盲目の魚 03

禁転載

「おいで」
柔らかな女の声。
春の日差しのような優しい声に少年は導かれ歩いていく。
葉々が生い茂る林を抜け、城の奥へ。
「おいで。一緒に遊びましょう」
奥庭にはむせ返るような匂いの花々が咲き誇っている。
普段人が立ち入らぬはずの広い庭。だがそこは誰が整えているのか荒れ果てた様子は微塵もなかった。暖かな風が草を揺らす。
「ここに来て。早く早く」
幼さの残る呼び声。無垢な響きに彼は辺りを見回した。
庭木が作る何重もの生垣の向こう、小さな石造りの建物へと目を留める。
壁に穿たれた窓。鉄格子の隙間からは白い手が覗いていた。
その手はまるで彼が見えているかのように、ゆっくり向きを変えると自分の方へと手招く。
少年はその動きに引き寄せられ、生垣の間を抜けていった。扉のない建物の壁に近づく。
「おいで。ねぇ、顔を見せて。私と遊びましょう」
白い手は彼がようやくすぐ前にまでたどり着くと、触れたいという意思を顕にして伸びてきた。
少女のような女のような細い指。彼は華奢なその手を取る。
「名前を教えて。ねぇ、貴方は誰の子? 私を助けてくれるかしら」
「……黙れ妖女。俺を呼ぶな」
侮蔑に満ちた声。嫌悪に彩られた瞳。
鋭い拒絶に時が止まる。風が止む。
そうして訪れた沈黙に少年が彼女の手を払うと―――― しばらくして閉ざされた奥庭には女のけたたましい哄笑が響き渡ったのだった。






最後の書類。その草稿に訂正を入れるとオルティアはペンを置く。傍に控えていたティゴールを呼ぶと一応の確認をさせた。
数週間懸案となっていた転移陣の配備も、この書類でようやく実行へと移すことが出来るのだ。
各予定地も決し、管理局の手配も済んだ。あとは予算を最終調整しながらそれぞれの担当者に任せるだけである。
ティゴールはそれら担当者の名前に目を落とすと、その途中で表情を微かに動かした。
「ヤウス卿に管理局の人事手配をお任せになるのですか」
「やりたいと本人が申し出てきたからな。まだ若いがその意気を買ってやろう。……それに審議の時には悪いことをした」
今年二十二歳になるヤウスはオルティアよりも二歳年上であるが、その女王を除けば重大な役割を任される貴族としては充分若い。 そもそも宮廷内において十代や二十代前半で頭角を現すのは非凡な才能を持った人間ばかりであって、そういった人間の数は決して多くないのだ。 そして彼ら数少ない例外もニケのように平民の中から見出された者がほとんどで、貴族出身者に若く有能な人間は少ない。 これはもともとの母数が貴族と平民では大きく異なることや、大抵の貴族が子弟の教育に長い年月をかけることが原因で、ヤウスもまた他の例に洩れず才能に溢れる人間というわけでは決してなかった。
にもかかわらずオルティアは何故彼に任せてみようと言うのか。
「やりたい」と言ったから。それは確かに理由の一つだろうが、それが全てではない。
むしろそのような理由よりも、苦みを拭えない後者の理由が影響しているのは確実だった。
オルティアが兄から王位を奪い取った時の十二家審議。その際に謀殺されたラドマイ侯の第三子が、ヤウスなのだから。
「領地は兄がうまく治めているというが、父親を失った奴には後ろ盾がないだろう。こちらが仕事を振ってやらなければな。
 難しくはあるが父が残した人脈を使えば何とかなる」
「確かに。……ですが」
「何だ?」
ヤウスは、はっきりとではないがオルティアの「夫候補」だった。
三家当主の息子で年齢も近く独身―――― オルティアが即位した時、彼も自身がそうであるとの自覚があったはずだ。
だが彼は数多の子弟と同じく「能力不足」として落とされた。
その彼を女王の傍で働かせることに抵抗を覚えるのは、ティゴールがヤウスにあまりいい印象を抱いていないせいだろうか。
彼が時折オルティアの背に向けていた、執念とも思える強い視線。計りがたい昏さを思い出してティゴールは言葉を濁す。
しかしオルティアは臣下が答えないと分かると苦笑しただけだった。書類を処理に回すよう命じると女官が持ってきたお茶のカップを手に取る。
「何でもやらせてみなければ見えぬこともある。もし失敗するのならその時手を出してやればよいことだ。違うか?」
王としての度量を窺わせる言葉。
以前とはすっかり変わった女王の姿にティゴールは頭を下げつつ引き下がった。
―――― しかし彼はこの時の判断を、後に強く悔いることになる。



