盲目の魚 04

禁転載

暗い部屋。
小さな部屋。
どれ程叫ぼうとも届かない。
泣き続けても誰も来ない。
そう、誰も。
来るはずがない。



「オルティア」
―――― オルティアと、そのように彼女を呼ぶ人間は長い間一人だけしかいなかった。
今の彼女を「作った」男。同じ父の血を引くベエルハース。
だがその兄も今はいない。彼女が殺してしまった。
正確には彼の死は彼女によるものではなく単なる不審死だが、彼女が簒奪をしなければ兄は死なずに済んだだろう。
「オルティア」
だからもう、彼女のことを名前で呼び捨てる人間はいない。誰もそんなことはしない。女王となった彼女には。
「オルティア、起きろ」
大きな手が頭の下に入れられる。そのまま僅かに持ち上げられ、むき出しになった喉に誰かが触れた。
柔らかな肌を何かが滑っていく。
ぞっとするような感触。彼女は小さく呻き声を上げた。力が入らない手を動かし半ば無意識にそれを押しのける。
「……やめろ、眠い」
「起きろ。折角来たというのに」
傲岸な声。この一月ですっかり耳馴染んだ男の声にオルティアは目を閉じたまま眉を顰めた。
抗えぬ眠りに半身を浸したまま唇を動かす。
「勝手に抱け……」
「そういうこと言うと、お前の集めてる変な木彫り人形燃やしちゃうぞ」
「………………っ、燃やすな!」
怒りで強引に意識を引き戻しながらオルティアは跳ね起きた。
そのままであれば覆いかぶさっていた男の頭に激しく衝突してしまっただろうが、ラルスは彼女の頭をひょいと避けて受け流す。
見ているだけで疲労する端正な顔が、心底不思議そうな表情をして彼女を見つめた。
「お前、本当にあの子供が見たら泣き出しそうな人形が大事なのか……趣味おかしいぞ」
「……黙れ変態。妾のものに文句をつけるな」
「変態的な行為をして欲しかったらいつでも言え」
「お前を殺しても問題ない時に言おう」
今度はしっかりと力を込めた両手で押しのけると、男は笑いながら寝台の上に座った。
彼が本気になればオルティアなど簡単に捻じ伏せられるのだから、最初からさほど抱く気はなかったのだろう。
彼女のその推測を裏づけるように、男は「疲れているなら相手はいい。その代わり泊めろ」と言ってくる。
唐突な要求に、水差しとグラスに手を伸ばしていたオルティアは顔を顰めた。
「何だ突然。妹に追い出されでもしたか?」
「してない。単に気分だ」
「迷惑な……」
そんな理由で眠っているところを起こされてしまったのか。
彼女は水差しをそのまま男に投げつけたくなったが、それをしては自分の寝台が水浸しになってしまう。
オルティアは当初の目的通りグラスに注いだ水を一息で飲み干すと大きな溜息をついた。
「好きにしろ。燃やすな。壊すな」
「分かった」
本当に分かっているのかいないのか、男は寝台に寝そべると水差しの傍にあった硝子細工の置物を手に取る。
取り寄せたばかりの置物をラルスが弄り始めたことで、オルティアは内心ひやひやと危ぶむ視線を送ったが、それを表に出してはつけこまれてしまう。 彼女は平然とした足取りで自ら女官を呼ぶと、いつの間にかかいていた寝汗を流す為、浴室に入った。冷えてしまった体を微温湯で温める。



