人の祈り 177

禁転載

振り下ろす刃。
そこに迷いはない。決して躊躇わない。彼女は意志の力だけで腕を振り切る。
鋭い切っ先は狙いを違えない。それは魔女の胸に向かって真っ直ぐに突き刺さりかけた。
清算が行われる瞬間。
だがその刹那―――― 雫の体は大きく痙攣する。そのまま水盆の中に崩れ落ちた。
「雫!」
男の声。
それが誰のものであるか、分かるからこそ彼女はただ視界を閉ざす。
大丈夫なのだと、口にしたくても出来ない言葉を喉に詰まらせて。



勝った、と。
期待しかけたことが罪ならば、それはリディアにもハーヴにも言えただろう。
作戦通り魔女を水盆の中に引き込んだ。そして、彼女の膨大な魔力は実際装置の中に吸い上げられ始めたのだ。
しかしそれは、成功したと思った瞬間、一転して失敗と成り果てた。
小さな魔法弾で雫の胸を射抜いたアヴィエラは、ゆっくりと立ち上がると水盆の中から抜け出す。
魔力の大半が吸い出されたことによる重い体。彼女は濡れた魔法着を引くと、水に浮き上がる女の体を見下ろした。
緩やかに広がる黒髪。閉ざされた両眼。
穴の開いた胸からは血が水へと溶け出していた。紺色の本がそのすぐ側に浮いている。
「―――― 残念だったな」
それ以上かける言葉はない。
憐憫の一つさえ与える気はなかった。アヴィエラは踵を返そうとして、水盆のすぐ側にいる男に気づく。
魔法陣の構成に繋がったままのエリクは水の中に手を伸ばし雫の体を引き上げようとしていた。
彼は焦りが色濃い表情で濡れた手を掴むと、腕の中に彼女を抱き取る。そのまま胸の傷を塞ごうと詠唱を始める男にアヴィエラは複雑な表情になった。行為の無意味さを指摘しようとして、だが思い直すと残る魔力を指先に集める。
「お前も後を追うがいい」
「エリク!」
走ってきたハーヴの叫び声。雫の上を飛び回っていたメアが反撃の刃を放つ。
リディアからも浴びせられた攻撃を、しかし本を手放したアヴィエラは全て結界で受け止めた。
水盆に背を向けると、それぞれ怒気を浮かべる三人に向かって唇を歪める。
「どうした? これくらいは分かっていたことだろう。力なき者は死んでいく」
「ば、馬鹿げてる!」
声を荒げ、魔女の前に立ったのはハーヴだった。
彼は激しい混乱を目に宿しながら、それでも怒りを露にしてアヴィエラに対する。
「お前のやってることは過去への冒涜だ! 人の伝える意志を無視している!
 その努力を放棄して何が歴史だ! お前が人を同じ石に躓かせてるんだろう! 魔女なんて避けられない石だ!」
「だが何もしないよりはましだ」
冷え切った声。アヴィエラは銀の髪から滴る水を見下ろした。
それは複雑な魔法陣の上、徐々に水溜りを作っていく。
「このままではあと数百年のうちに、大陸には再び戦乱の時代が訪れるだろう。
 もはや大陸に魔女はおらず、ファルサス王家も代を重ねるごとに魔力が薄らいでいく。
 そうなれば抑止力を失った大陸では魔法具の研究がますます進められ、各国が禁呪に手を出し始めることは明らかだ。
 再来期どころの事態ではない……この大陸は再び闇の中に沈む」
ファルサスが何故魔法具を他国に売りたがらないのか。
それはかつて魔法具の新たな製法が発見され、爆発的に研究と生産が進められた後の、再来期の記憶が残っている為だ。
その時約十年に渡って大陸に吹き荒れた戦争の嵐は、ファルサス、ガンドナ両国の介入により何とか沈静化された。しかし、それまでの大国タァイーリの滅亡をはじめ多くの国々が戦乱の中入れ替わったという事実は、人々に「絶対に滅びぬ国などない」という認識を植えつけたのだ。
そしてこの先、抑止力の一つであるファルサスの力が衰えればどうなるのか。
更に言えばディスラル廃王のような人間が再び現れないとも言い切れない。
一度均衡が失われれば大陸は再び闇の中に落ちていくだろう。
その闇がどれだけの年月続いていくのか、それは誰も知らない未来の話なのだ。



