盲目の魚 02

禁転載

まだ彼女が玉座になかった頃。身重の女を一人、擁していたことがある。
会う度に腹の大きくなっていくその様を当時は感心して見ていたものだが、あの頃はまさか自分が子を産むようになるとは思ってもみなかった。
一生誰とも添うつもりはなかったのだ。自分が代わりのない王として王冠を抱くまでは。
それが今、軍を戦わせたこともある相手の子を孕もうというのだから、人の道行きとは先の読めないものだろう。
ましてや生まれるであろう子は、かつて彼女が匿っていた女―― 臣下の一人が殺してしまった女の息子と、同じ血脈を継ぐ子になるのだ。
これを皮肉と言わずに何と言えばいいのか。まるでいびつに絡み合った利害と情念。
―――― だが、この奇怪さこそが己の生きる世界と、彼女は知っている。



「来る時はあらかじめ連絡するのだぞ」
自室の応接室に描かれた転移陣。円形の複雑な紋様は同様にファルサスの王の部屋へと通じているらしい。
王が借り出してきた精霊がそれを描く間、初めて見る上位魔族を興味津々の目で眺めていたオルティアは、陣が出来上がると部屋の隅にいる男にそっけない声をかけた。オルティアが趣味で集めている置物の一つ、あやしげな瓶詰めの人形を手に取っていたラルスは顔を上げると目を丸くする。
「何で。面倒」
「お前の顔を見るだけで疲労する。余力がない時には来るな」
「来てから断れ。そうしたらキスクの城で遊んで帰るから」
「妾の城で遊ぶな!」
以前壁に落書きをされた記憶が嫌でも甦る。
あのようなことをあちこちでされたなら、どうあがいても城内に混乱が渦巻いてしまうだろう。王の奇行に慣れているファルサスとは違うのだ。
第一男との契約は彼女の独断であり、城の中でも末端の人間はまだほとんど知らない。
彼女つきの女官たちが突然の来客に驚いていたくらいだ。余計な場所まで出歩かないで欲しいのは確かだった。
ラルスはオルティアの部屋にところ狭しと置かれている奇妙な収集品が気になって仕方ないのか、一つ一つに顔を寄せて覗き込んでいる。
それを注意するのも面倒なので彼女は男を放って寝室に戻ると、女官に手伝わせてドレスを脱ぎ、そのまま浴室に入った。
広い円形の浴槽。淡い色の花弁が一面に浮かべられたお湯は甘い香を漂わせている。
好きではない外交で疲労した体は、微温湯に浸かればそのまま眠りの中に落ちてしまいそうだった。
視界中に広がる湯気。
女官たちが己の細い手足を洗っていく光景をオルティアは気だるげに眺める。
普段はあまり感じない体の重さに、矢張り男を伴って帰るのは明日以降にすればよかったかと、後悔が一瞬頭をよぎった。
しかし日を置いて馬鹿馬鹿しさに嫌気を覚え始めるよりは、さっさと関係に踏み切った方がいいだろう。
あの男は悉く彼女の神経を逆撫でしてくるのだ。かつて臣下であった女が「殴りたくなるんですよ」と言うのもよく分かる程に。
オルティアは細い肢体を磨き上げられると、髪を女官に任せて浴槽に半身を浸す。
「ファルサス直系か……」
普通ならば男は女の産んだ子が真実自分の子か確かめる手段がないものだが、あの男だけは違う。
彼は、生まれたばかりの子供がファルサスの血を色濃く継ぐ子かどうか判るのだ。
そしてだからこそこのように突飛もない契約にも踏み切れるのだろう。
オルティアは今まで男を寝室に招いたことはないが、仮に恋人がいたとしても違う男の子ならばラルスはそれを見破ることが出来る。
女に愛情も誠実も求めていない男は、真実自分の子が手に入ればそれで充分満足なのだ。
「大した性格だ。もっとも……妾も人のことは言えぬがな」
愛情だけで生きていけると豪語する人間は幸福だろう。煩わしいものを意識に入れないというその性向がゆえに。
だが、少なくとも彼女はそういった煩わしさから目を逸らせない。
国を支える女王として、誰よりもそれらに向き合わなくてはならない立場にあるのだ。
そこに余分な淀みは必要ない。優先されるのは公人としての自分だけである。