苦い薬は決して好きではない。
しかし以前雫に同じことを言った時、異世界から来た女はしれっとした顔で「でも苦い方が効く気がしませんか?」と言ったものである。
その意見にはまったく賛同できないが、出された苦い薬を飲まねばならないことは確かだ。
オルティアは内心激しく顔を顰めたかったがそれを表に出さず、水と共に一口で白い粉薬を嚥下する。
女王の喉の動きを見届けた女官はもっともらしく頷くと説明を付け足した。
「お体を整えますので、毎日欠かさず飲まれますよう」
「分かった」
デルシという名の老齢の女官は、ラルスがオルティアのところに通うようになって以来、子供を身篭りやすくなるようにと色々な世話を焼いてくる。 食事から始まって服装や生活習慣、その他ちょっとした動きにまで細かく口を出すようになったのだ。
多岐にわたるそれらをオルティアは煩わしいと思わないではなかったが、早く契約を終わらせられるならそれに越したことはない。
その為デルシが「自分の地方では結婚した女はこれを飲む」と薬草を煎じた粉薬を持ってきた時も、胡散臭いと思いつつ言われた通り服用することにしたのだ。
勿論毒見として同じ粉薬は二つにわけられ、一つは別の女官が飲んでいる。
だがその女官にも別状はない為、悪くて精々「何の効果もない」だけであろう。
オルティアはお茶で後味を紛らわせると気のない息をついた。
「これで身篭ればますます不自由になるのであろう?」
「そういうものでございますから」
やっぱりおかしな契約などしなければよかったと、女王は一瞬後悔したが、自分が玉座にある以上いつかは子を産まねばならないのは確かである。
ただ問題は最初の子がファルサスに取られてしまう為、別に産まなければならないということなのだが――――
「めん……」
最後まで言い切る前にオルティアはかろうじて口を閉じた。デルシと目が合う。
だが長く宮廷に仕えてきた女官は何も聞かなかったように頭を下げるとそのまま退出した。代わりに若い女官がやって来る。
「陛下、ヴィヴィア様がいらっしゃいました」
「通せ」

おおよそ一月に二度ほど訪ねてくる女は、オルティアの私室に現れると「こんにちは、姫」と微笑んだ。
そのまま乱雑な部屋のテーブルを慣れた手つきで整理すると、持ってきた手作りの菓子包みを広げる。
「姫、今日はすこーんですよ」
「何だそれは」
意味の分からない言葉はおそらく彼女の世界の菓子でも指しているのだろう。
オルティアはお茶を淹れ始める友人の背を見ながら、包みに入っていた硝子瓶を手に取った。
それも手作りらしい果物の甘煮を毒見もなく匙に掬うと、さくさくとした焼き菓子にたっぷり塗りつける。
外見からして上流階級が食べるような菓子ではないが、彼女はそれを気にせず口に運んだ。
「なるほど。素朴な味だな。美味いが」
「ありがとうございます」
笑顔でお茶を出すと雫は向かいに座る。
「ニケがいませんでした」「長めの休暇を取っている」と他愛もない会話を交わしながら、二人はしばしの安寧を共に過ごした。



同い年でありながら人種の違いのせいか、オルティアよりも随分幼く見える雫は、けれど結婚して二ヵ月、大分落ち着いたように見える。
何処が違うかと具体的に問われても分からないが、それまでずっと彼女が持っていた危なっかしさが薄らぎ、代わりにようやく地に足を着けたかのような安らいだ目をするようになったのだ。
或いはそれは、異郷であるこの世界に帰る場所と家族を得たという安堵の為かもしれない。
オルティアは自分とは全く異なる道を歩む友人の、黒い瞳をまじまじと凝視した。
「な、何ですか。姫」
「別に何でも」
雫はかつて言葉を失った際に、それまでオルティアを「姫」と呼んでいたのを直されたらしく「陛下」と呼ぶようになった。
だが、女王自身はそれに違和感を覚えたので、自ら元の「姫」に戻させたのだ。
いずれこの呼び名が似合わなくなる日も来るだろうが、その時には雫も言葉が不自由ないようなっているに違いない。
オルティアは彼女がほとんど話せなかった時のことを思い出す。
「そう言えばお前には『姫の性悪は筋金入り』と言われたこともあったな……」
「わすれてください……」
言葉が分からない雫は、ファルサスにいた三ヶ月間、一部の人間にとって格好の遊び道具だったらしい。
意味を取り違えて変な言葉を覚えた挙句、それをオルティアに向かって口にすることが多々あった。
もっともそれら悪戯の九割方はファルサス国王によるものであり、その度に彼はオルティアと妹から罵詈雑言を受けることになっていたのだが。
この場にはいない男の、ろくでもない気性を思い出してオルティアは憮然となる。
「姫、どうかしましたか?」
「どうもしない」
「ならいいのですが。そういえば少し、顔色がよくなられましたね。最近」
「健康的な生活をさせられているからな」
「姫はお忙しいですから。ちゃんと休まれてください」
ぎこちなさが残る敬語で、しかしキスクで仕えていた頃と変わらぬように、気遣う言葉を口にする彼女をオルティアは苦笑を以って見やった。 ふと気になると、他人の妻となった女に跳ね返る質問を投げかける。
「お前もいつか、子を産むのか?」
違う世界から来て、家族を得てその血を残していくのか。
夫と子供と共に幸福な生涯を送るのか。
異なる人生、異なる道筋にオルティアは数秒の間思いを馳せた。いつも何処かに空虚を残す己を意識する。

簡単には変えられぬこともある。分かっていながらどうにも出来ぬことも。
だからその中にあって、変化を得られたのは幸運なことだろう。
それでも変わらぬ欠片が何処かに残されているのだとしても。

「わかりません」
雫は少し淋しそうに微笑んで答える。小さな手が冷めかけたお茶のカップに伸ばされた。オルティアは返ってきた答を胸の中で反芻する。
はたして彼女は、「言葉」が分からなかったのか「未来」が分からないのか。
女王は違うと思いつつもそれが前者であればよいと、密やかに願ったのだった。