おわりの言葉 180

禁転載

『はじめまして。私は水瀬雫です。―――― あなたは?』



とても長い夢を、見ていた気がする。
目を覚ました時彼女が思ったのは、そんなことだった。重い腕を上げて天井にかざしてみる。
爪を短く切り込んだ小さな手。
十九年間見続けた手を見上げて彼女は何度かまばたきした。寝台に肘をついて体を起こす。
見覚えのある広い部屋。前に一度だけ、この部屋で目を覚ましたことがある。
あれはいつのことだったろうか。
彼女は随分前に思える記憶を探って頭を振った。
若草色の天井。広い部屋に置かれた家具は品のよいものである。彼女は窓の外を確かめようと首を伸ばした。
その時、部屋の扉が開く。
扉を開けて顔を覗かせたのは彼女がよく知る女性だった。首を傾げてその名を呼ぶ。
「ユーラ?」
「ネア ヴィヴィア!」
女は彼女が起きていることに驚いたのか、抱えていた水瓶を落としてしまった。
だがそれにも構わず駆けてくると彼女の首に抱きつく。
耳元で聞こえる嗚咽。途切れ途切れに呟かれる言葉。
心配していたのだと、深く伝わってくるその言葉を聞いて、しかし雫は声にならない嘆息を洩らした。

分かっていたことだ。
それでも今、淋しくて仕方ない。
―――― もう自分には、彼らの言葉が分からないのだということが。



黙って泣き出した雫を、ユーラは立ち上がると困惑した目で見やった。
何度か言葉をかけ、それでも収まらないと分かると身振りで「待っていて欲しい」と示す。
そのまま彼女は水瓶を拾い上げると部屋から駆け出していった。しばらくして扉が叩かれ、別の人間が姿を現す。
魔法着を着た藍色の目の男。
この世界においてもっとも長く彼女と共にいた男は、穏やかに沈んだ目で雫を見つめた。
彼女は男の名を滲む声に乗せる。
「……エリク」
「ヴィヴィア」
聞き覚えのない単語。
雫がその響きに顔を歪めるとエリクは顔を傾けた。記憶を探る目でしばし考え込むと、彼女の側に歩み寄る。
「シズク」
それだけの言葉。
けれど彼女は、その言葉に目を見開くとじっと男を見つめた。零れ落ちる涙を拭いもせず呟く。
「……覚えて、いて、くれたんですね。私の名前……」
それ以上は続かない。
何も言えない。
エリクは真面目な顔のまま彼女の隣に座った。小さな額を長い指が叩く。



たとえ言葉が通じなくとも。
何も分からなくとも。
それでも、この温かさは変わりない。
失われなかったのだ。
失ってしまわなかった繋がり。
それはまだ彼女の手に残ってくれた。彼女を待っていてくれた。
安堵が波のように押し寄せる。堪えていたものが溢れてくる。
雫は殺していた声を上げると泣きながらエリクに抱きついた。
「ご、ごめんなさい……」
そのまま子供のように顔を埋めて肩を震わせる女に―――― 男は微苦笑すると、黙ってその頭を撫でたのである。






『ヴィヴィアって何ですか?』
それは紙とペンを与えられた雫が真っ先に、英語と共通文字交じりの文でエリクに聞いたことだ。
何故それを聞いたかは、目を覚ました彼女に会いに来た皆がその単語を口にしていたからだが、エリクから得られた答は半ば予想していたものだった。彼は紙の隅に漢字で一文字『雫』と書く。
おそらく「ヴィヴィア」とはこの世界の単語で「水滴」を意味する言葉なのだろう。
初対面の時にエリクに「水瀬雫」と名乗った彼女は、変わった名前だと言われて「水滴の雫」と説明しなおしたのだ。
思えばその時から彼女はずっと「ヴィヴィア」と呼ばれていたに違いない。彼女の耳にそれが「雫」と聞こえていただけで。
だがエリクは、初めの時にだけ名乗った彼女の名を忘れてはいなかった。
「シズク」と呼ばれる響きが無性にくすぐったく感じられて、彼女は目を伏せて微笑む。



あと知りたいことは、どうやって助かったかだ。
言葉が分からないということはもう呪具はないのだろう。現に意識を集中させても自分の中に気配が感じ取れない。
雫は英文を必死で組み立てて、どう尋ねようかと悩み始めた。しかし四苦八苦する彼女の横からエリクが一枚のメモを差し出す。
英語で書かれた一文だけの短い文章。
その意味を理解した彼女は目を丸くしてしまった。思わず顔を上げ、彼を見返す。
長い旅の終りを指す言葉。
そこには―――― 『元の世界に帰れるよ』と書かれていたのである。