記憶はないが、嫌な夢を見ていた気がする。
ほとんど意識には残らない恐怖の残滓。その最後の欠片が背筋を滑り降りていくのを感じてオルティアは身を震わせた。
夢見が悪いなど珍しいが、ここのところ仕事が立て込み疲労していたせいかもしれない。
彼女はお湯の中で手足を伸ばすと失われかけた眠気を呼び戻すよう目を閉じる。
男が遊んでいる寝室に戻るのは実に億劫だ。このままここで眠ってしまいたい。
けれど―――― あの男が泊まっていくなどと言い出したのは初めてのことなのだ。
今まで通ってきていた時も、彼は必ず朝までにはいなくなっていた。思い返せば彼女の前で眠ったことさえない。
閨房においてでさえ油断から縁遠い男は、一体何を思って今夜彼女のところに来たのだろう。
オルティアはその疑問に突き当たると同時に胡散臭さを覚えて浴槽から上がった。女官を下がらせ服を羽織る。
考えすぎであろうとは思うが、女王である自分の部屋に他国の王を一人にしている状況が改めて不安になったのだ。
彼女は少し逡巡したが、袖の中に短剣を隠し持つ。そのまま足音をさせないよう男のいる寝室に戻った。
薄暗い部屋の中、彼が何をしているのか、その姿を探して息を殺す。



男は、先ほどと同じく扉に背を向けて、寝台に横たわったままのようだった。何もおかしなことをしている気配はない。
やはり杞憂であったのだ。
オルティアは安堵すると短剣を傍の棚に置こうとした―――― その時、寝台から男の声がかかる。
「オルティア、どうした?」
低い声。
月光の他、何の明かりもない部屋に、彼の声はよく響いた。
音をさせぬよう注意していたにもかかわらずどうして戻ってきたことを気づかれたのか。
オルティアはさすがにぎょっとしてしまったが、動揺を一瞬で押さえ込むといつも通りの不機嫌な声を出す。
「どうもせぬわ。誰かのせいで眠いくらいだ」
「そうか……ならその剣で何をするつもりだ?」
続けざまに言われた言葉。
その言葉に彼女は今度こそ短剣を取り落としそうになった。琥珀色の目を限界まで瞠って男を見つめる。
長身を横たえていたラルスは彼女の視線に応えるようゆっくりと体を起こした。冷たい殺気を隠そうともしない双眸がオルティアを射抜く。
「何をしようとしている? 
 オルティア、自分の力を見誤るなよ。お前は戦場の将にはなれない。剣を取る人間にもだ。
 つまらないことで死ぬ気か? それを俺に向けようとするなら……俺はお前を殺すぞ」



