人の祈り 179

禁転載

かつて世界の言語は一つだった。
人が天に向かって塔を建てだし、神の怒りに触れるまでは。
神によって言葉を乱された結果がけれど人の自由であるならば、この大陸はいまだ箱庭のままであろう。
観察される小さな庭で、そこから誰も逃れられない。この欺瞞に気づき、それを拒絶しなければ――――



城の最上階に転移した雫は、崩れ落ちた壁から外の景色を眺める。
乾いて広がる大地。だが瘴気の晴れた空は青く澄んで、胸を打つほどに鮮やかだった。彼女は風になびく髪を押さえながら微笑む。
こちら側からは掃討戦を行っているという軍の様子は見えないが、きっと問題なく進んでいるのだろう。
現に見える空には魔物が一匹もいない。
雫は冷えてはいるが濁りのない空気を吸い込んだ。肺の奥が小さく痛む。
「何だお前、どうやって来たんだ」
背後からかかる声は彼女のよく知っている男のものだ。雫はほろ苦い目を伏せると振り返った。気だるそうな王の前に立つ。
「あれ、王様、怪我したんですか?」
「もう治した。シルファはレティのところに戻したけどな」
「戻したって。精霊いなかったらどうやって帰るんですか、王様。また階段下るんですか?」
「どうせレティが迎えに来るだろ。それまで景色でも眺めてるさ」
ラルスは崩れかけた玉座によりかかり嘯く。
城に入って以来別行動をしていた王が今まで何をしていたのかは知らないが、それは深い瓦礫の穴があいた最上階の惨状を見れば薄々察しがついた。雫は数階下まで続く穴を見下ろすと肩を竦める。
「じゃあそれまでの間、ちょっとお話があるんですけどいいですか?」
「何だ? 何かやらかしたか?」
いつでも揺るがなかった男。彼女を許さなかった王。
そんな彼だからこそ、雫も今向かい合うことが出来る。
それはきっとささやかな幸運だろう。彼女は青い瞳を見上げ、笑った。
「王様、実は私が呪具だったんですよ」



もしこの世界に来たばかりの頃に真実を知っていたなら、この結論に辿り着くことは出来なかっただろう。
泣いて、喚いて、混乱の中どうすることも出来ず蹲ったはずだ。
だが今、彼女は自分の足で立てている。
立って選ぶことが出来る。それが全てだ。

「……呪具? お前が?」
「はい。私、思い出したんです。私自身が三冊の本の元になる呪具だって……。
 私は呪具の揺りかごで、核を隠すため連れて来られた人間……今までそれを忘れていただけです。
 私の中には呪具の核が固着してるんですよ」
すぐには理解しがたいのか、王は眉根を寄せて雫を見下ろす。
決して優しくない視線に安堵しながら、しかし彼女は震えだしそうな声を抑えるのに必死だった。
どうして自分なのだろう。
どうしてこんな現実に行き着いたのだろう。
あの穴に出会わないままならきっと、平凡だけれど慎ましやかな一生が送れただろう。
魂を支配され、命をすり減らすような目には遭わなかったはずだ。
だが、それでも

「ならどうしたい? 呪具に取り込まれたお前は何を望む?」
「殺してください」

それでも、この世界に来てよかったと思う。



笑顔のままでいようと思った。
泣いてしまってはこの結末に負けるようで、それはしたくなかった。
ただ胸は熱く、視界は止められず溶け出して行く。
ここで全てと別れなければならないことが、どうしても悲しかった。

雫は微笑を浮かべて男を見上げる。
その黒い瞳から色のない涙が滴っていくのを見てラルスは顔を顰めた。だが彼は溜息を一つつくと王の顔になる。
「それでいいんだな?」
「はい」
不死にされた彼女は、魔女の力によっても死ななかった。
だが王剣であれば呪具を壊すことも出来るだろう。雫自身、時折核の怯えに同調してアカーシアを恐れていたのだから。
そして、永く続いた支配もこれで終わりだ。
大陸は言葉の制限から解き放たれ、人は奪われていた可能性を取り戻す。
ここから先は記されない歴史が紡がれていくだろう。いつの時代も足掻きながら苦しみながら、それでも前を見据えて。
人は人の尊厳によって干渉を拒絶する。その気高さを雫は今までの出会いの中で知ったのだ。
「混入された利便よりも不自由な自由を選ぶ」と、あの時彼も言っていたのだから。
呪具と一つになった彼女は、もはや普通の人間には戻れない。
死ぬことも出来ぬまま大陸を彷徨い、やがて『語り手』そのものになるだろう。
歴史を記録し、保持し、言葉を縛しながら意思なく語り継ぐ道具。
己の精神を明け渡して形骸となる―――― そんな未来は、選べなかった。