筆談によって雫が事情を理解するまでにはかなりの時間がかかった。
元々が複雑な話なのだ。その上お互い意味の分からない単語などがあったりするとどうしても置き換えに時間がかかってしまう。
しかし何とか話が飲み込めた雫が結果として理解したことは、彼女はあの後「呪具の破壊者」に助けられたのだということである。
外部者の呪具と並んで彼らが探していた、対抗呪具の使い手。
魔女の騒動を知ってヘルギニスの地に現れた彼らは、城から飛び降りた雫を見かけて受け止めると、その力によって呪具だけを破壊した。
それだけではなく彼らの力を使えば、呪具の核が開けたと同じ「穴」を元の世界に向けて開くことも出来るのだという。
驚きに目を丸くする雫に、エリクは苦笑して付け足す。
『ただし、少し時間がかかりそうだ』と。

「逸脱者」と呼ぶらしい対抗呪具の使い手は本来男女一人ずつ存在している。
だが、二人のうち主に魔法構成に長けた女性の方がまだ自分の力に覚醒していないというのだ。
自然「穴」を開けるとしたらもう一人の男性に頼らざるを得なくなるが、彼は剣士であり魔法構成が苦手らしい。
能力的に世界を渡る力は持っていても「穴の開き方なんて分からない」というのが正直なところなのだそうだ。
男はその為「女性の覚醒を待った方が確実だ」と言ったのだが、それには何年かかるか分からない。
そこで話し合いの結果、かつての「逸脱者」が残した構成手記を頼りに、レウティシアとエリクが男の力を元にして穴を開ける為の構成を作ることになったのである。

「何か……大変そうですね。すみません」
雫の感想は日本語でのものだったが、エリクには大体の意味合いが伝わったらしい。気にするな、というように頭を撫でられた。
彼が立ち上がると同時に、扉が開いて新たな人間が部屋に入ってくる。
何処かで見たことがあるような長身の男と彼の影に隠れている少女。
その少女の顔を見て、雫は思わず「あ!」と叫び声を上げた。
「花嫁衣裳作ってた美人さんだ!」
いつか小さな村で見かけた少女。そう言えばあの時エリクは彼女を指して「強力な魔法士だ」と言っていたのだ。
つまりは彼女が覚醒していない逸脱者の女性なのだろう。男の影から雫を見ていた少女は彼女の声に吃驚したらしく飛び上がった。
雫は慌てて非礼を詫びながら立ち上がると、肩に小さなドラゴンを乗せた男を見上げる。
砂漠の上を飛んでいたドラゴン。
大きさは違うが、この紅いドラゴンがあの時のドラゴンと同じ個体に違いない。呪具からの記憶を得た雫にはそれが分かる。
長身の男は身を屈めると彼女の頭を叩いて何かを口にした。戸惑う雫がエリクを見やると、彼は手振りで『謝ってるよ』と教えてくれる。
雫がこの世界に来る切っ掛けとなった戦い。
そこで呪具を相手に力を揮った男を、彼女は目を瞠って見つめる。
何を言えばいいのか。何から言えばいいのか。
分からないまま彼女はかぶりを振ると、困ったように微笑んだ。
「あの私……この世界に来て色々ありましたけど、後悔はしてません。むしろ来てよかったって思います」
偶然が左右した彼女の道筋。
だがあの時あの穴に出会わなかったら、初めからこの世界の人間たちに出会うこともなかったのだ。
決して優しいだけの道のりではなかった。痛い目にも苦しい目にも遭ってきた。
ただそれでも、今この時に辿りつけてよかったと、思う。
この世界を旅したからこそ雫は多くのことを学んだ。
人に出会い、その複雑さを知り、そして自分を知ることが出来たのだ。そこに後悔は一片もない。
「それよりも助けてくださってありがとうございます。本当に……ありがとうございます」
雫は深々と頭を下げると、紙にお礼の言葉を書き綴った。
共通文字で書かれた単純な文章は、全てとは言わなくとも謝意を伝えることは出来たらしい。男は苦笑して雫の頭をくしゃくしゃと撫でる。



二人が出て行ってしまうと、エリクもまた『休むといいよ』と書き記して部屋を出て行った。
入れ違いに戻ってきたメアが、食欲のない雫の為に切り分けた果物を皿に並べる。
それを手に取りながら「ありがとう」と言った雫は、意味が分からないらしいメアが怪訝そうな顔をするのを見て胸が痛くなった。
当たり前の挨拶さえ、今はもう通じないのだ。その現実に思わず鈍痛を覚える。
だがそれでも彼女は、読み書きも得意ではない使い魔に伝える為にっこりと笑って見せた。デウゴを手に取りながら嘆息する。
「こっちの発音も覚えないとね」
思わずそう呟いた雫は、けれどあることに気づいて沈黙した。
―――― もうすぐ自分は元の世界に帰れるかもしれないのだ。
そうなれば、この世界の言葉など使うことはない。
少々面倒ではあるが簡単な筆談が出来る現状、わざわざ覚える必要もないだろう。
「帰れるんだ……」
まだそれは、実感の沸かない事実だ。雫は自分の両手をじっと見下ろす。
その晩彼女は久しぶりに自分の携帯電話を取り出すと、保存されていたメールを一通一通読み返してみたのだった。