人の祈り 174

禁転載

それはもう十年以上も昔のこと。

本を読むことがとても好きだった。
そこには世界の広がりがあった。
遠い異国のことも過去のことも、様々な装丁の本とそこに並ぶ文字列に凝縮されている。
人の精神と肉体は切り離せないものと魔法理論は語るが、本を読む時確かに彼女の精神は肉体を離れ自由に世界を渡っていた。
遠い神話の時代や暗黒の時代、魔女の時代や、その後訪れた再来期。
無数の人々が紡いできた人の歴史は時に人の貴さを、時に愚かさを示しながら流れていく。

「何で人は何度も同じ失敗をするんだろう。前にも沢山人が死んでいるのに。勿体無いと思わない?」
禁呪に関しての歴史書を読みながらの彼女の質問に、本を蒐集していた祖父は苦笑した。
「自分は違うと思っているからだろう。もしかしたら忘れてしまったからかもしれない」
「忘れてしまう?」
どうしてそんなことがあり得るのか。
本を読めばそこにはまだ鮮やかに過去のことが描かれているというのに、何故忘れることが出来るのだろう。
自分を基準にしか考えられない少女はいたく怪訝そうな顔になる。
机を挟んで彼女と向かい合う老人は苦笑すると、顔に刻まれた皺よりも深い溜息をついた。
「記憶は風化するものだ。そして記録はしばしば忘れ去られる。
 長い暗黒時代が終わりを告げたのは人々が争いに疲れたからだが、実際その後二百年ほど大陸からは戦争がなくなった。
 けれどそれも永遠ではないのだよ。禁呪によって国が滅べば人々はみな禁呪から遠ざかる。
 しかし記憶が薄れれば再びそれは歴史の表に浮かび上がってくるだろう。
 今度こそそれによって何かが得られるのではないかとの期待を負ってね」
「分からない。だっておかしいもの」
理解出来ないことを前面に出す孫娘に、彼は肩を竦める。
老いた男の背には少女の何倍もの月日が背負われていたが、その全てを彼女に伝えることは不可能だろう。
そうして人の記憶は、感情は、少しずつ風化していく。人の死と共に持ち去られていく。
「たとえば悲しいことや辛いことがあった時、いつまでもそれを強く覚えていては苦しいだろう?
 だから人は、それらを覚えていながら同時に忘れてもいく」
その変化は彼女自身も覚えのあることだった。少女は茶色の目を大きく瞠る。老人は微笑んで続けた。
「そしてそれは、もっと大きな目で見てもそうだ。
 どんな酷い事件があっても、戦争があっても、それは記憶されながらも忘れ去られていく。
 やがて世代が代わり、それを知らない人間たちが増え、過去のことは記録の中にしか残らなくなる。
 そうなるとまた人々は似たようなことをやってしまったりするんだ。辛かったことを知らないから。
 ―――― これはもう人の性だろう」
何度も何度も繰り返し同じ失敗を重ねながら、人は時折前進したりもする。
それは全てを俯瞰するなら、子供の手遊びに似たもどかしいものだが、個人には変えがたい流れであることもまた確かだろう。
そのことを彼は既に分かっていたが、まだ若い彼女には納得がいかないものらしい。
不満げな表情を読み取った老人は立ち上がると、部屋の隅から一冊の本を出してきてそれを孫娘に差し出した。
「だからもし、お前がこの人の性を度し難いと思うのなら。
 本を読みなさい。本を書きなさい。
 そうすれば自分を律し、人の記憶に留めることも出来るだろう。皆が忘れてしまう悲しい過去のことも……」
両手で受け取った本には不思議なことに題名が書かれていない。
彼女はそれを怪訝に思ったが、手に馴染む紅い皮の感触にすぐどうでもよくなった。
埋め込まれている装飾を指でなぞりながら少女は祖父を見上げる。
「そうすれば同じ失敗も繰り返されなくなる?」

その返事は、結局もらえなかったのだとアヴィエラは記憶している。






「雫!」
伸ばした手はあと少しのところで届かなかった。エリクは遠ざかる彼女の背を見て歯噛みする。
予想出来た中でも最悪の展開だ。
自分が動けない状況にあるにもかかわらず彼女だけが行ってしまうなどということは。
構成の書き換えはもうあと少しで終わる。あと少しで瘴気を払うことが出来たのだ。
そうなれば転移禁止の構成が敷かれたこの城も、少しは自由が利くようになっただろう。
強引に転移門を開いて彼女一人を城に戻すくらいのことは出来たはずだ。
しかしその計算は僅かな差で崩れ去ってしまった。雫は自らが盾になることを選び、行ってしまったのだ。
エリクは声にならない自分への苛立ちに拳をきつく握り締める。
―――― だが、これ以上悔いていても何も進まないだろう。今出来ることは一秒でも早く書き換えを終わらせることだ。
彼女はおそらく死ににくい人間であるし、メアもついている。
それは負傷しないということと同義ではないのだが、まだ時間も可能性も残っていることは確かだった。
彼は意識を研ぎ澄ませると、注ぎ込む魔力の圧力を上げる。
酷使による激しい頭痛が沸き起こる中、しかしエリクは目を閉じると膨大な構成に侵蝕し、その記述を次々書き換えていったのだった。



