人の祈り 178

禁転載

『雫ちゃん。答は全部、あなたの中にあるのよ』

雫が意識を取り戻した時、そこは魔法陣のある広間の入り口近くだった。
壁際に寝かされていた彼女は、ゆるゆると起き上がると辺りを見回す。
辺りには先ほどまで濃密に満ちていた圧迫感は残っていない。
ただ何人かがばたばたと走り回る慌しさが広い空間を支配していた。
彼女が起きたことに気づいたのか、中央近くに立っていたエリクがやって来る。
片手に二冊の本を抱えた男は、雫の前に立つとその本を床に置いた。
「気分はどう?」
「平気……です。ちょっとぼんやりするだけで」
「ならよかった。君は何処にでも飛び込んでいくから見てて寿命が縮む」
「す、すみません」
攻撃を受けた胸元を見ると、服には小さな丸い穴が開いていた。僅かに見える肌に傷がないことを確認して雫は目を伏せる。
「あの、魔女の人は……」
「死んだよ。書き換えも終わった。今は転移が使えるようになったから怪我人を外に出してるとこ」
エリクは彼女の隣に屈みこむと、「王妹にも連絡がついた。外は掃討戦らしいよ。あとは王を回収して終わり」と付け足した。
自然生まれる沈黙は、二冊の本へと集中して止まる。
「エリク、この本って」
「うん。処分しかないだろうね。誰かの手に渡っても不味いし」
「じゃあ今、燃やしちゃいますか?」
「そうしようか。持ち歩くのかさばる」
男は雫の目を覗き込む。彼女が黙って頷くと、重ねた本の上に手をかざした。構成が注がれ、二冊の本はゆっくりと燃え始める。
やがて本の形をした灰だけが残ると、エリクは雫に手を差し伸べた。
「立てる?」
「はい」
「転移門を開くよ。城に戻ろう」
優しい声。
すっかり耳に馴染んだ声に彼女は微苦笑を浮かべた。広間に視線を彷徨わせる。
「その前に……王様ってまだこの城にいるんですか? 本のことについて一応言っときたいんですけど」
「いるんじゃないかな。多分最上階だと思う」
「じゃあちょっと行ってきます」
雫がメアだけを連れ廊下に出ると、迷うことなくエリクもその隣に並んだ。
二人は手を取ると緩やかに曲がる通路を歩いていく。
「何だか終わってしまうと……不思議な感じですね。何処か空っぽになったみたいで」
「気が抜けたんだよ。体は疲れてるはずだ。帰ったらゆっくり寝た方がいい」
「起きたら筋肉痛になってそうです」
窓から見える外はもう昏くはない。晴れた青空を見て彼女は微笑んだ。
エリクは何かから解放されたかのような彼女の横顔を眺める。
「帰ったらそろそろファルサスの契約も終了だから。別の国に行こうか」
「あ! そう言えば南の海は澄んでいるって本当ですか? メアに聞いたんですけど」
「らしいね。僕は見たことない。見てみたいなら次は南の国にしよう」
柔らかな風が吹いた。肩の上で小鳥が囀る。雫は指を伸ばしてメアの背を撫でた。
ほどけてしまった黒髪が舞い上がり、その下のケープが露になる。
魔女の攻撃を受けた時に開いてしまった背の穴をエリクは無言で見つめた。彼女は手だけで乱れた髪を束ねて揃える。
「私の傷って、治してくれたのエリクですか?」
「うん」
「ありがとうございます」
やがて通路の向こうに階段が見えてきた。他に誰もいない廊下。雫は握ったままの手に力を込めると足を止めた。
振り返った男に向かって微笑む。

