人の祈り 175

禁転載

『無詠唱での構成は手を媒介にしてしか組めないようです』
その指摘は雫が書き換えに関わっている間、広間での戦闘を観察していたメアによるものである。
確かにこれまでの戦闘においてアヴィエラは一切詠唱を用いていない。
それは詠唱に要する時間が、近接戦闘を含むこの状況では致命的な枷となるからであろうが、詠唱という補助がなくとも充分に多人数と渡り合える魔女の空恐ろしさは逆に、雫には一粒の希望を抱かせることになった。
使い魔の言葉を聞いた彼女は、数秒考え込むと頷く。
「うん。じゃあ……片手になってもらおうか?」
そして雫は本を欲する。

まずは狙い通り、アヴィエラの左手を封じることは成功した。
雫はケープの下に持っているものと同じ、本の形をした呪具を黙って見やる。
魔法士ではない彼女は片手が使えなくともそれ程支障はない。しかしこの段階で二人の力にはまだ天と地程の差があるだろう。
それを意志や気合だけで埋められると思う程、雫は楽観主義者ではなかった。彼女は一歩を踏み出しながら肩の上のメアに囁く。
「……行くよ」
「はい」
乾ききった口内。短剣を握る指が震える。それは自分ではどうにもならない、半ば生理的な震えだ。雫はアヴィエラの双眸を見返す。
魔女は挑戦者の無謀をどう思っているのか。少し淋しげな目で雫を見ていた。
しかし感傷は感傷にしか過ぎず、アヴィエラは右手を上げるとそこに構成を生む。
相手の実力を計るような牽制の光弾。
真っ直ぐに心臓めがけて打ち出された弾を、メアは結界を斜めに張って逸らした。
雫の斜め後ろで石床を砕いた光弾に、アヴィエラは目を瞠る。
「なるほど。魔法具と使い魔か」
感心の言葉に雫はかえって表情を引き締めた。
元々戦闘員ではない彼女は防御の為の魔法具を数多く持たされているのだ。
それらは範囲内に入った魔法攻撃を相殺しようとするが、アヴィエラの攻撃はそれだけでは無効化できない。
だから残る攻撃をメアが結界を使って逸らすのだ。正面から受けないのは貫通される可能性を恐れてのことである。
「だが剣の構え方がなっていない。お前は前線に出てくるべき人間ではないのだ」
「出るか出ないかは私が決めます」
その言葉と共に雫は床を蹴る。残り数歩の距離を一気に詰め、短剣を振るった。
しかし剣の刃はアヴィエラに触れる寸前、雫自身の手によって引かれる。彼女はそのままアヴィエラの攻撃を避け後ろに跳び退った。
魔女の指が下がる顎すれすれの場所を薙いでいく。
近寄ってきた雫の喉を掻っ切ろうと伸ばされた手。
それは、「あらかじめ下がる気」でなければまず避けられないものだったろう。
自分のすぐ前を通り過ぎていった「死」に冷や汗を感じながら、雫は慌ててもう数歩を下がった。その距離を魔女は優美な歩みで追ってくる。
「どうした? 怖気づいたか?」
からかうような声。
同時にアヴィエラの手には再びの構成が組まれた。一つの構成で四つの刃が同時に生み出される。
雫自身の目には見えぬその攻撃は、綺麗に分散すると前後左右から彼女を挟撃しようと向ってきた。メアが鋭い声を上げる。
「マスター! 後ろに!」
小鳥の指示に応えて雫は身を翻した。それまでの背後に向って駆け出す。
前方となった方向より襲い掛かる刃。
メアはそれを再度脇に逸らした。左右の刃は雫の背後でぶつかり合い破裂する。
「伏せて下さい!」
彼女は瞬時に屈みこんだ。頭のすぐ上を風が切っていく。
雫の首を刈り損ねた刃は広間の天井に突き刺さり、細かい石の破片が魔法陣の中に降り注いだ。
それはエリクと彼の前にある水盆の上に舞い散ったが、水面にささやかな揺らぎは出来ても彼は微動だにしない。
魔法陣の外周まであと数歩。雫はひやりと身を竦めながら振り返ろうとした。途端、体が宙に浮く。
「ちょ……っ!」
―――― 天井に叩きつけられる。
そう予感した彼女は咄嗟に頭を庇って丸くなった。
しかし、視界がさかさまになったまさにその時、魔女の干渉が断ち切られ雫の体は落下する。
迫る床に彼女は受身が取れるかどうか不安を抱いたが、メアの力に支えられて再び二本の足で降り立つことが出来た。
間をおかない攻勢全てをかわされたアヴィエラは、背後を振り返り微笑む。
「なかなかやるな」
そこには瞬時の判断でアヴィエラの攻撃を妨害したハーヴがおり、蒼ざめた顔で魔女を睨みつけていた。
「だが防戦一方ではいつまでも勝てんぞ?」
軽やかな揶揄。
それは実際痛いところをついている。
雫には戦闘経験がほとんどなく、ハーヴは支援型の魔法士なのだ。メアだけではどう足掻いてもアヴィエラと戦うことは出来ないだろう。
勿論雫はある狙いを持って前に出てきたのだが、その策を成功させる為には少なくとも魔女を魔法陣の中に引き入れなければならない。
このまま後退を繰り返してちゃんと追ってきてくれるだろうか。雫は思惑を表情に出さぬまま唇を噛んだ。
一方アヴィエラはその思惑を打ち砕くようにその場から巨大な範囲構成を組む。
「残念だが……娘よ、私に挑むには五年早かった」
それは外見年齢からの忠告なのだろうか。雫はつい憮然として確認したい衝動に駆られたが、実際に反論することはしなかった。
反論しようと口を開きかけた瞬間、別の声が広間に響いたのだ。
「ならその五年は俺が埋めよう」
窮地さえも楽しむような声。
けれど芯には冷ややかさを秘めた声に、全員の視線が入り口へと集中する。
開け放たれたままの扉。
その前に立つ二人の男女は、それぞれが皮肉な視線を魔女に注いでいた。大剣を帯びた男は隙のない足取りで広間へと踏み入ってくる。
凄惨とも言えるこの場を一瞥しても動揺さえしない男。意外すぎる再会に雫は驚き、彼の名を呼んだ。
「ターキス!」
「よう、雫。生きてて何より。他の人間も死んでる奴以外は元気みたいだな」
「息はあるけど瀕死って人間も多いんだけど」
男の後ろから入ってきたリディアは、不快げに髪を払うと魔女に視線を戻す。
かつて自分が雇っていた二人を覚えているのか、アヴィエラは少し驚いた貌で彼らを見つめた。
ターキスは不敵な笑いを浮かべ剣を構える。
「久しぶりだが、すぐにお別れだな。―――― そろそろ報いを受けろよ、アヴィエラ」
鈍く光る剣。リディアが詠唱を始め、それに気づいたハーヴもまた構成を組み始める。
収束していく意志、力、祈り。
絡み合って反発するそれらが広間に束の間の静寂をもたらすと、中央に立つ魔女は目を伏せ、新たな構成を手の中に生んだのだった。