王の言葉には、微塵の揺らぎもなかった。
ただ思ったことを言った、それだけだ。
そこに躊躇はない。意志を鈍らせる感情も。
まるで空虚だと―――― 分かってしまったからこそオルティアは息を詰まらせた。一瞬で疲れ果てた目を伏せる。
「妾を見縊るな。お前を殺すならばもっと周到な手を使うわ。
 珍しく泊まりたいなどと言い出すからよからぬことをしているのではないかと思っただけだ」
本当のことを言うと共に短剣を床に投げ捨てると、ラルスはいつもと変わらぬ目で肩を竦める。
「別に大した理由はないぞ。月が妙に明るくて寝苦しかったから、キスクなら変わるかと思ったくらい」
「それくらいで来るな!」
女王の怒声を知らん顔で流す男は、数秒までの殺気が幻に思える程あっけらかんとしている。
まるで手札を裏返したかの如く刹那で変わってしまうのだ。そこにあるものを長く見せていたくないかのように。
オルティアは忌々しさに舌打ちすると濡れ髪のまま寝台に戻った。
手の中に硝子の置物を抱え込んでいた男は、片手を伸ばすと濡れたままの髪を引く。
「どれ、折角だから乾かしてやる」
「何だお前、魔法を使えたのか?」
「簡単なものはな。一応魔力がある」
それでも魔法を使うことはやはり苦手らしく、彼は詠唱を加えながらオルティアの髪を乾かしていった。
つい先程、彼女を殺すことも躊躇わなかったであろう手が、壊れ物を扱うに似て優しく丁寧に薄い色の髪を引いていく。
心地よい温かさ。
愛情があるようにも見える男の手に、オルティアは呆れた目を向けた。魔法に専念するラルスを見上げる。
「お前は本当に分からぬ。殺しあうかもしれぬ妾ではなく、今からでもお前に惚れ込む女を迎え入れた方がいいのではないか?」
「だから、それが面倒」
男の傍には硝子の置物が置かれたままだ。
筒状のそれは、中に魔法を施した水と硝子の魚が入っている。
青い水の中をくるくると泳ぐ魚。その光景はとても綺麗で彼女の気に入っていた。
オルティアは怪訝そうに首を傾げる。
「何が面倒なのだ。その方が余程面倒がないであろう。腹を探り合わずに済む」
「本当にそう思うか、オルティア? 女が一番探りたがるのは執心した男の心だ」
「…………そうかもしれぬな」
かつてこの男は、数年もの間、傍に置いていた寵姫を「国政に口を出そうとした」という理由であっさり国外追放した。
それを聞いた諸国の人間はファルサス国王の厳しさに驚いたものだが、オルティアはその本当の理由を知っている。
女の正体は他国からの密偵で、後宮にいる数年間ずっとファルサスの情報を自国に流し続けていた。
だが彼女が王に本当の愛情を期待して役目を放棄した途端、彼は女を用済みと切り捨てたのである。
「本当は全て知っていたのであろう? 流される情報を操作して操っていたな」
「急に何の話だ? 心当たりがないな」
含み笑いをする男はオルティアが何のことを言っているのか確実に察している。
如実に分かる性格の悪さに女王は少なくない疲労感を覚えた。一応の補足を加えてみる。
「だがそれは特殊な例であろう。ましな女はいくらでもいる」
「だとしたら尚更、愛情を期待されて面倒だ」


髪を梳く手。通される指。
その全てが穏やかで優しい。まるで思いがあるかのように。
だが、そこには何もない。
何もないから、期待が煩わしい。
「愛などない」と真実を告げても返されるささやかな希望が、彼には面倒で仕方ないのだ。


「……誤解されるようなことをしなければよいだけではないか? 冷たくあたればよいであろう」
「とは思ったが、わざと険を作るのも疲れるからな。虐待してめげなかった奴もいるくらいだし。
 お前はその点聡いから、一緒にいて一番楽だ」
「妾は一番疲れるわ!」
「残念だなー。気安いという俺の思いが伝わらなくて」
ラルスはそこで手を放した。髪を乾かし終わったらしく、硝子の置物を手に取ると下から覗き込む。
細い硝子筒に二匹入っている魚は、月光を反射してくるくると回った。男は蒼い光に目を細める。
子供によく似て、だが子供からもっとも遠い男。
その乾いた両眼をオルティアは気だるげに見上げた。青い瞳は暗がりの中、ぽっかりと空いた穴のように見える。
「オルティア、これ欲しいな」
「やらぬ」
「欲しい」
「やらぬわ!」
女王は跳ね起きると男の手から置物を取り上げた。そのまま部屋の隅の棚の上に置いてくる。
残念そうな男はしかし彼女が寝台に戻ってくると、細い躰を腕の中に抱き寄せた。横になりながら乾かしたばかりの髪を梳く。
「先に眠れよ。じゃないと俺も寝れん」
「知るか。眠らなければよい」
言いながらも目を閉じると眠気が襲ってきた。オルティアは欠伸を噛み殺して男の腕に頭を預ける。
たちまち沈んでいく意識。
不愉快ではない温度。
深い海底に下りていく眠りの途中―――― 男の声が「夢は見ない」と囁いた気がした。



翌朝目が覚めると、やはりラルスは既にいなかった。
オルティアは床に投げ捨てられた短剣の他にまったくいつもと変わりがない部屋を見回す。
だが何とはなしに棚を見やった彼女は、そこに置かれていたはずの置物がなくなっていることに気づくと、朝から不機嫌全開で執務を開始したのだった。