オルティアは意識が疲労の為鈍重になってきていることを自覚すると、浴槽をあがり体から水を切らせた。
長い髪を簡単に乾かすと、幾分かの湿り気を残したまま寝室に戻る。
そこで待っていた男は長い足を組んで椅子に腰掛け、彼女の読みかけの本を手に取っていた。
かつて大陸東部にあった大国の歴史を記した一冊。栞が挟まれていた箇所に目を通していたラルスは、オルティアの気配に気づくと顔を上げる。
ファルサス王族の多くが持つ青い瞳が彼女の小さな貌に向けられた。
「俺も入ってきた方がいいか?」
「構わぬ。眠い。好きに扱え」
差し伸べた手は真実自分のものでありながら人形の腕にも見える。オルティアは無関心な目をその指先に注いだ。
何も生み出さぬ手でありながら、何かを生もうとする空虚。
立ち上がった男は彼女の手を取り、細い躰を恭しく抱き上げる。
どちらもが何も言わない。
分かりきったことに言葉は不要だ。慈悲や愛情その他何もかも。
とても眠い。
オルティアは男の腕の中、目を閉じる。
そのか細い体をラルスは欺瞞であることを感じさせないほど丁寧に寝台へと運ぶと、目を開けない女に囁いた。大きな手が彼女の顎にかかる。
「手荒にはしないが、多少は我慢しろよ」
「既に充分我慢している」
それきりオルティアは口を噤むと、黙って男に抱かれた。



夢を見た。
水の中にいる夢。
彼女は深い海の底で何も考えずに漂っている。
見上げた視界に広がるのは鮮やかな色の魚たち。そして空にも似た青。
澄んで静かな世界を魚はゆるりと泳ぎ回っている。

水を出て生きていけないのは不便だ―――― 彼女は思う。
だが、どうせ外に出られても窮屈なのは同じであろう。何処もかしこも不便。命を持って生きている限り。
だから彼女は目を閉じる。暗い海の底へと体を横たえる。
そうしてまた深く眠ってしまった彼女の髪を、誰かの指がそっと梳いていったような気がした。



オルティアが重い眠りから目覚めた時、既に男の姿は何処にもなかった。
転移陣を使って帰ったのだろう。彼女は鈍い痛みと違和感の残る体を引きずって浴室に向かうと、そこで血と汗を流す。
今日は早くから会議が入っている。いつまでも倦怠感を体に纏わりつかせていては執務に滞りが出かねない。
何度も欠伸をしながら彼女は部屋に戻ると、女官を呼び出して女王の略装を纏った。
しかし、そのまま執務室に出向こうとしたところで年老いた女官に呼び止められる。
「さしでがましいようですが陛下、ご朝食を召し上がられてくださいませ」
「要らぬ」
「お体に障ります。御懐妊される為には日々のお食事からしてきちんとなさって頂かなければ」
「…………」
頭の中に「面倒」という言葉がよぎったのは気のせいではないだろう。
だがオルティアはその単語を飲み込むと朝食を持ってこさせた。思ったままを口にしてはしょっちゅう「面倒」とぼやいている男と同類になってしまうような気がしたのだ。
根菜のスープを口に運びながら女王は先ほどの女官に問う。
「子を孕むまでは大体どれくらいかかる?」
「人それぞれでございましょう。一夜のことで身篭られる方もおりますし、数年連れ添っても子に恵まれない夫婦もおります」
「数年か……」
いくら彼女が若くとも、それ程まであの男に付き合うのは御免である。
契約書に期限の項目をつけ足すべきかオルティアは迷ったが、あまりにも子供が出来なければ向こうも諦めて別の女を選ぶだろう。
王家の血は偶然と執念によって今まで受け継がれていた。
そしてその先端に生まれた彼らもまた、同じように捩れた思惑によって次代を生み出すという、ただそれだけの話なのである。