淀む空気は音もなく人馬へと手を伸ばし、その精神を緩やかに傾けていく。
レウティシアは前線を形成する人間たちの顔色の悪さを見やると、瘴気避けの結界を張らせるようトゥルースに命じた。
山道の向こう、暗雲にも見える魔物の大群を見上げてファルサス王妹は小さく吐き捨てる。
「気分が悪くなる光景ね。焼き払いたいわ」
「ならそうしろ。大分すっきりする」
「出来るものならやっているわ」
正直に返された答にオルトヴィーンは嫌な顔になった。
これから自分たちがあれと戦わなければならないのだ。ただでさえ気が重いのに出来ないことを言わないで欲しい。
しかし彼の顰め面をレウティシアは無視すると、転移の状況を確認し出す。
まもなく「全軍移送完了」との報告を受け取ると、容姿の整った二人は何処となく棘のある空気を漂わせながら黙って馬を進め始めた。
布陣予定場所は山道を抜けた先、岩壁を背にした場所である。
狭い場所ではかえって魔法が使いづらいが、遮蔽物のまったくない場所では空を飛ぶ相手の攻撃に対応しきれない。
その為、まずはそこで敵の数を減らすことになっていた。
揺れる馬上で目を閉じながら、ファルサス王妹は自分の魔力に意識を合わせる。
エリクからの汲み出しはまだ終わっていない。
それが何を意味しているのか確信は持てないが、数時間前に兄を送って来た時よりも周辺の瘴気が薄らいでいる気がしてレウティシアは溜息を堪えた。

