盲目の魚 08

禁転載

襲撃の後片付けもあり、オルティアの部屋は一時別室へと移ることになった。
とは言っても今夜はもう眠れるかどうか分からない。女王は真夜中を回った時計を確認しながら苦い顔になる。
同じ建物内にある別の部屋。現在は使われていない王族用の部屋に移動した彼女は、ラルスがついて来たことに意外さよりも胡散臭さを覚えた。 いらない気を利かせたらしい女官が早々に退出すると寝台に座る男をねめつける。
「何だ? まだ何かあるというのか?」
「あるある。色々ある」
猫を招くような手。オルティアは顔を引き攣らせながらもその手に応えて男の隣に座った。
するとたちまち腕が伸びてきて体ごと引き寄せられる。男の手が彼女の顎にかかり、上を向かせた。
「さて、俺からの質問だ。オルティア、お前は何故こんなものを飲んでいる?」
ラルスが胸元から出したのは小さな白い紙包である。
おそらく部屋を荒らされた時に散らかってしまったのだろう。乱雑に畳みなおされたそれは、オルティアが毎日飲んでいる苦い粉薬だった。
彼女は眉を寄せると反駁する。
「何故? お前との契約の為に決まっているであろう」
「契約?」
男は怪訝そうな顔になると考え込んだ。
理由の分からぬ沈黙。
苛立ちにオルティアが声を上げようとした時、だがラルスは彼女に視線を戻す。
「お前はこれが何だか知らないのか? 古いものだからか?
 いくら男がいなかったからといって無用心だぞ。常に飲んどけ」
「は? 何のことだ」
一体何を言いたいのか。掴みかねて彼女はますます顔を顰めた。彼は女の膝に紙包を放る。
「それ、避妊の魔法薬だ。十五年くらい前に主流だった奴」
男は足を組むとその上に頬杖をついてオルティアを眺めた。
率直な視線を受けて、女王は滅多にないことだが完全に凍りつく。
「………………は?」
ようやくそう口にした時、彼女が理解したことは今まで苦い薬を我慢して飲んでいた、その行為が無駄だったということで―――― 次の瞬間オルティアは激しく脱力すると寝台の上に突っ伏したのだった。



「私の甥は先だってのファルサスとの戦争で命を落としました」
女王の前に呼び出されたデルシは悪びれもせず、そう言って微笑んだ。
「体の調子を整える」と偽ってオルティアに飲ませていた薬。
それが実際は避妊薬であったということはつまり「女王にファルサス王の子を産ませたくない」と、そういうことだったのだろう。
毒見に引っかからなかったのも当然だ。デルシの持ち込んだ薬は単に妊娠を阻害するだけで、体に害を及ぼすような薬ではなかったのだから。 事前に薬を調べた若い魔法士も毒かどうかを調べただけで、一地方の民間薬という先入観もあり具体的な効果までは突き止めなかった。 結果、粉薬は十五年前に主流であった薬ということもあり、真逆の効果を信じられたままオルティアの手へと渡ってしまったのである。
「お前は妾の側仕えからははずす。その他の処分は追って決定しよう」
「かしこまりました」
デルシは用件を言い付かった時とまったく変わらぬ表情で頭を下げると、文官に連れられ女王の前から退出した。
再び二人きりに戻ると、オルティアは苦く疲れ果てた顔で隣の男を見上げる。
「すまなかった」
「別に構わん。迂闊娘」
「…………」
「あの小娘に感化されて迂闊が感染したんじゃないか? やーい」
「殴ってもよいか?」
「やだ」
悪童のように舌を出した男は、本当に今夜は帰るつもりがないのか寝台の上、横になる。
まったく扱いづらい相手の体をオルティアは瞬間蹴り転がしたい衝動に駆られたが、諦めると隣に寝そべった。男の声が囁く。
「で、どうする? 当然ながらああいう風に反対感情を持っている人間もいるわけだが。……やめるか?」
「誰がやめるか。今までのことが無駄になって腹立たしいだけだ」
民草全ての賛同など得られるわけがない。それはただの理想で、夢物語だ。
だからオルティアは理想と現実の境を歩いていく。どちらも捨てず、どちらも忘れずに。
挑戦的にも聞こえる女王の言葉にラルスは楽しそうに笑った。体を起こし彼女の髪を梳く。
そうして男は華奢な躰を組み敷くと、何も言わずに深く口付けたのだった。






