盲目の魚 06

禁転載

―――― この大陸において短剣の双剣を使う者はほぼ全て暗殺者であると言える。
即位する以前は大陸のあちこちにて揉め事を起こさせることを娯楽としていたオルティアは、側近から確かにそう聞いたことがあった。
ならば今彼女の前にいるこの男もやはり暗殺者であるのだろう。顔を隠していることから「何者だ」などと聞かなくても分かる。
オルティアは言葉を飲み、立ち上がった我が身を確認した。
入浴中であったこともあり何も持ってはいない。武器はおろか身を隠す布さえも。
勿論何か持っていたとしても職業的な暗殺者に太刀打ちは出来ないであろうが、それにしても絶望的な状況だ。
相手が彼女を殺そうと思えば、持っている短剣を投擲すればそれで済む。
それだけで終わってしまうのだ。生も統治も、何もかも。
ならばすべきことは何か。
女王として誇り高く最期まで胸を張ることか。



『王族とは何なのか』
彼女は二十年にしか過ぎぬ己の人生において、ずっとそのことを考えて続けていた。
選ぶ余地もなく自分に与えられた責務。終生変わらぬその立場について。
民の為に犠牲にされる生。民を犠牲にして君臨する生。
王族の本質を語るそのどちらもが真で、どちらもが偽だ。
まるで鬱屈とした小さな鳥籠。
彼女はその中から外に向かって毒を吐き続けてきた。そして国を保ちもした。
自分を生み出し、育て、傷つけたこの国を、疎むと同時に愛してもきたのだ。
だからこそ兄に裏切られた時、彼女は全てを捨てて城を逃げ出すのではなく、兄を追い落とし玉座を得ることを選んだ。
そうして鳥籠から出て―――― 今は、深い海の底に立っている。



復讐されるようなことをしたのは紛れもなく自分自身だ。
だからその清算を否定しない。仕方のないことと思っている。
けれど――――
「妾を殺しに来たのか」
徐々に晴れていく湯気。
冷めた声に黒尽くめの男が微かに震えた。顔は見えないが若い人間なのだろう。若干の戸惑いが見て取れる。
そしてそのせいか剣はまだ上げられない。オルティアは素性も分からぬ男を見据えた。
「ここまで来られたということは腕の立つ者なのであろう? 大したものだ。……その腕を妾の為に使う気はないか?」
―――― まだ死にたくはない。
これ程までに早く終わりたくはないのだ。まだ多くの為したいことが残っている。
王族として、この国の人間として、たとえ誇りを投げ打とうとも命が惜しい。
「どうだ? 報酬は弾むぞ。他に欲しいものがあれば申せ。お前の能力に見合うだけのものを払おう」
オルティアは笑う。
妖艶な微笑。
女王になってからなりを潜めていた蠱惑が、湯気よりも重く痺れる程の甘さを持って立ち昇った。
見る者の視線を惹きつけ、心を捕らえる目。
忌まわしいと皆がその本性を恐れながらも、否定出来ない美貌が嫣然と男を見つめる。
象牙色のなめらかな肌。細い四肢を持つ魅惑的な躰が困惑する視線に曝された。
だが彼女はそれを気にもしない。ゆっくりと男に向かい足を踏み出す。
何も持っていないことが一目で分かる女を、しかし剣を持った男は本能を忌避するように恐れた。
「う、動くな」
「何故だ? 何も怖がることはない」
艶のある眼差しが毒霧の如く注がれる。
抗し難い引力が、たおやかな腕の形を取って差し伸べられた。男はその指先を見て息を飲む。
「ほら、望みを申せ」
魂を絡め取る誘惑。
剣を握る指が緩んだ。オルティアは妖姫そのものの笑みを見せる。
―――― 捕らえた、と。

