盲目の魚 09

禁転載

ゆっくりと大きくなっていく腹部に、何かしらの強い感慨を抱いたわけではない。
ただ不自由なことが増え、眠気が強くなり、気がつくと思考が鈍重になっていただけだ。
そんな時、オルティアはいささかの苛立たしさを帯びて気を引き締める。
あとどれくらいで出産になるのか、日数を数えながら気を紛らわせる。
それでも腹の中で何かが動いていると感じる時、彼女の心はいつも「今」を離れて遠い未来へと放たれた。
人が人の命を繋いで作る流れ。
その中に自分が確かに立っているのだと、女王は己の子によって深く実感するのだ。



「ヴィヴィア」
その名を呼ぶと縫い物をしていた女は顔を上げた。黒茶の瞳が女王を見る。
「はい。姫。どうなさいました?」
オルティアが臨月近くなった頃から、雫は城に泊り込むようになった。
膨らんだ腹以外は頼りない体のオルティアが心配で仕方ないのだろう。常に傍について仕えるようになったのだ。
そこまでしなくていいと何度も言ったが彼女は退かない。そして実際、オルティアも気を抜ける相手が近くにいてくれることは嬉しかった。
日常の細やかなことから先回りして助けてくれた友人を女王は苦笑して見つめる。
「人を呼んできてくれ。痛い」
「…………それって」
「多分そうだ。産室の準備を」
「うっわああ! 待っててください!」
お前が落ち着けと、言いたいくらいの勢いで雫は執務室から飛び出していった。その背を精霊が面白そうに眺める。
この半年間オルティアをあらゆる危険から守ってきたファルサスの精霊は、机を回ると女王に手を差し伸べた。
「王妃よ。お連れします」
「妾は妃ではないというのに」
言いながらも女王は小さな手を精霊に取らせる。
体が浮き上がる不思議な感覚。すっかり慣れきった力の行使にオルティアは小さく笑った。
自分の足に拠らず空中を滑っていく途中、精霊の声が聞こえる。
「出産中は痛覚を遮断いたしましょう。貴女はあまり体力がおありでないので」
「そうだな。頼む」
痛みは決して得意ではない。オルティアはその申し出を受け入れると深く息を吐いた。
駆け込んできた女官や医師たちに案内され、用意された産室へと向かう。
すぐ後ろを小走りについて来る雫が、まるで自分のことのように青褪めているのに気づくとオルティアは笑った。
「そう心配するな。大したことではない」
「姫……」
出産によって命を落とす人間は後を断たないが、オルティアには精霊がついている。
ファルサス王家に仕えるこの精霊が「生まれてくる子供の安全」のみならず女王自身をも守るよう命じられている以上、危険は無にはならないとしても限りなくそれに近いのは確かだった。
精霊の干渉によって痛みは感じなくなったが、しきりにつかえる違和感に産室に着いたオルティアは浅い息をする。握る為の手を探して相手を呼んだ。
「ヴィヴィア、傍にいろ」
「はい」



苦しいと、確かに感じるにもかかわらず、思い出すのは澄んだ海の青だ。
硝子の瓶に詰められた水。海底から仰ぐ遠い海面。
あの輝きを越えて外に出られたのなら、どれ程楽になるのだろう。
―――― そう思った時もあった。自分だけがこの海底に横たわっているのだとも。
けれどそれでもいいと、今は思っている。
全てが変わらずとも充分生きていけるのだと。

生きることは不便で不自由だ。
だがそれはそれでいい。苦しくて構わない。
彼女は意識の断片で遠い海面を仰ぐ。
明るく澄んだ青。空に近いその場所。
そこに漂う者もまた渇えていると、今では知っているのだから。



出産までには九時間がかかった。
元々体力のないオルティアがそこで弱りきってしまった為、精霊が補助に加わり何とか赤子を無事取り上げることに成功したのだ。
血に濡れたまま産声を上げる子を、まずは沐浴させようと女官が控えの間に連れ出す。だが女王はそれを呼び止めた。
「見てみたい。連れてまいれ」
「ですが陛下、まだお清めが……」
「構わぬ。ヴィヴィア」
「はい」
雫は生まれたばかりの子を抱き上げると顔の血だけを軽く拭う。
そのまま母となった女王の前に連れてきた。オルティアは友人の腕の中で泣いている生き物を見ると、疲れきった顔を顰める。
「小さい」
「当たり前ですよ、姫……」
「これ程小さいのに睫毛があるぞ」
「そうですね」
雫は「抱いてみますか?」と言いながら女王の胸の上に赤子をそっと寝かせた。オルティアの手を取って小さな体を支えさせる。
大人の誰しもが忘れてしまったであろう大きな泣き声。
全力で生きていることを示すその存在を、オルティアはまじまじと見つめると―――― ただ黙って目を閉じたのである。






