盲目の魚 05

禁転載

―――― 手配を指示したのは自分であるが、転移陣とは実に不思議なものであると思う。
オルティアは城からいくつかの転移陣を経て、新たに転移網が配備される街の一つを視察に訪れながら、ふとそんなことを考えていた。
嵌めこまれた石版に刻まれた魔法陣。
この上に乗れば誰でも瞬時にして別の場所に移動出来るのだから、実に便がいい。
商人が馬車なども乗り入れられるよう大きめに作られた転移陣を、女王はぐるりと一周しながら見下ろした。
がらんとして大きな石造りの空間には他にも四つの大きな転移陣と、小さなものが五つ描かれている。
以前街の議員が講堂を作りかけ、そのまま計画が頓挫し放置されていた建物を、城が買い上げて設置した管理局は、今回の視察で問題なしと判断されれば来月から稼動することになっていた。
オルティアは手元の書類に書かれた確認項目を一つずつ確かめていく。
朝起きた時には置物を持ち去られたと気づいて激怒したものだが、その怒りも執務をしているうちに諦めに変わった。
これくらいで腹を立てていてはあの男には付き合いきれない。今度会った時に「返せ」と言えばそれで済むだろう。

「なるほど、問題はないようだな」
全ての項目を確認し終えて女王は頷く。
この場にニケが来ていれば転移陣についての詳しい説明も聞けただろうが、あいにく彼は休暇中だ。
以前「転移」の仕組みについて尋ねた時には、「出発点と到達点の魔力位階同士を繋げてそこを通ります」と言っていたが、魔力の見えないオルティアにとってはやはり実感としては理解しがたい。
彼女は歩きながら大小全ての転移陣を見てしまうと最初の一つの前で足を止めた。
「事前に試験はしたのであろうな」
「勿論でございます。確かに滞りなく作動いたしました」
「今も入れば発動するのか?」
「はい」
今回の管理局増設に大きく関わったヤウスは緊張が隠せない様子で頷くと、隣の魔法陣を指して「どなたかお入りになりますか」と声を上げる。
オルティアは苦笑しながらも自ら彼の指した魔法陣に向かって足を進めた。慌てて護衛兵たちが彼女の周りを固める。
虫の羽ばたきにも似た僅かな作動音。
転移陣はあっさりと発動すると、女王を一瞬で別の町へと運んだ。
先程いた空間よりは遥かに小さな部屋で彼女は辺りを見回す。
石壁で囲まれたその場所には転移陣が一つしかなかった。扉だけが異様に大きいのは荷車なども入れるようにする為だろう。
かすかに鼻を突く潮の香りにオルティアは窓の外を眺めた。
「漁港か」
「然様で。この時期は脂の乗った魚が獲れますので、転移陣を使えば朝獲れた魚が昼には城都に届きます」
「便のよいことだ。民も喜ぶ」

まずこの転移網を動かして半年間記録を取った後、その記録を参考に他の地方も配備が開始される。
順調にいって全てが完成するには三年から五年がかかるだろうが、それは決して長すぎる期間ではないとオルティアは考えていた。
「こ、これは陛下! お迎えもせず大変失礼致しました」
女王の来訪を連絡されたのか、町の役人が慌てて扉を開け入ってくる。
深く礼をする彼らに「気にせず仕事を続けよ」と手を振ったオルティアは、空気が流れたせいでより一層強くなる香りに視線を泳がせた。
滅多に見ることがない景色を探して開けられたままの扉の先、廊下の向こうを見やる。
「外に出てみてもよいか?」
「取り立てて見るところのない町ではございますが」
「構わぬ」
オルティアは護衛兵を伴い、建物の外へと出る。
暖かい風。緩やかに海に向かって傾斜していく道は、慎ましやかな町並みの向こうに輝く青を捉えていた。
空と繋がるかのごとく伸びていく水面。
自然のままの色が、日の光を反射して宝石よりも鮮やかに煌く。
限りない景色、悠然と広がる海の様を、彼女は言葉なく眺めた。
―――― この茫洋に感傷を覚えるのは何故なのだろう。
オルティアは遠くに見えるその水の底に、刹那自分が立っているような錯覚を覚えた。想像が生んだ海面を見上げる



水を出て生きられぬのは不便なことだろう。
だがそれを言うならば、いつ何処にいても生きている限り、皆が不自由なのだ。
民草として生きようとも王として生きようとも、変えられぬものは変わらない。
皆が空のようだと喩えるあの瞳。
干渉を拒絶する薄青の双眸が、海底から仰ぐ空虚に見えるように。