理解を得たいわけではない。
だからアヴィエラは自嘲を浮かべながらも再び魔力を指先に集めた。退こうとしないハーヴに向けて狙いを定める。
「お前たちがどう思おうと、私は、私の後に残るものを望む。そうなれば―――― 」
言葉はそこで途切れた。
アヴィエラは瞠目して自分の体を見下ろす。
水に濡れた体。
紅い魔法着。
その胸の少し下から……何故か銀色の刃が切っ先を覗かせていた。
背後から息を切らした囁き声が聞こえる。
「何も、残らないね。お前は僕に殺されるから……」
「カイト!」
驚愕に震えるリディアの声。彼に手当を施した魔法士が息を飲んでいる。
ターキスが顔を顰め、ハーヴは絶句した。
雫は目を開けない。エリクは顔を上げない。
まるで時間が静止したかのような空隙。
アヴィエラは自分の体を貫通した刃を握ると、緩慢な動作で振り返った。
そこには瀕死の少年が今にも倒れこみそうな顔色で斜めに立っている。彼は皮肉な目で魔女を嘲笑った。
「何も……残らない……お前を殺すのは、すぐに死ぬ人間だ……いい気味だよ」
それだけを吐き捨ててカイトは崩れ落ちた。手甲を嵌めた手が、血の溶け出す水溜まりに跳ねて落ちる。
死に行く少年の体。
それは赤子の如く縮こまって冷えつつあった。
届かなかった手の先で死した子のように。無数に積まれてきた遺骸と同じく。



孤独に終わろうとする一つの生。
アヴィエラは彼の姿を黙って見下ろすと、石床に両膝をついた。
少年の上に手を伸ばし、壊れかけた体に魔力全てを注いでいく。
治癒される温度にカイトが目を開けると、女は穏やかな笑顔を浮かべた。彼の耳元に口を寄せ囁く。
「―――― ほら、残った」
音もなく倒れる体。
アヴィエラは深く、息を吐いた。眠りに落ちるよう目を閉じる。
そしてそれきり、魔女は何も言わない。
言わないまま歴史の上から姿を消した。






感覚が震える。
それは、同族からの苛烈な攻撃を捌き続けるエルザードを刹那、硬直させた。
彼は背後へ跳躍しながら辺りを見回す。
「アヴィエラが―――― 死んだ?」
いつも、何処にいても、感じ取れた契約者の気配。
それが今、断ち切られたようにこの城から消え失せたのだ。
何があったのか……その答は一つしかない。
彼女は死んだ。
死んでしまったのだ。肉体は朽ち、魂は溶け出してもう戻らない。
混乱するエルザードに、ラルスの乾いた声が聞こえる。
「何だ。誰かが殺したのか。探す手間が省けたな」
鼻で笑う音。だが、エルザードにはそれも聞こえなかった。ただアヴィエラが気配を絶った場所を探して意識を彷徨わせる。
―――― 失われてしまった。
それが本当ならば、確かめなければならない。
彼女が何を残したのか。どんな死に顔をしているのか。
それを確かめなければきっと、何も得られないのだ。この世界に来た意味がない。
エルザードは核のある部屋に座標を合わせると転移の構成を組んだ。しかしその構成はシルファの攻撃によって打ち砕かれる。
四肢を掴み引き寄せる構成。
捕らえられた先に待っているものは王の剣だ。ラルスはアカーシアを手に笑った。
「さて、お前もそろそろ退場だな」
恐ろしい速度で突き込まれる両刃。
自らの体を貫くそれを、男は呆然と見下ろす。
剣の触れた箇所から、肉体が黒い靄となって霧散していった。
己が失われていく様を彼は何の感情もなく見つめる。消えかかる精神に澄んだ声が響いた。
『人間は美しいぞ、エルザード』
彼女の言葉はずっと理解できなかった。今、この瞬間に至っても。
だが、たった一つだけ自明のことがある。
変えられない濁流を変えようともがく彼女の姿。
その姿だけは確かに―――― 美しく、見えたのだと。