答は全て、彼女の中にあった。
知っていて思い出せなかった。
思い出してしまえば守れなくなるから。

「エリク……いつから気づいてたんですか? ―――― 私が外部者の呪具そのものだって」

だからもう、守ることは出来ないだろう。






魔女が打倒されたとの連絡は、戦闘中の軍を経由してメディアルの城内へも報告された。
歓声が沸き起こる会議室の中、オルティアは小さな息をつくと席を立つ。
張り詰めていた気を切り替える為、供を連れず廊下に出た女王を、だが一人の男が追ってきた。
男はオルティアが振り返ると深く頭を下げる。
「キスク女王陛下……いつぞやは、大変失礼を致しました」
「いつぞや? ああ、メディアルの宰相か」
そう言えば先日雫が姿を晦ました時に、ニケを派遣して男を締め上げさせたのだ。
シロンは冷ややかな女王の視線に青褪めながらも謝罪する。
「陛下の側近であった方とは知らず……盗まれた我が家の宝物の行方を知っているのではないかと思い、無体を働きました。
 何とお詫びのしようも御座いませぬ。ですがどうか、この責は私のみに……」
「もうよいわ。雫も無事であった。これ以上騒ぎ立てる気はない」
煩わしげにオルティアが扇を振ると、シロンは一層頭を低くした。その後頭部を見下ろした彼女は一抹の好奇心を覚えて問い返す。
「宝物とは何であったのだ? まだ見つかっておらぬのか」
「それが、魔女が持っていたのではないかという話で御座いましたが……もういいのです。
 歴史を語る不死の蛙など、どう考えても忌まわしいもので御座いましょう。以後、あれのことは忘れることに致します」
「不死の蛙?」
それは何処かで聞いた話だ。オルティアは琥珀色の目を丸くする。
―――― そう言えば、雫の描いた絵本に似た話があったのだ。
だが動物が喋る童話などこの世界には例がない。だからてっきり異世界の御伽噺なのだと思っていた。






二人の間を流れていく風。
その風に今までの凍えるような冷たさを感じさせないのは、さしこみ始めた陽光のせいだろうか。
エリクは静かな感情を湛える女を見つめて沈黙していたが、やがて抑揚のない声を紡ぐ。
「最初に気づいたのはメディアルで君の絵本を見た時。
 全ての歴史を知っている蛙って話を読んで……引っかかるものを感じた。
 はっきりと疑ったのは、君が雪に埋まっていたところを拾い上げられた時かな。
 外にいた時間を計算すると君が死んでなかったこと……そうでなくとも何の後遺症もなかったことはおかしい。
 君には何かあるんじゃないかと思い始めた時、レラからあの絵本がメディアルの話であることを聞いた」
「ええ。あの蛙が私の前身なんです。呪具の核で本体……三冊の本は外部記録で増幅装置ですね」
雫は長く伸びた髪を払った。
背中に開いた服の穴。
あの時アヴィエラの攻撃は、確かに彼女の心臓を射抜いたのだ。
けれど雫は死ななかった。傷を負っても血を流しても死ぬことはない。彼女は「不死の呪具」なのだから。
それを知っていて傷を塞いだ男は罅割れた溜息をつく。
「少し考えれば分かることだった。呪具が統一したのは『音声言語』だったんだから。記録が文字のみで残されているのは不自然だ」
何故、本には人間の作った文字で歴史が記録されていたのか。
答は一つ、それが呪具の全てではなかったからだ。
雫はほろ苦い微笑を浮かべ、肩を竦める。
「さすがですね……。呪具の本体は『語り手』なんです。
 三冊の本全てを読むことの出来る存在―――― 私がこの世界の言葉を話せるのも当然ですよね。
 私の中には呪具の核が眠っているんですから」
温かい胸に手をあて、彼女は目を閉じる。
自分ではない何かの存在。
それが確かに奥底に息づいていることを、今の雫は感じ取ることが出来ていた。
エリクは彼女の黒い睫毛が揺れるのを見て顔を顰める。
「君はいつ思い出したの? 最初から知っていた?」
「いいえ。ついさっき思い出したんです。魔女に精神操作をかけようとして―――― ああ私、この本を支配出来るんだなぁって。
 それに気づいたら全部思い出しました。何故私がこの世界に連れてこられたのかも全て……」