若き女王は琥珀色の両眼を閉じる。
貝に似た瞼がやりきれなさを孕んで震えた。沈んで小さな声が側近に届く。
「ティゴール」
「は!」
「もし妾があの男の子を……」
彼女が言えたのはそこまでだった。
次の瞬間「陛下!」という叫び声と共に、ティゴールがオルティアに覆いかぶさってくる。
そのまま共に倒れこんだ頭上で大きな破裂音が鳴り響いた。苦悶の声が愕然とするオルティアに注がれる。
「……へ、陛下……」
「ティゴール!」
力を失った男の体を女王は抱く。
一瞬で騒然となる周囲。
護衛兵たちの怒声が錯綜した。
「魔法の狙撃か!?」
「方角を確かめろ! 犯人を追え!」
「魔法士を呼べ! 治療だ! 早く!」
兵たちがオルティアを保護しようと集まってくる。ティゴールを治療しようと魔法士が駆け寄ってきた。
場を支配する混乱の中、オルティアは自分を庇った臣下を兵士に預けると、誰の手も借りずゆっくりと立ち上がる。
あまりにも予期せぬ時に訪れた暗殺の手。
その手をかろうじて逃れた彼女は、女王として命令を下すまでの数秒間、小さな溜息をつくと琥珀の瞳を怒りと苦渋に曇らせたのだった。






オルティアを庇って背に大火傷を負ったティゴールだが、幸い命には関わらずに済んだ。
手当てを受け今は城の治療室にて眠っているという報告を受け、執務室に戻ったオルティアはひとまず安心する。
「暗殺犯は未だ見つかっていない」とのことだが、あの時かなりの距離があったことを考えれば既に逃走しているだろう。
女王は報告書に目を通すと頬杖をついた。報告書を持ってきたダライ将軍が険しい表情で主君を見やる。
「計画的な暗殺にしてはあまりにも不確定要素がございます。他の転移先にも調査を向かわせておりますが……」
「あの時妾が転移陣を通ったのは単なる気まぐれであったからな。まさか未来が分かるというわけでもあるまい」
「陛下がどの陣を使われたか、誰か教えた内通者があの場にいたということでしょうか」
「だとしても手配が早い。転移を使える魔法士を雇ったのだとしても、妾が外に出なければそこで終りだ」
あの時オルティアは気まぐれで転移陣をくぐり、思いつきで外に出たのだ。そこまで予想されていたとはさすがに思えない。
ダライはすっきりしない事件に厳つい顔をますます固める。
「城都では犯行に及べないと判断したからこそ、低い可能性に賭けたのかもしれません」

まだ玉座に彼女ではなく彼女の兄が座っていた頃、キスク城は暗殺者の侵入を許してしまったことがある。
その時の犯人は結局捕まってはいないが、その後しばらくしてベエルハースが不審死を遂げたということもあり、キスク城、ひいては城都自体の警戒態勢はかなりの改善を加えられていた。
街道などから城都へ入るには通行門での申告が必要であり、転移陣を使っての移動でも管理局が身元を確認し不審者は弾いている。
国から国へ移動して仕事を引き受ける傭兵たちなどは、変わってしまったこの体制に不平を申し立てたが、彼らには書類審査などを経て各人に通行証を発行し、その動きに対応していた。
加えて城都全体には無許可転移禁止の結界が張られ、現在身元の分からぬ人間はすっかり入り込めない状態である。
その城都の中心近くで、頬杖をついたままの女王は美しい顔を顰めてダライを見上げた。
「今、妾を殺して簒奪しようとする者がいるとしたら誰だ?」
「王位継承権が発生しましたのは、陛下の曽祖父君にあたります三代前の王の非嫡出子のご血族でらっしゃいますね。
 確か現当主には一番若くて陛下より五つ年上のご子息がいらっしゃったかと。領地から滅多に出てこられませんが」
「妾も顔をあわせたことがない」
オルティアが即位しベエルハースが死亡した後、十二家の当主は女王に万が一のことがあった時のために、血を遡って新たに王位継承者を選び出した。
与えられた辺境の領地に引きこもり外に出てこないというその一族は、だが玉座の為に意外にも行動力を見せてきたのだろうか。
―――― そうであるならむしろその方がいいと、オルティアは陰鬱な苦笑を浮かべて内心独りごつ。

