「そちらから来ないのならば、あの二人は殺してしまおう」
魔女の指が示したのは魔法陣の中にいるエリクと雫の二人。
この場においてもっとも失われてはならない人間が指されたことに全員は顔色を変えた。
血が入り込んだ魔女の爪先に構成が灯りかけた瞬間、三人の男が戦意に満ちた声を上げ同時に切りかかっていく。
「ああああぁぁッ!」
「そうだ。来い」
アヴィエラは謳いながら、真っ先に剣を振り下ろしてきた男の額に構成を打ち出した。それに気づいた魔法士が咄嗟に男の前に結界を張る。
しかし弾丸のように凝縮された魔力は結界をあっさり貫通すると、男の眉間に穴を開けた。鈍い音と共に長身の体は仰向けに倒れる。
その間にアヴィエラの左側から切りかかった男はけれど、結界に阻まれ魔女の体に攻撃を届かせることが出来なかった。咄嗟に剣を返す間に強烈な衝撃波を受け弾き飛ばされる。それは背後にいた魔法士たちをも巻き込み、大人三人分の体が人形の如く床に叩きつけられた。
魔女は最後に動きを封じた三人目の男を見つめて笑う。
細い左腕一本。
だが魔力を纏ったアヴィエラの腕は、男の喉を鷲掴みそのまま呼吸と血流を圧し続けていた。
意識を失った男の手から高い音を立てて剣が床に落ちる。遅れて持ち主の体もその上に崩れ落ちた。

またたく間に五人が無力化された。
その結果に戦慄を覚えない者はいなかっただろう。
しかし、彼らは今更止まれなかった。
今、攻撃を止めてしまえば構成を書き換えている二人が殺される。
そうでなくともここまで人数が減らされてしまったのだ。既に後はない。
「撃て!」
魔法士たちの声が重なる。
詠唱によって生み出されたニ十二個の光球たちは、各々の軌道を描いて四方からアヴィエラに迫った。
逃げ場を作らぬ徹底的な攻撃。
しかしそれは彼女が指を弾いた途端、一箇所に引き寄せられ互いにぶつかり合う。
全ての光球は魔女に到達せぬまま破裂し、白い火花が広間を彩った。行き場を失った力が渦を巻いて空気を激しく揺らす。
「……駄目……か?」
誰のものとも分からぬ呟きが石床に跳ねた。
アヴィエラは右手の掌を掲げ、そこに構成を組む。
現れたのは避けることさえ叶わぬ範囲構成。
それを見た魔法士たちが死を予感した時―――― 刃が、現れた。

銀の刃。
握りこまれた短剣はあまりにも唐突に、その場に現れた。人が握っているのだということがすぐには分からぬほどに。
掲げられた掌のすぐ下。矢のような勢いで突き上げられた刃はアヴィエラの右手を貫通する。
「……っ……ぁ?」
突然自分の手の平を串刺した剣に魔女は両眼を大きく瞠った。細い息が喉から洩れる。
痛みと衝撃が完成しかけていた構成を崩れさせ、初めての動揺が赤みがかった両眼に揺れた。
アヴィエラは自分に傷をつけた相手を視界に入れようと首を動かす。
しかしカイトは、そこで止まるようなことはしなかった。
事実彼は最初から一秒たりとも静止はしなかったのだ。理解出来ぬ光景に彼以外の人間が静止したと感じただけで。
少年は短剣を突き刺したまま腕を交差させ細身の長剣を振るう。
刃は結界のないアヴィエラの右上腕部に食い込むと肩口までを一気に切り上げた。白い頬に彼女自身の赤い血が飛び散る。
―――― 魔女に手傷を負わせた。
これは戦闘始まって以来初めての勝機と誰もが思っただろう。
魔法士が怪我を負えば痛みで集中が乱れ、複雑な構成を組めなくなることもままあるのだ。狙うならば今しかない。
何人かが詠唱を開始する。負傷によろめきながらも剣士たちが走り出した。
しかし彼ら全ての動きを置き去りに、カイトは抜き去った短剣をアヴィエラの胸目掛けて突き出す。
最小の動作。最短の軌道。
幾百も繰り返した単純な力の行使。
死の結末しか残さないその道行きの最後に……少年は何故か魔女の目を見た。

そして彼もまた静止する。



正面から加えられた衝撃は、結界がなければ彼の体を突き破っていただろう。
まばたき程の間の後、カイトの体は軽々と宙を飛び、石床の上に叩きつけられた。
捻じ曲がった右腕。短剣は根元から折れて刃がない。体を起こそうと身じろぎした瞬間、激痛が襲ってくる。
「がぁ……っ! ……く……っ」
声にならない呻き。喉の奥に血と胃液の気配を感じた。腕だけでなく内臓もいくつかやられている。
彼はまるで他人事のようにぼろぼろになった自身の体を認識し舌打ちした。
これではもう戦えない。それどころか死に至るであろう重傷だ。あまりにも呆気ない最期に笑いさえ零れてくる。

きっと殺せたのだ。
魔女の目を見なければ。或いは、変質する前の彼であったなら。
だが彼は、止まってしまった。ほんの一刹那攻撃を躊躇った。
彼よりもずっと多くの人間を死に至らしめて来た人間の双眸。
慈愛と、寂寥と、傲慢と、悲愁と―――― そして僅かな希望。
もう一人の女が彼に見せたと同じ、複雑な感情が入り混じって静かな両眼を前にして。



