人の祈り 176

禁転載

アヴィエラの放った一撃。
放電する光球をターキスは半身になって避けた。再び床を蹴ると数歩で魔女を間合いに入れる。
がっしりとした長身からは想像もつかない俊敏な動き。軽々と振るわれた厚手の長剣を、彼女は右手の結界で受け止めた。
「……やれやれ、厄介な相手が増えたものだ」
今、魔女の左手には紅い本があるのだ。それは雫だけを相手取るならともかくターキスに対してはあきらかに不利に働くだろう。
顔を顰めるアヴィエラに、三方からリディア、ハーヴ、メアの魔法が集中した。
しかしそれらは魔女がその場から消えたことによってターキスのすぐ前でぶつかりあう。
「うおっ! リディア、止めろよ!」
「避ければ?」
魔法攻撃の余波に数歩後退しながら彼は、離れた壁際に転移した魔女を見やった。
誰もが何もを言わない間。
アヴィエラは一度自分の本を見て、そして雫に目を移す。
だが魔女は、彼女の視線の強さを見て取ると苦笑した。本を手放さないまま右手を上げる。
「なるほど。巡りあわせも力か」
彼女の言葉には苦渋という程の苦さはない。
皆の意識が集中する中、魔女の白い指に構成が生まれた。不可視の魔力弾がターキスに向って打ち出される。
「ターキス! 右」
「はいよ」
「後ろ! もっと左!」
「どっちだよ」
言いながらも男はリディアの言葉に従って見えないはずの攻撃をひょいひょいと避けていった。
避けきれないものはリディアが結界を張って逸らし、ターキスの体には一つも着弾しない。
その光景に雫は目を瞠り、ハーヴは唖然とする。
―――― つまり、長く組んで仕事をしてきた彼らは、ごく自然に魔法攻撃に対しても連携を取ることが出来るのだ。
今まで魔女の前に敗れ去ってきた剣士が、魔力が見えないが為に後手に回らされたことを思えば、彼らの技能は俄然期待を抱かせる。
雫は意を決すると、アヴィエラとターキスの動きに注意しながら広間を走った。
途中でハーヴを引っ張りつつリディアのもとへと駆け寄る。
「すみません、策があるんです。聞いてください」
「いいよ。何?」
「魔女を魔法陣の中に引き込みたいです。彼女を魔法装置に取り込みます」
「……え?」
「へ?」
魔法士ではない女の突拍子もない提案。
それを聞いた二人の魔法士は間の抜けた声を上げると、一瞬攻撃を避け続けるターキスを忘れ、顔を見合わせたのだった。



ヘルギニスの浄化結界。
その詳細は国の消滅と共に失われ記録さえも残っていないが、雫は実際それがどのようなものだったのか、呪具から既に把握している。
聖女が自身の身と引き換えに生み出したと言われる結界―――― その正体は「女性の魂を動力にした禁呪装置」だ。
最初の一人は聖女と呼ばれていた魔法士自身が。それ以降は数年に一度、強力な魔法士の女が、生贄として装置に捧げられていた。
そしてだからこそアヴィエラはヘルギニスの異界化にあたって、各地から女の魂を集めさせていたのである。
装置の中央にある水盆は、それ自体が女の魂を抜き出し魔力を吸い出す効力を持っている。
つまりアヴィエラをその中に落とせれば、彼女を無力化することも出来るだろう。
実際六百年前ヘルギニスが滅亡したのも、当時の王が野心によって魔女の一人を装置に取り込んだことが原因なのだ。
結局その時は複数の魔女の介入によって装置は破壊されたが、アヴィエラだけが相手なら充分なんとかなる。
それらのことを雫がかいつまんで説明するとリディアは結界を張りながら声を潜めた。
「でも、それはアヴィエラも知ってるんでしょ? なら水盆までは近づいてくれなくない?」
「いえ。魔法陣の中だけで充分です。そこまで行けば水が届きますから」
雫にはメアがいる。
彼女はもともと湖底の城の核となっていた使い魔で、水の操作が巧みなのだ。
魔法陣の中にまでアヴィエラを入れられれば、その時はメアが水盆の水を操作して魔女を引きずり込める。
そこまで口にすると二人はようやく得心したようだった。
密談を始めてから三十秒程、彼らはアヴィエラの攻撃を避けながらじりじりと近づきつつあるターキスに意識を戻す。
「分かった。やってみよっか」
「お願いします」
リディアはターキスの補助に戻る為駆け出す。ハーヴは治療を続ける魔法士の近くに寄りながら結界を張った。
そして雫は魔法陣の前へと戻る。