それは砂漠で起きた戦い。
盗み出された蛙は人の手を渡り、そうしてそこで「呪具の破壊者」に発見されたのだ。
大陸を観察する為の呪具とその干渉を退ける対抗者。
はじめから相容れぬ二つの存在は、熾烈な戦闘を繰り広げながら砂漠にまで行き着き、そして蛙はついにその場で「殺された」。
戦いの後、自身も大怪我を負った破壊者はすぐにその場を去ったが、蛙は死んでも呪具の核はまだかろうじて力を残していた。
結果核は、力を取り戻す為の休眠を得るべく宿主を求めて「穴」を開いたのである。

「どうやらこの世界の人間より異世界の人間の方が宿主として適してるらしいんですよ。
 こっちの世界の人間ですと下手したら魂に核が取り込まれてしまうみたいで……その点私なら魂構造が違いますから。
 核は私の記憶を操作して同化したことを忘れさせると、力を取り戻すため眠りについたんです」
世界を渡る穴の途中、冷たい力が自分の中に入ってきたことを雫は覚えている。
その時彼女は全てを理解したのだ。ただそれを忘れてしまっていただけで――――
「流行病が発生したのは戦闘で呪具の力が弱まった為か。
 逆に城で子供たちの言葉が戻ったのは、休眠で力が回復してきたから……あってる?」
「あってます。このまま行けばやがて私の体を出ても独自で動けるでしょうね。
 もっとも核は既に固着してしまってますから、引き剥がされたら私は死んじゃうかもしれませんけど」
「殺されることはないと思うよ。出たら破壊される可能性が高くなるし」
藍色の瞳が窓の外を見やる。
抱え込む感情全てを殺して静かな声が、長い廊下に響いた。
「人の寿命なんて呪具からすれば一瞬だ。このまま生きていくことだってきっと出来る」
可能性を示唆する言葉。
エリクは、最も早く全ての真実に到達していたのだろう。
知っていて、雫を庇った。
彼女が呪具そのものと知れれば殺されてしまうと考え、「本に精神操作されているだけ」と偽ったのだ。

どれ程彼が自分を大事にしてくれたのか。
全てを思い出せば、その一つ一つが見えてくる。
感謝しても全てを贖うことはきっと出来ないだろう。
雫は目を閉じて微笑んだ。繋いだ手を握り返す。

「気にすることはない。君は君で生きていればいいんだ。呪具も直接人に危害を及ぼすようなものじゃない。
 行動には制限を受けるだろうから元の世界には帰れないかもしれないけど……ここにも君の居場所はある」
伸ばされた手。
大きな掌が雫の髪を撫でて行く。
その温かさに泣き出しそうになって雫は唇を引き締めた。
あの日図書館で泣いていただけの彼女。
そんな偶然の出会いにもかかわらず、彼は決して雫を見捨てようとはしなかったのだ。
今この瞬間にあっても。―――― 自分の主義に反しても。
だから彼が言うなら雫はきっと、この世界でも生きていけるだろう。
国を渡り、何処か小さな町で穏やかな一生を送ることも出来るはずだ。彼女は束の間そんな未来を夢想する。

「本当に……ありがとうございます」
こんな言葉しか返せないことがもどかしい。
雫は握っていた手を離すと深く頭を下げた。顔を上げ、男を見つめる。
言葉はきっと不自由だ。伝えたいことが少ししか届かない。
それでも他に手段を知らないから、この言葉こそが二人を繋いできたのだから、雫はこれで十分満足だった。
彼女は肩に止まっていたメアに指を差し伸べると、その手を窓の外に向ける。
「ありがとう、メア」
雫の手から離れて窓枠にとまる小鳥。
小さく首を傾げるメアに微笑みかけると、彼女は一歩下がった。何も持たない両手を広げる。
「待て、雫……!」
彼女の意図を察してエリクが表情を変えた。広げた腕を取ろうと手を伸ばす。
けれど彼の手が触れるより一瞬早く、雫は何の構成もなく力を使うと、その場から忽然と姿を消したのである。