紅い魔法着は血が目立たない。
だがそれは彼女の負傷の跡を完全に相殺するには不十分なものだった。雫は血がこびりついた銀髪と白皙の頬を見やって息を飲む。
相手は魔女だ。自分がどうこう出来る存在のはずがない。
それは当然分かっていることであったが、雫はこの場から逃げ出そうとは思わなかった。振り返らぬまま魔法陣への距離を測る。
この段階にあってまだ動けているのはアヴィエラと雫、エリクの他にもう魔法士が二人だけだ。
そのうちの一人はハーヴであり、彼はもう一人の魔法士が負傷者たちを治療にまわる中、それを庇って結界と牽制を繰り返していた。
アヴィエラは彼に向けていた穏やかな目を、自分に向って歩いてくる雫に移す。
剣士でも魔法士でもないことが一目で分かる相手に魔女は微笑を浮かべた。
「また会ったな、娘」
「ついさっきぶりです。おかげさまで」
「その力で私に挑むのか? 無謀だな」
「無謀は百も承知です。が、その前に要望が一つ」
雫はアヴィエラの数歩手前で足を止めると、自分よりも長身の魔女を見上げる。
澄んだ茶の瞳。
それを見た瞬間、雫は理解よりも先に「やはりそうだ」と思った。魔女は首を軽く傾ける。
「要望? 何だ? 助命嘆願か?」
「いえ。そうではなくて。
 ―――― あの本は何処ですか? 私たちが勝ったならあの本を下さい」
挑戦的な言葉。
それは誰が聞いても、状況を理解出来ていない増長としか取れなかっただろう。
集まっていた人間たちはほとんどが打ち倒され、最早動けない。
にもかかわらずその中でもっとも無力な人間が、勝利時の条件を要求してきたのだ。
近くで聞いていたハーヴでさえ一瞬絶句し、雫を止めようと口を開きかける。
だが彼は結局その言葉を声にする前に飲み込んだ。
既に彼らはどうしようもないところまで追い詰められている。ならばせめて彼女の考えを尊重しようと思ったのである。
雫の目には冗談の色が微塵もない。それはアヴィエラにも分かったのだろう。魔女は何も持っていない自分の両手を見下ろす。
「なるほど。お前はあの本が欲しいのか……それは何の為だ? 王になりたいか? 真実を知りたいか?」
甘く香る毒のような問い。
雫はしかし少しも表情を動かさなかった。既に決めていた答を反芻する。
偽りを述べてもう一度本を手にするという道もあるだろう。強欲を装い油断を誘ってそれを処分するという策も。
だがそれはきっと―――― アヴィエラの求める答ではないのだ。それでは彼女は動かせない。
何より雫も、今この場で己を曲げることはしたくなかった。小さく息をついて首を横に振る。
「私も学究の徒ですから。真実には興味があります。
 ですが、あの本が欲しいのはもっと別の理由の為です」
「ほう。それは何だ?」
「あなたにも、そして王になりたい人間にも、あの本を使って欲しくない」

それはたとえば、隠された王女の死。
歴史から消えた戦争の記述。明かされなかった女王の苦悩。
確かに在ったそれらは、けれど最早しまいこまれた過去の出来事で、雫はそこに秘された知識も力も使って欲しくはない。
アヴィエラと雫が持っている二冊の本は、元々人ならざるものが人を観察する為に記している本なのだ。
魔法法則さえも越えた力によって、封じられた禁呪が暴き出されるなどあってはならないことだろう。
まるで観察者の掌で踊らされているようで、ただただやるせないだけだ。