廊下を近づいてくる足音。
明らかに走っていることが分かるその足音に、執務をしていた女王は軽く眉を上げた。部屋に控える魔法士に視線を移す。
あんな風に城を走る人間は城内にはまず存在しない。だが二人は二人ともが心当たりを持っており、揃って微妙な表情になった。
すぐに扉が乱暴に叩かれ、来訪者が現れる。
「姫っ! にんしゃんしたって本当ですか!」
「にんしゃん……?」
発音の苦手な女の舌足らずな言葉。
部屋の隅にいたニケは「ご懐妊と言いたいのではないかと」とそれを補足した。オルティアは遅れて頷く。
「ああ。妊娠か。しているぞ。それがどうした、ヴィヴィア」
「おおおおおおおおお王様の子供だって、本当ですか!?」
「本当だ」
「ふ、ふくしゅうしてきます! 姫!」
「…………」
どういう伝わり方をしたのかは知らないが、激しく誤解が生じているらしい。
オルティアは「お前の夫はそのような単語も教えているのか……」と呟きながら、ぷるぷると震えている友人に軽く手を振った。
「やめておけ。間違いなくお前の方が酷い目に合わされるぞ。あと一応合意の上だ。ごうい。分かるか?」
「ごういだからってやっていいこと、と、わるいこと、ありますよ! ドサド! あの変態!」
空回り気味の怒りは言葉の不自由と絡み合って非常に混乱した状態になってしまっている。
途中から異世界の言語になった罵り言葉にニケは溜息をつくと、闖入者を頭が冷えるまで放り出そうと転移門を開きかけた。
しかしそれをオルティアは手を上げて留める。
「ヴィヴィア、こちらへ来い」
柔らかい手招きに応じて雫は机の脇を回る。
それを迎えた女王の体は、まだ見かけとしては変わっていないが幾分ゆったりとした服を纏っていた。
オルティアは自分の腹部を指して笑う。
「面白いであろう? 妾が子を産むのだ。父親が誰であれ妾の腹で育つ妾の子だ。―――― お前も楽しみにしておれ」
「……姫」
何処か楽しそうな女王の顔。
それを見た雫は沈黙したが、ややあって不服そうながらも頷いた。
短い期間ながら女王の側近として働いたこともある彼女だ。オルティアの立場と考えを理解したのだろう。納得しようと試みる友の表情にオルティアはくすくすと笑う。
「妾も充分若い。子供一人生んでも充分夫を迎える余裕はあるわ。そう心配するな。
 それよりこれからはもっと菓子を持って来い。孕んだせいか普通の食事が美味くなくなった」
「……お菓子ばかり、食べていてはだめですよ、姫。体をひや……ひやさないようにしないと」
「お前も女官のようなことを言うのか」
今まで散々言われてきたことと同じことを言われ、オルティアは苦い顔になった。
それを見た雫はほろ苦く微笑むと、女王の手を取って「わたしが出来ることでしたらなんでも」と頭を下げたのである。






妊娠が判明してから、オルティアなどはラルスが来なくなるかと思っていたのだが、彼が来訪する頻度は同衾する必要がなくなっても以前と変わらなかった。ふらりとやって来てはくだらない話をしたり部屋のものを弄ったりし、最後には彼女の体調を確認すると帰っていく。
腹の子供が心配なのか単に退屈なのか、分からないながらもオルティアは適当に彼をやり過ごしていた。
しかしある晩、ラルスはやって来るなり彼女に上着を着せ抱き上げると、そのまま転移陣を使って連れ去る。
男が彼女を連れてやって来たのは、ファルサス城の奥にある中庭の一つだった。

人影のない広い庭。
静寂が辺りを支配し、昼は鮮やかな花でさえも夜の中その色を潜めている。
ところどころに石像が置かれ、整然と切り込まれた植え込みは草の上に深い闇を投げかけていた。
月だけが照らす真夜中の風景。何処か落ち着かない景色をオルティアは唇を曲げて見回す。
男の手を借りて地に下ろされた彼女は、己の腹の子の父である男を見上げた。
「何だ一体。何のつもりだ?」
「お前に精霊を継承させる」
「は?」
精霊と言えば、勿論何を指すのかオルティアは知っている。
ファルサス王家に代々伝わる上位魔族の使い魔。
王族の魔法士しか継承できないそれを、どうして自分が継承し得るというのか。
呆気に取られてしまった彼女にラルスは立ち並ぶ石像を指差した。よく見るとそれは大きく円状に配置されていることが分かる。
「正確には腹の子に継承させる。普通なら無理だが、俺はちょうど自分の精霊継承を放棄しているからな。
 それと合わせればなんとかいけるだろ。いけるいける」
「いけるって……妾はファルサスの人間ではないのだぞ! それを無責任な……」
「お前がどこの国の人間であろうと、その子は俺の子供だ」
きっぱりとしたラルスの言葉は大きくはなかったが、反論を許さない静かな力があった。絶句するオルティアに王は続ける。
「俺は腹の子の父親として子供を守る為に出来るだけの手を打つ。
 特にお前は狙われやすいからな。大人しく受けとけ」
オルティアはただでさえ一国の女王なのだ。その上、別の大国の王の子を身篭っていると知られれば、他国からも暗殺の手は伸びるだろう。
ファルサスにおいて歴代の王妃はその懐妊の間、王の手によって守られてきた。
だがオルティアだけはそれが為されない。ラルスはその代わり王家の精霊によって彼女を守らせようと、そう言っているのだ。