だがそう思った瞬間、彼女の躰は突き出された銀の刃と共に鮮血に染まったのである。






ティゴールは治療着のまま魔法士を通じて城中に連絡を取った。
しかしその結果として分かったことは、既に城内には複数人の刺客が入り込んでおり、各所で犠牲者が出ているという事実である。
陽動と思われるいくつかに混じって、女王の部屋がある建物にも連絡がつかないと知った彼は、すぐに兵士たちをオルティアのもとへ向かわせた。自らも魔法士を伴って主君のもとへと走る。
「よくもヤウスめが……」
「彼が首謀者だということは明らかなのですか?」
まだ容態が安定しきらないティゴールの為に治療室から付き添ってきた魔法士は困惑の目を見せた。
何故三家当主の一族が女王を暗殺しようとするのか、彼にはそれが分からないのであろう。女王の側近は浅い息をつく。
「昼の暗殺事件。いくつかあった転移陣のうち、奴はさりげなく一つの転移陣を指した。
 陛下は一番近くにあった転移陣ではなく、奴の指した転移陣に入られたのだ。さりげない意識の誘導だろう。
 その後漁港に出た時も部屋に誰もいなかったにもかかわらず、役人は存外早く現れた。
 ヤウスがあらかじめ時間を指定して陛下が来られるとでも伝えてあったのではないか?
 その後さりげなく役人たちに町を案内させる手筈だったのだろう。陛下がご自分で外に行かれたのは奴にしてみれば幸運だ」
「それは……ですが、それだけでは」
確かに一応の説明をつけられるかもしれないが、確証とするにはあまりにも危うい。言いがかりだと言われてしまえばそれまでだろう。
だがティゴールは魔法士の反駁に対し、昼間の記憶を思い出したのか怒りの形相で顔を歪めた。
「私が何故陛下の御身を守り得たと思う? 兵士でも何でもない老いた私が。
 ―――― 単に私は外に出てからずっとヤウスの行動に注意していたのだ。
 奴が山の方角に向かってさりげなく手を上げた……直後に同じ方角から火矢が飛んでくるのを見たからなのだよ」
「…………」
「昼の暗殺が失敗したとなっては、陛下はもう当分外には出られない。
 ならば管理局に手を回して城都に直接刺客を引き入れるしか手段はないだろう。奴であればそれが出来る」
魔法士は何も言えない。
そうして訪れた沈黙には、彼らの足音とティゴールの深い溜息だけが響いたのだった。