ラルスは姿勢を正すと王剣を抜く。それを彼女に向けてゆっくりと構えた。
沈痛さを退けた王の目が雫を見据える。
「王様」
「何だ?」
「私は、人間です」
それだけは譲れない誇りだ。
ラルスは彼女の言葉に固く頷く。
「ああ。お前は人間だ」
彼の答に満足して雫は笑った。
光を反射して輝く剣。王はそれを振り上げる。
最後の一瞬。
雫は小さく息を吐いて目を閉じた。



「雫!」
絶叫は、瓦礫の底から響いた。
城を上ってきたエリクは素早く詠唱すると、階上に向けて光の矢を打ち出す。
矢は剣を振り下ろそうとしていた王に向かって、凄まじい速度で肉薄した。
気づくのが遅れたラルスは、咄嗟に剣を引いて矢を防ごうとする。
だがそれはアカーシアに触れる寸前で弾け飛ぶと彼の手首にまで着弾した。
鈍い破裂音。
ラルスの手から離れたアカーシアが床の上で回転する。王は半ば抉れた右手を押さえて渋面になった。
「あいつ……」
「何をやっているの! エリク!」
怒声と共に現れたレウティシアは部下が兄を攻撃したと見ると、激昂して白い右手を上げた。
エリクの右耳にあった魔法具が砕け散り、彼の頬に血が飛び散る。
しかしそれでも男はレウティシアを顧みようとはしなかった。
彼の両眼はただ階上にいる雫だけを見つめる。その視線の先で、雫は滑ってきたアカーシアを身を屈めて拾い上げていた。
彼女は重い長剣を抱えて後ずさると、壁に開いた穴を背にして立つ。
少し困ったような微苦笑。
長い剣の半ばを両手で支えると―――― 雫はその切っ先を、自分の胸に向けた。
黒い両眼が消えない感情を湛えてエリクを見返す。
「やめろ!」
魔力はない。
だが、代わりになるものはある。
彼は瞬時に決断すると詠唱を始めた。自分の魂を力に変換する禁呪。それに気づいたレウティシアが顔色を変える。


いつでも、何処にでも、可能性は残っている。
それを選び取るのは人の意志だ。
何かを貴いと思う心。


「やめなさい、馬鹿!」
無効化される禁呪。
跳ね返る声。
雫は一度まばたきする。
分かたれた距離。
エリクは瓦礫の坂を駆け上がった。


笑って
困って
本当に
楽しかったと
嬉しかったと


呪具を破壊する剣、鏡の両刃が、女の手によりその胸に食い込む。
魔女の拒絶をなぞるように
彼の嘘を辿るように
剣は雫の胸に刺さり、その半ばで抜き去られた。
滴り落ちる血。
焼け爛れた手がアカーシアを投げる。
伸ばされた男の腕。
そのすぐ前で、彼女は微笑んだ。
「雫……っ!」
手は届かない。
そして女は、床を蹴って空に跳んだ。


ああ
ずっと
一緒にいてくれてありがとう。






落ちていく体。
血が流れ落ちる傷口の奥で、修復を試みようと何かが蠢く。
その蠕動を感じながら雫は浅い息をついた。広がる空を眺める。
どれほど呪具が宿主を保とうとも、このまま地上に叩きつけられれば共に壊れるしかないだろう。
人を侮った道具は人の手によって敗北するのだ。彼女は晴れやかな気持ちで目を細める。
吹き付ける風。
荒涼とした大地。
最後に見える景色は雄大で清冽で、例えようもなく美しい。
この世界が、人の軌跡が、今この瞬間にあってたまらなく愛しかった。
だから笑って踏み出せる。
最後の息をして目を伏せる。
空は何処までも澄み切っていた。
遠ざかる天を仰いで、雫は緩やかに両目を閉ざす。
狭まっていく視界。
薄らいでいく世界の隅で―――― 砂漠で見たあの大きな影が羽ばたいた、気がした。