書き換えはまだ終わっていない。
だがもうすぐ終わるだろう。そしてエリクが動けるようになる。
だからその前に、雫はこれをやらなければならない。

「メア、ターキスとリディアを助けてね。アヴィエラを魔法陣に寄せるから」
「ご命令のままに」
ターキスたちの登場によって戦況は分からなくなったが、アヴィエラ自身は魔法陣から遠い場所へと移動してしまったのだ。
勝つ為には彼女を何としても引き寄せ、陣まで近づける必要がある。
雫は短剣をしまうと両手で本を抱いた。魔女と善戦する二人を見ながら精神を本の奥底へと滑り込ませる。
ぼやけていく視界。
見えている世界が遠ざかる。
奥底にある繋がり。それを辿り、流れに乗り、より遠く深くにまで精神を伸ばした。
自身が薄らいでしまいそうな茫洋の中、雫は紅い本に向って干渉を始める。
先程までは取れなかった手段。けれど今は、ターキスたちがアヴィエラの注意を引きつけてくれているのだ。
ならば試してみる価値があるだろう。
雫が本によって精神干渉されたように―――― 二冊の本を伝って、彼女がアヴィエラの精神に干渉出来るのかどうかを。



下りていく過程はとても暗い。
光がないわけではない。ただ「暗い」と感じるのだ。
暗くて、孤独だ。
怖い。
自分だけが何ものからも切り離されている気がして仕方ない。
世界に、人に、触れたいと思うのに届かない自分は異質だ。
だから嗚咽を上げて闇の中を下りていく。
分かっていたこと。
忘れてしまったこと。
力。意志。精神。魂。
欠けた記憶が孕むものは同じだ。
希望があると思いたい祈り。
憐れで、いじらしい、懸命な人の軌跡――――

「ああ、そうか……」

そして彼女は深く息を吸い込むと、それを白い光に向けそっと吹き込んだ。






一度は転移によって開けた距離を、不敵な目をした男は仲間の補助を受けながらも再び詰めてきた。
かなりの大剣にもかかわらず、その振りに隙がないのは彼の技量の為せるわざであろう。
右腕だけでターキスと渡り合うアヴィエラは、彼に接近されては転移で逃れるということをもう三度も繰り返していた。
手に張った結界で剣を逸らしながら、広間の各所に散った挑戦者たちを見回す。
このままでは敗北まではしないだろうが、なかなかに時間を食ってしまうことは確実だ。
その前に女の魔法士か、書き換えを行っている魔法士を狙い打つ方がいいかもしれない。
しかしそこまで考えてアヴィエラは自然と苦笑した。先程一人の少女に指摘されたばかりのことが甦る。

『殺される為に挑戦者を募った』
それは真実の一片で、だが全てではない。
むしろ今殺される気はまったくないのだ。まだちっとも足りてはいない。この後数百年大陸を呪縛する為の記憶には。
残したいのは野心によって剣を取る人間ではない。
意志に見合う力を以って魔女を倒そうとする英雄でも。
彼女が望むものは、もっとやるせない悲しみだ。どうにもならない理不尽さ。
取り残された人間が過去と未来へ抱く哀惜。歴史の無情を忘れ得ぬ悔恨。
だから彼女は一部を奪い、一部を残す。
大きな亀裂が入る前に、小さな穴を穿っておく。
この傲慢を理解してもらおうなどとは思わない。自分でも理解したくはないだろう。
だが、長い大陸の歴史を俯瞰したアヴィエラには見えてしまったのだ。
このまま行けば、やがて大陸は再びゆるやかに長い闇の中に分け入り始めてしまうのだと。

空を切る刃。
それを結界で弾いたアヴィエラは、けれどターキスの力に押され後ろによろめく。
畳み掛けるように返された剣を防ぐと、彼女は頭上に数十もの炎の矢を生んだ。
「―― 撃て」
「リディア!」
「分かってるって!」
大きく後ろに跳んだ男を追って矢の雨が降り注ぐ。
しかしその半数以上はリディアの放った魔法によってかき消された。残る矢をターキスは左手に抜いた魔法剣で弾く。
だが、彼が矢に対処するその時間は、魔女に構成を組む間を与えただけだった。
「ターキス! 下!」
リディアの警告とほぼ同時に、彼の両足首を不可視の力が絡み取る。
細い蔦にも似たそれは、そのまま肌へと食い込み鋭い痛みをもたらした。ターキスは舌打ちしながら魔法剣で拘束を断ち切ろうと屈みこむ。
炎の矢が生み出されてから十秒も経過していない間。
けれどその時、歴戦を経た彼の勘に何かが触った。顔を上げ、魔女の目を見る。
茶色の瞳に浮かぶのは去り行く者に向けた哀惜。そして空気を変える魔力の凝り。
―――― やられた。
顔を顰める男に魔女は微笑む。
防御さえも許さない一撃。命を刈り取る一手。
それが敗北を悟ったターキスに向けて打ち出されようとした、まさにその時――――
だがアヴィエラの表情は、不意に凍りついた。