体を貫通した銀の両刃。
その輝きにオルティアは形のよい眉を寄せた。血が飛び散った己の躰を見下ろす。
正確に心臓を貫いた剣は、突きこまれた時と同じく唐突に引き抜かれた。
力を失って浴室に崩れ落ちた死体を男は足で転がす。彼はその体を仰向けにさせると首を傾げた。
「殺してよかったか? 何となく邪魔だったから殺しちゃったが」
「殺す前に聞け! そのようなことは!」
オルティアの非難にラルスは楽しそうに笑う。血に濡れたアカーシアを一振りすると鞘に戻した。
唐突に現れ暗殺者を刺殺した男は、血の飛沫がかかった女王の躰に気づくと目を細める。
「壮絶だな。さすがよく似合う」
「誰のせいだ! 風呂に入った意味がないわ!」
「そう怒るな。結構そそるぞ」
「黙れ、変態! 礼を言う気が失せた!」
オルティアはラルスが放る布を受け取ると、怒気を発散させるよう乱暴に血痕を拭った。
そのまま急いで服を取ると部屋に戻る。先程の物音を確かめようと思ったのだ。
だが、彼女の目に入ったものは予想通り、喉を切り裂かれ死んでいる若い女官二人と床に散乱した茶器や小物の数々だった。
苦悶の表情で事切れている女を見下ろし、オルティアは沈痛さを瞳に浮かべる。そこに背後から男の声がかかった。
「多分もっといるぞ。城内の空気がざわついてる」
「もっと? 他にもいるというのか」
「んーこういうのは肌で分かる。何処かで戦闘が起こってるな。どれだけ入り込んでいるかまでは分からんが」
ラルスは何ということのないように言うと、近くに置いてあった置物を手に取った。
「俺はこれ返しに来た」と昨晩持ち去った硝子細工を指す。
すぐに返しに来るくらいなら持って行くな、とオルティアは思ったが、事態はそれどころではない。
彼女は急いで服を着ると隣国の王を見上げた。
「ともかく助かった。礼を言う。妾はこれから外の様子を見に行くが……」
「俺は行かない。他国のことだし」
そう言われるのではないかと思ったが、聞くまでもなく即答されたことに彼女は少しだけ表情を強張らせた。
期待していたわけではない。それでも、何処かで手を貸してくれるのではないかと思っていたのだ。
彼女は自分でも気づいていなかった甘えを自覚すると舌打ちする。
護身用の短剣を手に取ると、扉に向かいながら後ろ手に手を振った。
「ならば面倒に巻き込まれぬようファルサスに帰っておれ。今夜はお前の相手は出来ない」
「外に行くのか?」
「当たり前だ。妾の城に妾の民だ」
「オルティア。俺は自分の力を見誤るなとお前に言わなかったか?」
男の声は、からかうわけでも笑うわけでもなく、ただ沈んで響くものだった。
今までにも何度か聞いた「王としての」声。
静かな威を帯びる声に、オルティアは足を止める。
「お前は戦場の将にはなれない。剣を取って戦う人間にもだ。
 自分がどのように戦う人間だったのか、もう忘れてしまったのか? よく思い出せ」

王の青い瞳は澄んだ色でありながら、昏い部屋の何よりも闇に近く見えた。
振り返ったオルティアは穏やかに微笑する男を見つめて、その言葉を反芻する。
―――― 自分には力がない。すぐ目の前にいる敵を殺すような力は何も。剣を振るうことさえままらない。
そしてラルスも、そんなものを求めて彼女を選んだわけではないだろう。
彼女が持っているものはもっと別種の力だ。座したまま人を操りその道行きを狂わせる――――
「善王になろうとするな、オルティア。それは笑いながら相手を殺し得る人間がなるものだ。
 お前のような人間がそう見られれば狸どもに舐められるぞ? 小娘が己の罪を恥じ引け目を感じているのだと」



罪を悔いている。
だがそれは、いつ何処においても見せていいものではないだろう。
若き女王を陥れようと目を光らせる者たちに、軟弱になったと思わせてはならない。
彼女が選んだものは自分自身の安寧ではなく、泥を被ろうとも負い通す責。
それは決して、一時の感傷で失うことは許されないものなのだ。



オルティアは死した女官の貌を見つめた。
涙の跡が見える横顔。強い恐怖が見開いた目に刻まれている。
ほんの短い一生をこのように終えていかねばならなかった彼女たちを思って、女王はきつく唇を噛んだ。ただ己の視界を閉ざす。
悔恨を切り離さねばならないこともある。この先も女王として生きていくならば。
オルティアは目を開けると短剣を置いた。冷えた視線で男を見返す。
「通信用の魔法具は持っているか?」
「あるぞ。レティが煩いから持ち歩いてる」
「なら貸せ」
尊大に言い放つとラルスは声を上げて笑った。懐から取り出した小さな箱を彼女に向かって放る。
オルティアがそれを操作して城内の他の場所に繋げようとしていると、男は散らかった床を越えて女王の傍に立った。
「俺は外には行かない。だが、この部屋にいる限り俺はお前の男だ。
 何が来ても殺してやろう。―――― 好きに使え」
ラルスは手を伸ばすと濡れた女の髪を引き寄せる。そのまま艶のある一房に顔を寄せ口付けた。
オルティアはそれを留めるわけでもなく、ただ唇を上げて笑うと「ならそうさせて貰う」と刃のように光る声で言い放ったのだ。