さすがにすぐには返答出来ない彼女を、ラルスは石像が円を描くその中心に立たせる。
背後に立ち詠唱をし始めようとして―――― しかし彼はふっと視線を泳がせると、庭の奥を見た。
暗くて見通せない林の先、闇の奥を青い瞳が睨む。
「……昔、この庭の更に奥で女を殺そうとしたことがある」
「は? 痴情のもつれか?」
随分唐突な話だが、オルティアはそれくらいでは驚かなかった。興味なさげに、しかし一応の礼儀として問う。
男は彼女の相槌に目を閉じて笑った。
「違う。が、似たようなものだな。私情を以って殺そうとした。
 まだアカーシアも持っていない子供の頃の話だ」
―――― この男は私情で女に向かって王剣を振るうのか。
オルティアは全力の公私混同に皮肉を挟みたくなったが、ラルスはそういった常識に囚われるような人間ではない。
男の口調がいつになく沈んだものに聞こえたこともあって、彼女はその言葉を飲み込んだ。代わりに別のことを聞く。
「それで? 途中でやめたのか。殺そうとした、ということは殺さなかったのであろう?」
「いや、負けた」
「え?」
思ってもみなかった答にオルティアは目を丸くする。
いくら子供の頃の話とは言え、この男が負けるというのは何故か想像が出来なかったのだ。
彼女の驚愕に、背後に立つ男は穏やかな声で先を紡ぐ。
「負けた。叩きのめされた。俺は殺そうとした女に打ちのめされて、敗北を刻み付けられた。
 俺を嬲っている間、女はずっと笑っていたな。今でもあの声は忘れられない」

暖かい風。
草が揺らぎ、ささやかな音を立てる。
夜の庭は誰もいない。他には誰一人動かない。
まるで深い海の底のようだ。
オルティアは後ろから聞こえてくる男の声さえ、非現実の一部であるようにその場に立ち尽くしていた。
積み重ねられた王家の暗部の、その欠片を見ているのだと直感すると身を震わせる。

「どうした? 寒いか?」
「いや……それでどうしたのだ?」
聞かない方がいい。
そうは思ったが、聞かずにはいられなかった。
ラルスは自分の上着を脱いでオルティアの肩にかけると小さく笑う。
「どうにもならなかったぞ。俺は女の隙を見て逃げ出しただけだ。
 怪我はレティが治してくれたが理由は言わなかった。勿論父にもな。
 いつか王になってアカーシアを継いだら、その時もう一度殺そうと思っていて……だが女はその前に死んだ」
男の声は淡々として、真の感情を読ませない。
自分のことでさえまるで本を読み上げるように話していく。
だがそれは、感情がないということではないだろう。オルティアは自身の過去をも振り返って口を噤んだ。
ラルスはふっと息を吐き出すと、女の肩を叩く。
「まぁそういう訳で、力はあるに越したことないぞ。何があるか分からないからな」
「……分かった」
飲み込みきれない思い。
周囲を閉ざし圧してくるものが何であるのか、分からないはずがないだろう。彼女はそれをよく知っている。
彼ら二人は初めから音のない海中に立っているようなものだ。
空には遠い、不自由な世界を泳ぎ回っている。そこを出ては生きられない。



オルティアは頷く。
詠唱はすぐに始められた。
夜に溶けていく声。染み込んでくる男の声を彼女は黙して受け入れる。
やがてその詠唱が二十分にも及ぼうかという頃、石像の一つが音もなく形を変えた。美しい女の姿となって二人の前に跪く。
長い緑の髪を後ろで束ねた女は、ラルスを見上げると温度のない声で問うた。
「王よ。私はこの方につけばよろしいので?」
「ああ。アカーシアの契約にはないが俺の正妃みたいなものだ。子が生まれるまで守ってやれ」
誰が正妃だと反論しようとしたが、ラルスに王妃を娶る気がないことはオルティアも既に分かっている。
ならば彼の子を産む自分だけが「正妃に準じる存在」なのだろう。他には誰もいない。彼は誰も選ばない。
王の命を受けた精霊はオルティアに向かって頭を垂れた。
「かしこまりました。王妃よ、私の名はリリア。これから貴女をお守りいたしましょう」
「……オルティアだ。よろしく頼む」
かつてその強大さの為に神とも呼ばれた上位魔族。
その一人を側に置くことになったオルティアは途方もない気分を飲み込んだ。溜息をつくと上着を手で押さえる。
果たしてこれから生む子はどのような人生を送るのか。
父に似た生か、母に似た生か。一生を閉ざされた世界で過ごすのか。
―――― もし叶うのならそのどれでもでなければよいと、オルティアは口には出さず願った。

そしてこの半年後、彼女は一人の男児を産み落としたのである。