―――― ラルスの用意した切り札が雫なら、レウティシアの切り札はエリクである。
生まれつきの魔力に恵まれないという不利から、たゆまぬ勉強によって非凡な構成力を身につけた男。
彼にレウティシアの魔力を使わせるということは、彼女をもう一人配するに等しい効果を持っている。
ただそれでも傾向の違いというものはあるもので、レウティシアに比べればエリクは遥かに後衛型の魔法士ではあるのだが。
「結果を出しなさいよ、エリク……」
今ここでファルサスが敗れたなら、大陸にはもう魔女に対抗できる国はないだろう。
そうなれば時代は再び暗黒の中に落ちかねない。既に越えた闇に再び迷い込む羽目になるのだ。
「レウティシア、気づかれたぞ」
男の声が物思いに耽っていた彼女を呼び戻す。
顔を上げると、城の方角に蠢いていた暗雲が、ゆっくりと彼らめがけて動き出していた。レウティシアは花弁のような唇を歪める。
「……いいわ。一匹残らず灰にしてやるから」
「進軍停止! 防御結界を張れ!」
「範囲型の火炎弾を作りなさい! 迎撃する!」
途端、騒然となる隊列の中、二人の王族はそれぞれの戦闘準備を始める。
人と魔族、大軍同士の戦い。
長い大陸の歴史においても前例がない規模の衝突が今重い幕を開けようとしていた。






広い最上階の床は大部分が崩れ落ちている。
それだけではなく下の階までもが力の余波で破壊され、そこには数階分に及ぶ深い瓦礫の穴が出来ていた。
冷たい風だけが吹きすさび、他には何も動かない景色をエルザードは感情のない目で見下ろす。
今ここにアヴィエラが戻ってきたなら何と揶揄されることだろう。
彼は忌々しさにただ小さく舌打ちした。壊した箇所を直す為、玉座の横に降り立つ。
「大言ばかりで力もない虫けらが……ろくなことをしない」
「よく言われる」
あっけらかんとした返答。
それは強烈な斬撃と同時に降ってきた。エルザードは咄嗟に体を逸らす。
感じたのは魔力の気配。それがなければ剣は彼の頭蓋に深々と食い込んでいただろう。
間一髪で即死を免れた男は、しかし続く激痛に絶叫した。切り落とされた右腕を押さえて広間の離れた場所へと転移する。
何が起こったか分からない。頭の中が真っ白になる。
肉の体を纏ってから数年、傷を負ったのは初めてのことだった。
滴り落ちる血を睨んで声を殺す魔族を、ラルスはにこやかに笑いながら見やる。
「結構肉体の怪我とは痛いだろう? 次は即死がお勧めだ」
「貴様……どうやって」
先程左肩に負った傷以外は何も変わっていない男は、どうやって彼の攻撃から逃れたというのか。
魔法を使えないはずの王をエルザードは凝視する。
王剣を持った剣士、ラルスは魔力を持ってはいるが構成を組むことが出来ない。アカーシアが主人のそれをも拡散させてしまう為だ。
しかしよくよく注意してみれば彼の体内に宿る魔力とは別に、僅かな魔力を洩れさせているものがある。
男の指に嵌められた白い石の指輪。
それこそがこの状況を作り出した原因だと悟ってエルザードは声を引き攣らせた。
「それは、魔法具か……? 小癪な人間が……」
「残念。魔法具じゃないな。妹からの借り物だ」
ラルスは躊躇いもなく指輪を引き抜くとそれを床に放った。途端小さな装飾具は形を変え銀に光る水溜りとなる。
そこから白い女の手が這い出でてくるのを見て、エルザードは全てを理解した。
純白の髪が銀の泉から姿を現す。
細い躰。小さな顔に銀の瞳。人にはあらざる姿の―――― 精霊と呼ばれる少女。
人間の王家に数百年仕える上位魔族の彼女は、同族の男を見つけると薄く微笑んだ。ラルスがさらりと命じる。
「シルファ。あれを捕まえろ。殺すから」
「かしこまりました、王よ」
舞うように床を蹴って飛ぶ少女。
その広がる構成を見て取ったエルザードは、傷を押さえていた手を離すと自らも構成を組む。
激しい風を巻き起こしぶつかりあう二つの魔力。
人外が行使した力は競り合って大きく爆ぜると、天に伸びる城自体をも大きく揺るがしたのだった。