盲目の魚 01

禁転載

華やかな空間。
大きな広間には色とりどりのドレスが溢れ、軽い笑声と緩やかな音楽が共に響いている。
すっかり日の落ちた窓の外からは夜の闇が影となって忍び込み、曲にあわせて踊る人間たちをまるで夜の海を行く回遊魚のように見せていた。 潜められた声、交わされる会話が波の如くざわめいて打ち寄せる。
虚飾の宴―――― そうとしか言いようのない各国の王族、要人たちばかりが集まる式典の中を、女は冷めた目を泳がせながら歩いていた。黒い絹のドレスを引いて溜息を噛み殺す。
「飽いた」
彼女の呟きに、側につく男は答えない。どのような相槌も望まれていないことは明らかだからだ。
ただ彼は黙って計算をする。
諸国との接触は充分だったろうか、帰城の準備は整っているだろうか、その他主君を煩わせない為の様々なことを。
女は長い睫を揺らし、琥珀色の双眸で揺れ動く人の動きを眺めた。気だるげな視線が鮮やかな赤のドレスとその隣に立つ男を捉える。
お互い隣国同士の王であり、また大陸に四つしかない大国の王でもありながら、この式典にて一度も彼女と会話を交わしていない男。
もっとも会話をしたくない相手の横顔に嫌そうな視線を投げかけると、女は不意に踵を返した。
「もう充分であろう。帰る」
「かしこまりました」
式典の類が嫌いな彼女としては思いのほか長く広間にいて諸国との対応に務めたのだ。
既に当初の目的は果たされている。ここで帰ってもさして問題はないだろう。男は部下に帰城の手配を確認した。
その間彼女は人のいない窓際に寄ると、壁に体をもたれさせ窓の外を眺む。
扇は持ってきていない為、欠伸を噛むことも出来ない。
代わりに小さく溜息をついた彼女の肩に、けれどその時男の手が置かれた。
低い声が頭上から降ってくる。
「何だ、もう帰るのかオルティア。まだ早いだろ」
「…………遅すぎたと、今思った」
顔をあわせたくなかった一番の相手に捕まってしまった。オルティアは頭痛を覚えてこめかみを押さえる。
だが彼女の疲れ果てた表情とは逆に、ラルスは悪童のような笑いを浮かべると「気を使うのに疲れたから少し俺に付き合え」と相変わらず非常識極まりない発言をして、オルティアの血管を浮き上がらせたのだった。



「疲れたのなら帰れ。妾に構うな」
「そう言うな。冷血で知られているお前と違って、俺には付き合いがある」
「……」
信じられないことではあるが、彼女の目の前にいるこの男は大陸においては「寛大な王」で通っているのだ。
「寛大」というより「変態」だろうとオルティアなどは思うのだが、この事実を知らない人間も存外多い。
それは男の外面のよさと王としての才覚ゆえだろうが、本性を知っている方としてはたまったものではないだろう。
彼女はあからさまに嫌な顔になると背の高い男を睨んだ。
「お前と話をしていると妾が疲れる。さっさと王妃候補の中にでも戻れ」
半年後には二十九歳になる彼は、この年齢の王族としては異例なことに妃がおらず、子供もいない。
末端の王族ならば独身主義も個人の自由として済まされるだろうが、彼は大国の王であり、彼の国には王位継承権を持つ王族が他に妹の一人だけしかいないのだ。したがってこのような場では大国の妃に納まろうと野心と期待に溢れた娘が集まり、彼の周囲はまたたくまに鮮やかな色の花々が咲く。
それを「疲れる」などと言うのは自業自得以外の何ものでもないだろう。
呆れた目で男を追い払うようにオルティアは手を振った。
「帰れ。一番野心家の娘でも選べ」
「王妃か。妃を置くのは面倒なんだがな」
「面倒が嫌なら死ねばいい。生きていること自体面倒であろう」
「まったくだ。子供の頃は毎日同じことを考えていた」
さらりと返された言葉。
その意味を遅れて理解したオルティアは軽く瞠目する。
だが虚を突かれた彼女とは対照的に、男は普段と変わらぬ人を食った表情で広間を見回しているだけだった。
真意の読めない瞳が再び彼女の上で止まる。
「人のことより自分のことを心配した方がいいぞ? 流血女王の隣に座したい男がいるかどうかを」
「妾に勝手な渾名をつけるな。お前に心配されずとも権力の座を望む人間はいくらでもいる」
「そしてそういう男の大多数が無能なわけだな」
間髪おかない返しにオルティアは不快を表情に出してしまった。
肯定したくはないが、事実はまったくその通りなのだ。
今まで彼女の夫になろうと近づいてきた人間たちは皆、甘やかされた貴族の子弟ばかりでろくな人材がいなかった。
女王を踏み台にしてのし上がろうという気概さえも利用する気でいたオルティアは、品定めの結果「何もせずに権力の蜜を味わいたい」というだけの男たちばかりを見出して、失望と落胆を余儀なくされたのである。
「多少は割り切るしかないと思うぞー。人には誰しも長短がある。耳を自由に動かせるとかな」
「もっともらしいことと腹立たしいことを混ぜるな。お前が言うても説得力がないわ」
「出来るだけ無能な夫を迎えて国を傾ければいい。あとは俺が何とかしてやる」
「奇遇だな。妾も同じことを思っていた」
刺々しい会話は艶のある黒いドレスを滑って行き、耳をそばだてる周囲には届かぬまま消えていく。
この男が隣にいる以上、側近である男も「帰りの支度が出来た」とは言い出せないだろう。
オルティアはこれ以上何の利益も得られないと判断すると、手袋に包まれた片手を上げた。顔の前でひらひらと振ってみせる。
「ともかく、疲れたのならば国に帰れ。妾ももう帰る」
「つまんないぞ」
「戯言は妹に言え」
肉親でもないのにこの男の気まぐれには付き合えない。
そう思って彼の前をすり抜けかけた時、だがオルティアは上げたままの手を掴まれぎょっとした。
無礼を非難しようとした時、秀麗な男の顔が近づく。
「ならばもっと実務的な話をしようか、オルティア。お前が悪くないと思うような話を」
「……何だと? 何の話だ」
そのような話があるならばさっさと言えと、目線で促す女に彼は人の悪い笑みを見せる。
人の運命を変えていく強者の目。性格の悪さがありありと分かる笑いにオルティアは反射的に顔を顰めた。
「簡単なことだ。損はさせない。
 次期ファルサス国王―――― つまり俺の子を、産む気はないか、オルティア」






