盲目の魚 10

禁転載

「お前が父親をちゃんとやれているとはな」
眠ってしまった我が子を女官と精霊に任せ、ファルサス王の私室へと移ったオルティアは、部屋に入るなり率直な感想を投げかけた。
皮肉のような褒め言葉のような評価を受けた男は笑いながら寝台に座る。
「色々面白い。見てて飽きない」
精霊曰く、ラルスは仕事の手が空いた時はほとんど子供に付ききりになっているのだという。
それを非常に意外に思ったオルティアは、だが彼の妹に対する執心を思い出すと幾分納得した。
「お前は本当に身内には甘いな。大方妹が嫁いでしまって淋しいのであろう」
「いや? 気が楽になったぞ。これであいつを殺す可能性が減った」
「―――― は?」
何だかおかしなことを聞いた気がする。オルティアは自分の耳を疑って男の顔を見た。
寝台に座る王。ラルスは穏やかな表情で窓の外を眺めている。
そういう顔をしている時、男が冗談を言わないことを既に彼女は知っていた。
王はオルティアの視線に気づくと顔を傾けて彼女を見やる。
「どうした、オルティア。お前も俺がレティを溺愛していると思っていたか?」
「……違うのか」
誰しもがそう思っていただろう。
傍若無人で人を人とも思わぬ男。その唯一の例外が血を分けた妹なのだと。
だが問われた当の王は少し眉を上げて微笑しただけだ。青い瞳に昏い空虚が浮かぶ。
「オルティア、簡単なことだ。少し考えてみればいい。
 身内同士で殺しあったファルサス王族の最後の二人が、本当にそんな愛情で結ばれ得るかどうかを」
低い声はさざなみのように暗い部屋に行き渡った。
その飛沫を受けたオルティアは足下を掬われたかのような愕然に、ただ男を注視する。


六十年前の狂王の即位から約二十五年間続いたファルサスの内乱。
それは王族同士の血で彩られ、多くの犠牲者を生み出した。
欺きあい騙しあい、疑いあって殺しあった彼ら。
数十人もいた直系のほとんどがこの争いの中息絶え、その人数は激減したのだ。
結果、ラルスの時代には彼と妹の二人しか残っていない。


「そうだな……お前には話しておくか。セファスを産んでくれたことを感謝しているからな。
 これは子供には伝える気のない話だ。―――― だからお前には伝える」
それはファルサス王家を蝕んだ醜悪極まりない話。
三十五年前には決着がついたと言われていた闘争は、けれど水面下ではその後も長くくすぶり続けていたのだ。
『誰が裏切っているのか分からない』
二十五年間王族全員を支配したその疑惑は、闘争を終わらせた王の長子、ラルスの父の時代にあってもまだ残っていた。
臣下たちや血族に裏切り者が残っていないか疑い続けた父は、もっとも近しい血縁であった自分の妹が王族であることを放棄して他国に嫁いだ時、ようやく安心して彼女に向き合うことが出来た。
その正直な思いを苦渋混じりの顔でラルスに吐露しながら彼は、その上で息子に叩き込んだのだ。
―――― それでも血族を疑えと。

「実際父は口だけじゃなく徹底してたぞ。
 ファルサスの貴族出身だった母を『王を毒殺しようとした』という疑惑で暗黙裡に処刑したんだからな。
 まあそれは偽の情報だったわけだが」
「…………」
「とにかく俺は『誰も信じるな』と叩き込まれて育った。当然レティもだろうな。
 だからこそ俺には一般の兄が抱くような愛情はない。
 俺がレティに向けているのは、ただの覚悟だ」
「覚悟?」

オルティアは月光しか光源がない部屋で、息苦しさを感じて喘ぐ。
夜の中閉ざされた部屋は、まるで水が隅々までを満たしているかのようだ。
誰もが入って来れぬ場所。
不自由な海を泳ぐ二人だけが、今この場で世界を同じくする。
寝台に座す男はオルティアの問いに唇を上げた。躊躇いなく情味のない声を響かせる。
「覚悟だ。争いを起こさないというただそれだけの覚悟。
 ……俺は母が殺された時もその結果に納得した。母を死に至らしめた情報が何者かの流した偽りだと知った時もな。
 誰にでも間違いはある。それが悲劇を生み出そうとも、王であるなら飲み込まざるを得ないこともあるだろう。
 だから父を責めなかった。その姿勢が間違っているとは思わなかった。
 ―――― 間違っていると思ったのはその六年後、母を殺した過ちを履き違えた父が、罪人を解き放とうとした時だ」
男の声が嘲弄を含んだ。
陰惨さが染み出してくるような声音。オルティアは低くなった声に背筋を強張らせる。
「母を殺してしまった父はそれをずっと気に病んでいたらしい。そこまでは個人の自由だ。好きに悔恨の涙を流せばいい。
 だが父はそれだけに留まらず贖罪として別の女を牢から解き放った」
「別の女?」
「ああ。こちらは正真正銘の罪人だ。王族たちを誑かし争わせた妖女。
 ただその人格はとうに失われたと思われ、長い間幽閉されていた。記憶もないと思われていたんだ」
記憶の中で何かが震える。
オルティアはその話の先が分かる気がして、口を開いた。
「……お前が殺そうとした女とは、その女か」
「当たり。俺はあの女が元の人格と記憶を残しているのではないかとずっと疑っていた。
 母を殺させた情報の出所もその女ではないかと思っていたくらいだ。父に牢を開けさせようとしたのもな。
 だから俺はある晩、剣を持って女のところへ走った。正式に女が解放される前に先の憂いを取り除こうと思ったんだ」