寝台の上に広げられた書類は現在調整中の転移陣の配備についてのものである。
オルティアはかつて即位時の公約として諸侯に「余剰資源を各領地間で流通させる為の体制の確立」を掲げていたが、それが国内のあちこちに配備された転移網を使用して実現されると、今度は資源移送に限らない国内長距離間の移動、また国内外の出入りを、今より円滑に出来ないかと調整し始めたのだ。国内での移動のほとんどを転移陣に拠っているのは魔法大国ファルサスが既にそうだが、その他の国はまだそこまでは整備されていない。 だがこれを上手く実現させられれば、一般の流通にかかる日数も今より格段に短くなることは明らかだ。
広い寝台に寝そべるオルティアは、地図上の転移陣管理局の分布を目を細めて見やる。
その時後ろから男の手が伸びてきて書類の一枚を取り上げた。
「残務か? 手伝ってやろうか」
「お前……! 勝手に何を見ている!」
「転移陣の配備か。要所には既に置かれているだろうから、街道が届いていないところから逆に集中させてくといいぞ」
「余計なお世話だ!」
言いながら飛び起きると、彼女は男の手から書類をひったくる。
そのまま他の書類もかき集めると纏めて筒状の書類入れに突っ込んだ。
ラルスはそれを楽しそうに見やる。
「遠慮せずとも見てやろうというのに。転移陣で地図上に文字を書いてやろうか」
「自分の国でやれ」
そんな理由で配置を決められては大変なことになる。
転移陣を置くには場所の確保や魔法士の手配の他に、定期的な調整や通行者の審査体制など多くの手配が絡んでくるのだ。
特に城都へ転移できる転移陣は不審者を審査で弾く為、管理局に更なる人手が必要となる。無駄な場所に置くことは何としても避けたかった。
だからこそ悩んでいるのに他人事も甚だしい。事実他人事なのだがオルティアは氷の視線で男を見上げる。
「妾はお前のせいで規則的な生活をさせられる羽目になっている。これ以上煩わしいことを増やすな」
「健康を重視しているのか? 走りこみでもするか」
「……お前は矢張り馬鹿だろう」
身篭りやすいよう生活を変えているというのに何故走りこみになるのか。
雫と違ってまったく持久力がない女は男に白眼を向けた。だがラルスは軽く笑うとオルティアの髪を引く。
本気なのか違うのか、表情だけでは分からない。この男には何を言っても仕方ないのだ。
決して長くはない付き合いでもそのことをよく知っているオルティアは、自分を絡め取る腕に舌打ちするとそのまま身を任せる。
そしてそれは彼女をまるで、深い海の底にいるような息の出来ない忘我へと引きずり込んでいくのだ。






「聞こうと思って忘れていたが、母体は魔法士でなくていいのか?」
ぼんやりとした女の問いにラルスは手を止めた。オルティアの髪を弄っていた指を引く。
それまで何が面白いのか彼は、寝台の上に広がる髪を綺麗に梳いて広げていたのだ。
止めるのも煩わしく好きにさせていた彼女は、しなやかな肢体を起こして伸びをした。
城の奥深くで育てられた線の細い躰を男は見上げる。
「構わない。ファルサス王家の魔力とは、所詮本分ではないからな。どうせ足掻いてもいずれ薄れる。
 それを留めようと血族婚を繰り返したことこそが愚かだ。結果こんなになってしまったんだからな」
「お前のような馬鹿が生まれたことか」
「当たらずとも遠からず」
怒るわけでも笑うわけでもなく、彼は平然と返すと寝台の下に視線を送った。
そこには脱ぎ捨てられた衣服と共に、一振りの剣が置かれている。
ラルスは鞘に入ったままの長剣を目で示すとオルティアの腰を抱いて引き寄せた。
「だからあれさえあればいいのさ。今のところは」
王剣への言及。
男のその言い様は、単なる説明には収まらない含みを彼女に感じさせた。オルティアは形のよい眉を軽く上げる。
「いずれはあれも不要になると?」
「不要になる前にきっと血が絶える」
投げやりとも言えない、ただの声。
それは普段飄々としている彼のものとしては意外なことに、「そうなればいい」との希望が入り混じっているように聞こえた。
オルティアは琥珀色の目を瞠り男の目を注視する。



子供が欲しいと言いながら、王家の血を継いでいく立場でありながら、その血の断絶を望んでいる。
まるで分裂した思考、姿勢、その諦観。
個人としての、そして王としての、融けあわない虚しさ。
その矛盾を理解しがたいと思うより先に―――― だがオルティアは、男の望みに共感を覚えてしまった。
それに気づくと彼女は顔を顰める。



「絶えるならば今、絶えろ。妾を巻き込むな」
「俺の代では絶やさないぞ。思い切り巻き込むからそのつもりでいろ」
「なら報酬は存分に支払え」
「分かっている」
ラルスはオルティアの手を取ると愛しげに口付ける。
優雅な所作。他の女であればそこに彼の思いがあると信じてしまうだろう。
だが実際何もないことをオルティアは誰より分かっている。彼女だけはその表皮に惑わされない。
だから女王は酷く冷めた目で男の仕草を眺めると、それ以上の会話を拒むよう横になって目を閉じたのだった。