女王になってから一年余り。
これ程までに迷ったことはついぞなかった気もする。オルティアは真剣にいくつかの選択肢を頭の中で比較した。
すなわち「狂ったか」と冷静に指摘するべきか、「馬鹿か?」と憐れむべきか、「死ね」と率直に伝えるか、返答をどれにするかを。
だが結局口にした答はどれでもなかった。彼女は冷ややか、というより脱力した視線を男に向ける。
「それで妾に何の得がある。ファルサスでもくれる気か?」
「俺の育て方が及ばなければ将来そうなるかもな。お前が母親だということを伏せるつもりはない」
正気とは思えない提案。
だがラルスが言うのは要するに「お互い婚姻を結ばぬまま血だけを混ぜよう」ということだろう。
この男と結婚する気などさらさらないオルティアはその提案の前半部分だけには激しく賛同できるが、後半はまったく理解しがたい。
半眼になると男をねめつけた。
「キスクを乗っ取ろうとでもいうわけか? 妾の血を継いでいるという理由で」
「いや? キスクの継承権は生まれた時に放棄させる。
 お前自身を縛る気もない。子が生まれたら好きな男を見繕って玉座に迎え入れればいいさ。
 報酬が欲しいというならくれてやるぞ? 直轄地の鉱山を返してやろうか。他に支払ってもいい。
 一から王妃を迎え入れることに比べればたいしたことではないからな」
実務的な話、というだけあっていささか現実味を帯びた提案に彼女は眉を寄せる。
子を産むということは九ヶ月弱身体的に不便になることや出産時の危険性などはあるが、それに対し正当な報酬を支払う気があるというのなら、判断の焦点は別のところに移るだろう。
次期ファルサス王に自分の血が入るということは決して悪いことではない。むしろファルサスとの関係を安定させるには単純かつ明快な手段だ。 子供が王になった時、愚鈍であったならば母として圧力をかけ優位に動くことも出来る。
そうでなくとも一年程前の敗戦でキスクからはファルサスへの不可侵が約定されたのだ。
逆にファルサスからの干渉は制限されていない以上、その可能性を上手く抑えられるとしたらそれにこしたことはない。
オルティアは放された手を顎にかけると考え込んだ。
思考を一時停止させると、隣の男を見上げる。
「それで? お前には何の得がある」
キスクの王位継承権を放棄させる気があるのなら、何が狙いなのか。
まさか母としての慈悲を期待されているのではないだろうなと眉を寄せ掛けた女に、男は少しだけ傾いた微笑を見せた。
蒼い両眼が不透明な膜を下ろして広間を振り返る。
「ここにいるどの女よりもお前は王族として有能だ。
 そして俺が俺の子の母親に求めるものはそれだけ。他はどうでもいい。
 損はさせないぞ、オルティア。この取引を飲んでみるか?」
余裕を崩さない態度。
王妃を娶るのが面倒だと言って憚らない男は、相手が立場的に妻にはなり得ない人間でも充分なのだろう。
最初からそのようなものは求めていない。悪評も関係がない。求めるのは血の優秀さだけ。
そして大陸中の王族たちの中でもっとも有能な女だと言外に言われたオルティアは―――― 自分でも意外なことに、それが不快ではなかった。 しばしの沈黙を経ると、探る目で男の双眸を覗き込む。
「そうだな……途中、妾自身の命に関わるようなことになれば、遠慮なく堕胎させてもらう。それでも構わぬか?」
「んー。ファルサスとしても手を尽くすが、どうしても無理なことになったら仕方ないだろうな。分かった」
「ならばその条件で飲んでやる」



一月ほど前、彼女の友人であり臣下でもあった女が結婚した。
それを聞いた時オルティアは、心から相手の幸福を喜んだが、同時に自分には同じ幸福は一生訪れないだろうとも感じたのだ。
打算と野心、誰よりもそれに基づいて思考を巡らせているのは彼女自身だ。
とてもではないが感情を優先して夫を選ぶ気にはなれない。
そして今現在彼女により及第点を与えられる相手が見つかっていない以上、少しの寄り道をしてみても面白いだろう。
上手くすれば将来的な国の利益に繋がるかもしれないのだ。彼女は嫣然と笑って差し伸べられた男の手を取る。
「まずは契約を書面に起こしてもらう。後から話を違えられてはかなわぬからな」
「言うと思った。用意しよう」
退廃の空気さえ漂う広間。
そこに咲き誇る鮮やかな花々は、ただ一人選ばれた黒衣の女に困惑の視線を送る。
忌まわしいものを見るような畏れの目。血なまぐさい評判で知られる女王を何故「彼」が選んだのかと。
けれどオルティアは、自分こそが己の道を選んだのだという自負を持って、傲然とその視線を受け止める。
その琥珀色の瞳には目の前に立つ男ではなく、ただ自国とその先のみが映っていたのだ。