苦痛の絶叫。新たに人の倒れる音。倒れ伏すカイトに聞こえるものはただ敗北の足音だ。
血と皮肉にまみれた彼は目を閉じて嘯く。
「だから………………僕は君が……嫌いだ」
「ごめん、カイト」
沈痛さが滲む声。
女の手が彼の額を撫でて行く。
温かく小さく無力なその手は彼の頭を一瞬包み込むと、音をさせないまま離れた。後にはささやかなる風が吹く。
誰かが自分の前に立つ気配。
それが誰であるかなどと見なくても分かる。カイトは唇を歪め掠れた声を絞り出した。
「何が、出来るんだよ……君に……」
「うん。でも―――― 覚悟が出来たから」
彼女の声には迷いがない。
その言葉だけを残して気配が遠のくと、残された少年は両目を閉じたまま落ちていくように沈黙したのだった。






「第千二百六十五系列を第千二百七十二系列と交換。高さを揃えて下さい」
「…………うん」
構成の書き換えを始めてから五十分近く。エリクの返事には時間がかかるようになってきていた。続きを要求する声もそうである。
それが示すことはもう終わりが近づいているという事実だろう。基盤においては僅かだった差異も先端に行けば行くほど広がっていく。
雫は暗闇の中に浮かび上がる構成が、本に記されたものと既にほとんど同じであることを確認して息をついた。
そうして待っていると「次」という声が響く。
「第千二百八十三系列を点対称に。第千二百九十も同様です」
「分かった」
書き換えは、まもなく終わる。
それは先を見ている雫には明らかなことだったが、このままでは間に合わないだろうということもまた、彼女には分かっていた。
先程から人の気配がどんどん減ってきている。様子がおかしい。食い止めが限界に来ているのだ。
元々これは、魔女の気紛れのようなものだったのだろう。
真っ先に雫とエリクを殺そうと思えば、きっとアヴィエラは容易にそれが出来た。
けれど彼女はそうはせずに、人を試すことを選んだのだ。
皆、試されている。
だがそれは、何を試されているというのか。王の器か、死の覚悟か。
近くて遠い二つは、きっとどちらもが正解でどちらもが違う。雫は暗闇の中小さく息をついた。
魔女は何を求めているのか。
アヴィエラは何を望んでいるのか。
―――― 近づけばそこには鈍痛が走る。
「……いいよ。次は?」
「第千三百十四系列から第千三百七十六系列を削除」
「うん」
「あと他にも続けていいですか?」

死ぬ覚悟など誰にでも出来る。
カイトはそう雫を批判したが、それは違うだろうと、やはり彼女は思う。
死ぬ為に覚悟するわけではない。戦う為に覚悟するのだ。その先に死を見据えることがあろうと、それ自体が目的ではない。
死にたいと思ったことはない。死にたくはない。
ただ譲れないと思うことがあるだけで――――

「他にも? いいけど」
「じゃあ言います。第千三百八十九系列を第四、第五十八、第百三十三、第七百四十二と接続。
 第千四百九十八を第八百八十二との交差地点から分岐、第九百九十二と第千百七十四に繋げます。
 最後に第千五百系列を反転……もう一回言いましょうか?」
「大丈夫。覚えた」
期待通りの返事に雫は微笑んだ。全身から力を抜くと、体を支える男の腕に手を添える。
「それで全部です。お願いします」
「……っ、待って」
腕を掴もうとする手。
エリクの指を、けれど雫はすり抜けた。動けない男を前に立ち上がる。



きっとこれが最後だろう。



目を開ける。
共有が解け、現実が戻ってくる。
繋がりが絶たれ、一対だった彼らは一人に戻る。
溢れる光。白い視界。
眩しさに目を細める彼女の前には世界が広がった。
血と絶望が溶け合って流れる世界。人の意思と感情が彩る光景が。

魔女に負けてしまったのなら。
そこに待つものは単なる死であろう。自分は家族から離れ、異世界の片隅で短い一生を終える。
ただもし、運良くアヴィエラに打ち勝てたのなら。
その時はもう元の世界には戻れない。
人を殺してしまった自分は、たとえ帰路が見つかろうとも最早あの場所に帰ることはできないのだ。



けれどそれでも、譲れないと思った。
譲らないことを選んだ。



「雫!」
「大丈夫です。時間を稼いできますから」
伸ばされた手。
その届かない範囲に立ちながら、彼女はしかしもう一度彼の手に触れたかった。今までの旅路を思う。
ここが二人の旅の終着点なのかもしれない。
雫は更に一歩下がると、魔女の立つ方を振り返った。
この城に足を踏み入れた者は皆、挑戦者だ。それは彼女も例外ではない。挑戦し、戦う人間。
その意気を持ち力を示した者だけが大陸を塗り替えるのだろう。魔女を殺して、彼女の屍の先に。
「行くよ、メア」
「かしこまりました。マスター」
殺したくはない。
だがそれが答だ。相手の死をも見据えた覚悟。
だから雫は重い足を踏み出す。
大陸を呪縛してきた呪具を抱き、その手に短剣を抜いて。