生まれた子は一週間後、精霊と共にファルサスへ帰っていった。
迎えに来たラルスはその場で報酬の支払いやキスク王位継承権の放棄を手続きすると、オルティアに「手間をかけさせたな」と言い残して去る。
産後一ヶ月女王に付き添い続けた雫も、オルティア自身が「もうよい」と言って夫のもとに帰らせた。
約一年間続いた非日常。
それはようやく終りを告げ、女王はいつもの平穏へと戻る。
当たり前の日々は実に過ぎ去るのが早い。
時折ファルサスを訪ねた雫から、自分の子の近況を聞かされる度、オルティアはそう実感せざるを得なかった。
あれ程忘れられないと思った妊娠時の煩わしさもいつの間にか記憶から薄れていく。
自分が本当に子を産んだのか、それさえも茫洋として思えた。
ファルサスで育つ我が子に会いに行こうとは思わない。その子はオルティアの子であって、キスクの子ではないのだから。
けれど幸せそうに育っていると……そんな話を聞く度、彼女の心は少しだけ温かくなる。自然と笑みが零れる。
そうして八ヶ月が過ぎた頃、彼女は再び彼と出会った。



「よ、行き遅れ」
「…………」
あまりにも腹が立つと、人間何も言えなくなるらしい。
オルティアは機嫌のよさそうな男を前にしながら、一体どういう切り口で切り込めばいいのか、それとも無視した方がいいのか真剣に悩んでいた。結局簡単に「ついにお前も三十歳だな」と返す。
ファルサスにて毎年行われる王の生誕を記念した式典は、ガンドナの建国記念の式典と並んで、大陸諸国がお互いの関係を窺う為の外交の場となっている。五ヶ月前にあったガンドナの式典は体調不良にて欠席した為、一年ぶりに諸国要人の前に出てきた女王は、主催国であるファルサスの王を冷たい目で見上げていた。
「第一妾はまだ二十一だ。行き遅れと言われる筋合いはない」
「でも夫のなり手がいないんだろう? 性格のせいだな」
「半分はお前のせいだ」
オルティアがファルサス国王の子を産んだという事実はいまや誰もが知っている。
そしてそれは様々な意味で、女王の夫になりたいと思う男たちに二の足を踏ませることになっていた。
常々「それくらいで怯むような男は要らぬ」と公言してやまない女王は、相変わらず性格の悪い男に出くわしたことで激しく顔を顰めたが、彼に引き留められていてはどんどん疲労が蓄積してしまう。大体の用事はもう済ませたことだし、さっさと国に帰った方がいいだろう。
オルティアは軽く手を振って「またな」と言いかけ―――― だがその手を捕まれたことに、ぎょっと驚いた。
「まぁ待て。折角来たのだからセファスに会ってけ。ほらほら」
「ちょ……っ! 待て! 自分で歩ける!」
「よし! 走るか!」
「待てというのに……!」
手を引かれていく、というよりは半ば小脇に抱えられて広間を出て行く女王を、残っていた客たちは唖然として見送る。
こうして第三十代ファルサス国王ラルス・ザン・グラヴィオール・ラス・ファルサスの誕生日を祝う式典は、うやむやのうちにその幕を下ろした。



抱えられて走っている間は舌を噛まないよう口を閉じていたオルティアだが、下ろされたのならまず「どれだけ非常識なのだ」と文句を言おうと思っていた。まったく彼は長く会わずにいてもほとんど変わっていないのだ。果たしてこんな男が父親で自分の子がちゃんと育っているのか、さすがに不安になってくる。
だが全ての言葉は、彼が「ほら、母親を連れてきたぞ」と言って、彼女を下ろした時に消えうせた。
広い部屋。その入り口に立ち尽くすオルティアは、青い瞳でじっと自分を見てくる幼児を見つけると息を飲む。
白い肌に黒茶の髪色。瞳の色も全て父親譲りだろう。けれど顔立ちはどちらかと言えば母親に似ていた。
まだ性別の分かれていない美しい容姿。好奇心に満ちた目は、父親の声に反応したのか大きく見開かれる。
ラルスに向かって寝台をずり落ちてこようとする子。その体を傍についていた精霊が床に下ろしてやった。
ゆっくりと四つ這いで近づいて来る我が子を二人はその場で待つ。
ようやく息子が手の届くところにまでたどり着いた時、ラルスは小さな体を抱き上げ、オルティアに向かわせた。
「お前の母親だ、セファス」

何の不安も持たず、ただ伸ばされる小さな手。
透き通る青い瞳は澄んで自由な空だ。
無垢で伸びやかな魂は、父とも違う、母とも違う。
違う時を生きていく、新しい――――

柔らかな指が頬に触れる。
覗き込んでくる瞳。あどけない笑顔が彼女に向けられた。
何も言えずにいたオルティアは、両腕を伸ばすと我が子の体を抱き取る。
そうして名前を呼んで寄せ合う体は……涙が出るほど温かかったのである。