アヴィエラは雫の言わんとすることを読み取ったのか、表情を変えた。
微笑みを消したわけではない。からかうように試す目をやめたのだ。魔女は静かに凪いだ瞳を少し伏せて笑う。
「だがあの本が失われてしまえば完全に忘却されてしまうものもある。
 確かに在ったにもかかわらずないとされてしまうものが。
 お前はそれでもいいと思うか?
 苛烈な戦いにより得られたものが忘れ去られ、無数の犠牲を支払った過ちが無とされるこの現状が。
 人にも、歴史にも本来ならばもっと多くの可能性があるのだろう。真っ直ぐに先を選ぶことも出来るはずだ。
 安穏とした今に溺れ、過去を捨て去ってしまわなければ。―――― 同じ石に躓かなければ」 
記憶は風化し、人は同じところを歩き続ける。
かつて同じ場所を誰かが血を流し歩んで行ったことを知らずに、人は先を見ぬまま迷い惑う。
その無知を怠惰とも詰る魔女に、だが雫は理解を得ると悲しげにも見える表情で溜息をついた。落ち着き定まった声で返す。
「それでも、全てが残らない訳ではないでしょう。
 何千年経っても継がれていくものもあるんです。
 それを継いで来たのは人の意思で、だからこそ私はその営みを貴いと思う。
 ですけどあの本は違います。あれは無遠慮に人を観察し、書き留め、それを外へと伝えている。
 そんなものの干渉を私は認めたくない。だから、私はあなたに勝って、あの本を処分します」
「……そうか」
外部者の存在を知らないであろう魔女は少し考え込むように視線を彷徨わせる。
彼女が何を考えているのか、何を望んでいるのか、その答は雫にとって影絵のように輪郭しか捉えられない。
けれどそれでも分かることもある。
彼女の宣戦を聞いた時から、そして彼女の目を見た時から、雫の中には一つの想像が浮かんでいるのだ。
「記憶や記録が残っていることが、必ずしも現在への抑制になるとは思いません。
 生々しい記録を誰もが知っていながらも、似たことが繰り返された事例などいくらでもあるでしょう。
 あなたもきっとそれを知っている。過去の知だけでは充分な抑止にならないことを」

分かっていて魔女は問いかける。
過去を知りたくはないかと。積み重ねられた時に背を向けるなと。
それは歴史を知り、今を憂う少女の成れの果てだ。
あまりにも繰り返された過去に惑わされた人間の結末。

「知っているから、あなたは魔女になった。
 かつての畏れを呼び覚まし、それを大陸中に知らしめることで。
 禁呪を使い宣戦を行う魔女が現れ、かつ倒されたとなれば、人々は再び戦乱を恐れ禁呪を避けるようになるでしょう。
 ……殺される為に挑戦者を募ったんですね?」



暗黒時代は遠い彼方。魔女の時代も御伽噺。
一度は暗黒の再来も退けた大陸は、けれどやがてその畏れも忘れてしまうだろう。
突然降り注ぐ喪失を知らなければ。禁呪の忌まわしさを思い出さねば。

最初に雫が疑問を抱いたのはアヴィエラの目を見た時。
人を慈しむ視線に彼女は違和感を覚えた。
そして疑問がより明確になったのは城に足を踏み入れた時。
何故このように回りくどいことをするのか、わざわざ人を迎え入れたりするのか、雫はそれが不思議だった。
そして今。
アヴィエラは雫とエリクを先に殺そうとはしなかった。彼らの為そうとしていることがどれ程致命的な転換か分かっていながら。



望んでいたのは敗北だ。彼女は自らの悪名と死によって新たな恐怖と愚かさを伝えていく。



淡々と響く雫の声。
それを聞いたアヴィエラはしかし、微苦笑しただけで正答を返そうとはしなかった。
全てを受け入れる澄んだ貌が、相対する女に向けられている。
「面白いことを言う……想像力が豊かだな。さすが机に齧りつく人種なだけはある。
 だが、私はお前に殺されてやる気などないぞ?」
「勿論分かってます。私ではきっとあなたの求めている次世代にはなれない。力が足りない。
 あなたが選び出したいのは力と意志を持った人間なのでしょう? 英雄と呼ばれ良き王となれるほどの」
「それも違うな」
アヴィエラは皮肉な稚気を見せて視線を手元に落とす。その目が血に濡れた左手を捉えた時、そこに紅い本が現れた。
題名のない表紙。
今この時へと収束した幾百もの道行きに魔女の目は遠くなる。
しかしそれも一瞬のことだ。
目を逸らさないままの雫を見返すと、アヴィエラは気高い笑みを見せた。
「さて、お望みの本だ。お前が私に打ち勝てたのなら、これはお前のものになる。
 遠慮せずにかかって来い。お前の骸も他の者と共に並べてやろう」
「遠慮するほど力はないので全力で挑戦します。
 あなたの見ているものが何であろうと―――― 私はあなたのやり方を否定する」
雫は握っていた短剣を前に出す。
魔女に対するにはあまりにも心もとない一振りの刃。
こんなものを人に向けて構える日が来るとは思ってもみなかった。だがそこに後悔はない。
息を止める。相手を見つめる。
そして彼女は心の中で数を数えると、意志と力を戦わせる為、最初の一歩を踏み出したのである。