 骨を拾う。
 乾いた大地で死んだ子の骨を拾う。
 小さな諍いだ。辺境の部族間での争い。
 この程度のものはいつの時代何処にでも溢れている。
 だから彼女は跪き、骨を集めた。



作り出した構成が歪む。アヴィエラは右手でこめかみを押さえた。怪訝そうなターキスと目が合う。
何かがおかしい。だがそれが何なのか分からないのだ。
彼女は新たに構成を組む。
歪曲した金色の刃。それを男に向かって放った。
アヴィエラは眩暈を覚えて数歩よろめく。

何故、このような時に甦ってくるのだろう。
これまでに歩いてきた足跡の一つ一つが。



 「お前が上位魔族か。本当に人間みたいな姿をしているんだな」
 「何だ、子供じゃないか。俺に何の用だ?」
 「用? そうだな…………私は悪い魔法士だ。だからこの大陸に混乱を起こしてやる、というのはどうだ?」
 「面白いのか? それは」



記憶の底で誰かが泣いている。
自分ではない誰か。
小さな嗚咽が聞こえてくる。

「ターキス! 左から押し込みなさい!」
「はいはい」
強烈な斬撃。
アヴィエラはそれを直接受けることはせず、黙って横に跳んだ。男の足を狙って不可視の蔦をしならせる。
だが先程同じ攻撃を見たリディアはすかさず小さな魔力弾を放つと蔦の方向を変えた。
足下で石床が砕け、ターキスは僅かに後退する。
魔女はこめかみを押さえながら次なる構成を組んだ。



 集められていくガラクタ。
 死者の遺物を拾うようになったのはいつからか。
 ただ彼女は、自分が殺した者も他人が殺した者も、分け隔てなくその遺物を集めた。
 そして小さな自室に並べ、束の間物思いに耽る。
 悲しむことは出来ない。後悔も許されない。
 それは彼女がとうに放棄した権利だ。大陸各地に禁呪を伝え歩くようになったその時から彼女は振り返ることをやめた。



構成が上手く組めない。
アヴィエラは咄嗟にただの魔力を放つと数歩下がった。
ターキスは彼女を追って跳躍する。
斬り込まれる前に迎撃しなければと思うのだが、今は結界を張ることで精一杯だ。
息を切らした魔女に、至近で剣を振るう男はにやりと笑う。
「どうした? 調子でも悪くなったか?」
「さぁな」



 例えば人の中に人に足らない欠陥者がいるとしたら、まぎれもなく自分もその一人だろう。
 歴史という流れからしか命を見ることが出来ない。数で計って手段を選ぶ。
 まるで度し難い傲慢な思考だ。
 少女の頃疎んでいた暗君と同じ。
 その愚かさはとうに分かっている。
 ただそれでも――――



男の剣を防壁によって押し返す。
そうして更に後ずさったアヴィエラは、不意に何かを感じて視線を彷徨わせた。惑う両眼が、本を抱えた少女を捉える。
何処か遠くで聞こえる嗚咽。
そして変質をもたらす息。
「…………お前、か?」
問いかけに応えて雫は目を開ける。
相対する二対の瞳。
慈愛と寂寥。傲慢と悲愁。ささやかな理想に希望を添わせる対称の双眸が、刹那お互いを見つめた。
そこに消せない差異が映る。
「お前……!」
―――― 全てを理解した。
アヴィエラは怒りに駆られ、反射的に構成を組みかける。
雫の体を本ごと打ち抜こうとしたその時、だが水盆の水が大きく爆ぜると彼女に襲い掛かった。
それはまるで生き物の如く女の全身を飲み込み、陣の中央へと引きずり込んでいく。
魂を吸い出す水。魔力を取り込んでいく陣の中でアヴィエラはもがいた。水盆に到達する前に逃れ出ようと構成を生む。

しかし、その魔法は結局放たれることはなかったのだ。
構成が完成する直前、魔女の体は強い衝撃を受け背後に倒れこむ。
飛び散る飛沫。アヴィエラは自分に体当たりして来た女をきつく睨んだ。
「よくも、お前……」
「私たちの勝ちです」
水盆の中、ずぶ濡れの雫は苦しげな笑みを浮かべる。
そして彼女は短剣を抜くと、押さえつけた魔女目掛けて真っ直ぐそれを振り下ろしたのだった。