今まで己が行ってきた所業を思えば、殺したいと思い、実際殺そうとする人間が数多くいることなど容易に想像がつく。
一度はその引け目があったからこそ、彼女は兄に陥れられても簒奪に踏み切れなかったのだ。
為してしまった過去は決して消え去るわけではない。それは一生負いきっていくものだ。
だからこそオルティアは、自分に復讐したいと思う人間の気持ちを否定しようとは思わなかった。
「仕方がないことだ……。そうであろう? ファニート」
彼女の為に死んだ男。子供の時から変わらず仕え続けてくれた男の名をオルティアはそっと呟く。
あの頃自分の傍にいてくれた人間が今は誰もこの場にいない皮肉に、女王はほろ苦く笑った。
―――― 自分の死によって、積み重ねたものが清算されるのならば、その結末も否定はしないだろう。
だがそれにはまだ、やりたいことが数多く残っているのだ。もう少しだけ足掻きたい。自分を守り傷つけたこの国の為に。






日が落ちた後の城内。
廊下を行く影は減り、人の残る部屋にはささやかな明かりが灯っていた。
静寂が長い年月を漂わせながら石の廊下に沈殿し、広く複雑な建物の隅々にまで手を差し伸べている。
木々でさえも息を潜める時間。
毎夜訪れる休息の時に、だがティゴールはようやく深い眠りから意識を起こした。
自分が何処にいるかを確かめるより早く、治療着のまま近くの明かりに手を伸ばす。
「誰か、誰かおらぬか」
彼は魔法具のつまみを弄って燭台の光量を上げた。
その光で気づいたのかティゴールの声が聞こえたのか、椅子に座したまま眠っていた魔法士が部屋の隅で顔を上げる。
「ティゴール卿、お目覚めに……お体の具合は……」
「そのようなことよりもここは城か? 陛下はいずこにおられる!?」
「城の治療室です。陛下はお休みになられたかと……」
怪我で昏睡していた男の突然の剣幕に、まだ若い魔法士はたじろいだ。
だが相手の困惑など気にもせずティゴールは言い募る
「早く陛下にお伝えするのだ! 城都に不審者が侵入した可能性がある! 管理局の人事に関わったヤウスが……」
女王の危機を示唆する言葉。
そこに昼間の暗殺未遂との関連性を嗅ぎ取った魔法士は、慌てて部屋を飛び出した。
だが時既に遅く―――― オルティアの元へは、襲撃の刃が迫っていたのである。






「体を冷やさないように」との意図で作られる食事にも最近は慣れてきた。
それらは調理法だけではなく材料からして気を使っているらしく、目に見えて暖色の野菜が増えたことに彼女ははじめ憮然としたものである。 元が小食である為、若干無理をしてそれらを食してしまうと、オルティアは女官が二つに分ける粉薬を見ながらお茶に手を伸ばした。何とはなしに壁際の時計を見やる。
ラルスが二晩続けて訪ねてくるということは今まで一度もない。
ということは置物についての苦情は言えないが、今夜はゆっくり眠れるということであろう。
オルティアは凝った肩をほぐしながら立ち上がった。
「先に入浴にする。今日はいささか疲れた」
「かしこまりました。すぐに支度をいたします」
若い女官は粉薬を二つに包み直すと部屋を出て行く。
その戻りを待たずにオルティアは浴室に入ると自ら服を脱いだ。鏡の中、脹脛に痣が出来ていることに気づいて眉を寄せる。
「あの時か……」
昼間ティゴールによって庇われ倒れた時、地面にぶつけでもしたのだろう。青黒くなっているその部分をオルティアは指で押した。
柔らかい感触と共に鈍い痛みが走り、それが見かけだけではないことが分かる。
ほとんど怪我などしたことがない彼女には肌の変色が面白く、湯船の縁に腰掛けて何度も押してみた。その度ごとに膨らんだ痣は指の形にたわむ。 ひとしきり押して満足してしまうとオルティアは象牙色の腕を胸の前で組んだ。
「奴が見る前に隠した方がいいか……?」
魔法で怪我は治せても、痣を消しきることは出来ない。白粉でもはたくなりしなければ気づかれてしまうだろう。
そこまで考えた時、しかし女王はいつまで経っても女官がやって来ないことに気づいた。
訝しみ振り返ると、部屋の方で何かが倒れる物音がする。オルティアは眉を顰めて立ち上がった。
「どうかしたか! 怪我でもしたのではあるまいな!」
張り上げた声。
その声に応えるよう、扉が音を立てずに開き始める。
だが、そこに立っていたのは見知った女官の誰でもなく―――― 顔を隠した男が二本の短剣を帯びて、標的たる女王を見つめていたのである。