誰もが何もを言えない。
重い呪縛が部屋中を満たしたかのような沈黙の中、真っ先に動いたのはカイトだった。
彼は自分の体を確かめながらゆっくり立ち上がると、苦い顔でアヴィエラの死体を見下ろす。
まるで眠っているかのように安らかな死に顔。
死を以って自由になった女の顔を一瞥すると、彼は何も言わず踵を返した。そのまま無言で広間を出て行く。
その足音で我に返ったのか、リディアはターキスを引き摺って怪我人の治療に手をつけ始めた。
ハーヴは種々の言葉を飲み込んで友人の側へと歩み寄る。
「エリク……」
「何?」
「あ、あのな、雫さんは……」
「生きてるよ。傷塞いだからちょっと見てて」
「え!?」
ずぶ濡れの体をハーヴは恐る恐る受け取った。よく注意して見ると、確かに彼女の胸は微かに上下している。
間違いなく魔女の一撃で即死させられたと思っていた彼は、安堵のあまり床に座り込んでしまった。
そのはずみで雫の頭を床にぶつけそうになり慌てて抱え込む。
「何で助かったんだ? 駄目かと思ったぞ」
「魔法具のおかげだと思う。色々つけさせられてたから。衝撃を緩和したんじゃないかな」
「そうか……」
被害は甚大だが、ともかくこれで魔女討伐は終わったのだ。
複雑な思いながらもほっと息をつくハーヴに、エリクは軽く手を振る。
「ごめん。陣の外に出てて。書き換えが終わったから発動させる」
「あ、ああ」
気を失ったままの雫を抱いて、ハーヴは大きな陣の外へと足を向けた。
その途中で彼は魔女の死体とその近くに落ちている紅い本に目を留めたが、小さくかぶりを振っただけでそれを手に取ろうとはしなかったのである。






上空から降下してくる鉤爪を、兵士は剣を掲げて防ぐ。
強烈な力は両手でなければとても支えきれない程のものだったが、側にいた魔法士が魔物の体を薙ぎ払ったことにより圧力は消え失せた。
彼は息をつくと新手を探して剣を構える。
魔族の大軍と衝突してから数十分、彼らが揃って感じたことは「きりがない」という事実だ。
殺しても殺してもそれらはとめどなく現れ、人の体を切り裂こうと襲い掛かってくる。
まるで先の見えない戦いに、多くの者は体力よりも先に気力が尽きてしまいそうだった。
兵士は吹きかけられる酸の液から頭を庇って後退する。
一体いつまでこれが続くというのか。
叫びだしたい気持ちはあったが、退けない戦いであることもまた確かだ。彼は血と汗で滑る柄を、布を使って握りなおす。
―――― 戦場に一陣の風が吹いたのは、その時だった。
淀んでいた空気が変わる。城の方角から強い風が吹き込んでくる。
それはまた大きな力をも帯びて、混戦が満ちる山道を吹き抜けていった。
思わず目を覆った彼の頭上で魔物の叫び声がいくつも重なり、そして遠ざかる。
甲高い悲鳴を攫っていくように風がそのまま通り過ぎると、辺りには凪いだ空気が広がった。彼は用心しながらも顔を上げる。
「……何だ?」
差し込む光、一変した空気に気づいて兵士は唖然となった。
見れば空にいた魔物の数が半減している。
それだけではなく、今まで時を黄昏と思わせる程に上空を覆っていた暗雲が、呆気ないくらいさっぱりと消え去っていた。
兵士や魔法士たちはお互いの顔を見合わせ首を傾げる。
「風が雲と魔物を飛ばしていった……とか?」
「まさか。だが……」
にわかには信じがたい光景だが、これは希望以外の何ものでもないだろう。
途端彼らは勢いづくと、残る魔物に向かって激しい攻撃を再開し出した。
その陣中にあって指揮をとっていたレウティシアは、事態を把握して安堵の息を吐き出す。
「浄化したのね……思い切ったことするじゃない」
賞賛の言葉はこの場にはいない男に向けられたものだ。
彼女は部下の手際に微笑すると、残る敵の掃討に向けて馬上から新たな指揮を飛ばしたのだった。