その結果はオルティアも知っている。
彼は敵わなかった。
殺そうとして、逆に叩きのめされたのだ。そしてそれを誰にも言わなかった。
「何故父に言わなかった? その女にやられたのだと」
「誰にも知られたくなかったからな。言っても信じてもらえなかっただろうし、実はあまり思い出したくない。
 だがその時以来俺はいつかその女を殺すことと―――― レティと争わないことを覚悟として決めた」
少年だった彼がその時何を思っていたのか、ラルスはそこまでは語らない。今でも表に出そうとはしない。
だがオルティアには彼の思考の軌跡が不思議と見える気がして沈黙した。
「誰も信じるな」と叩き込まれ、その方針もまた王として当然と考えていた彼は、罪人を解き放つという父の過ちを目の当たりにして―――― おそらくそこで初めて自分に与えられた教育を疑ったのだ。
しかし疑おうとも染み付けられたものは拭えない。欠けた愛情は生み出せなかった。
結果、王として作られた彼は欠落を補う為、自分だけの覚悟を選んだのである。
「争いが王家を疲弊させた。まぁ血族結婚を繰り返したせいで、捩れた情念が纏わり付いていたってのもあるだろう。
 だからせめて俺の代では権力闘争はしないでいようと思った。
 レティを優先して大事にして、それでもあれが俺に反するというなら、王にふさわしい方が玉座につけばいい」
彼が長らく王妃を娶らなかったのは、争いに加わる人間を減らしたかったという理由もあるのだろう。
王家の影に巻き込まれ命を落とした母を見た彼は、同じような立場の人間を作り出したくなかったに違いない。
「あれの方が俺より優れた王になるというなら、俺はすぐにでも死んでやる。
 そうでないならあれを殺す。それだけのことだ。要らん争いをすることはない」
だが、その妹ももう城を去った。
彼のもとに残るのは何も知らない子供だけだ。



オルティアは男を見つめる。
月の光によって青い光を宿す寝室。ここはまるで海の中のようだ。
そして彼ら二人は閉ざされた海中を泳いでいる。
水から出られぬまま、縛られた己をよしとして。

「……お前に子供が育てられるのか?」
続いてきた連鎖を断ち切れるのか。止められるのか。
彼に向かい合う唯一の人間としてオルティアは問う。
僅かな沈黙。
だが男はその問いに笑って、女を見上げた。
「当然だ。こんなものは何一つ持ち越さない」



伸ばされた手。
それが何を思って伸ばされたのか、今は考えない。彼女はその手を取る。
抱き取られる体。膝を抱える女の耳元で彼は囁いた。
「セファスは何も知らない。だから信じられる。
 ……大分違うものだな。そういう存在がいるということは」

普段と変わらぬ声。
だが、紛れもない安堵にオルティアは嘆息する。
暗い部屋。誰も来ない部屋。
あの場所で泣いていたのはいつのことか。
今は遠い時。
だが決して忘れられぬ記憶。
あの時違えられた道は、今も取り戻せぬままだ。

「……信じられるのか?」
「ああ」
「なら―――― また産んでやってもよい」

この道筋は彼らを最後に終わる。
ここから先には続けない。
何も伝えはしないだろう。空を美しいと思った、この思い以外には。

「また? だからお前を信じろと?」
少しの皮肉が混ざる声にオルティアは首を振る。
愛情を誰よりも期待しない男。
向かい合わぬ相手に向かって言を紡いだ。
「妾ではない。お前の子供を信じろ。新しい時代を生きる子だ」
希望さえも同じものは必要ない。
子は子の夢を、未来を、時代を、自らのものにして。
そうして彼らは礎となって死んでいく。長い歴史の一部に埋もれていく。



思いもかけぬ言葉を受けた王は腕の中の女を見下ろした。
彼を見ない横顔を見つめ……我に返ると喉を鳴らして笑う。
「分かった。どうせお前も夫を選ぶのが面倒なんだろう? 何人欲しい?」
「お前の面倒と一緒にするな! 全部はやらぬからな!」
「その辺は相談だなー。実は娘も欲しかった」
「何故かお前には娘をやりたくないと思うぞ……」

生まれたばかりの子を抱いた時、涙が滲んだことを覚えている。
言葉にならないあの感情が未来への思いだというのなら、それを重ねていくのもいいだろう。
空虚を抱えた彼らは束の間交差し、新たな世代を生み出す。
そうして新たな時を行く子供たちの道はきっとずっと、温かなものとなり得るはずなのだ。






翌朝、王の部屋を出たオルティアは、もう一度我が子に会いにその部屋を訪れた。
目覚めたばかりの息子が遊んでいる子供部屋。その寝台に座った女王は、傍のテーブルに置かれた置物に気づく。
「これは……」
「ああ。王妃のものとお揃いなのでしょう? 王がそう言って与えてらっしゃいましたよ。セファス様のお気に入りです」
精霊の説明にオルティアは目を丸くして硝子の置物を見つめる。
青い水の中に二匹の魚が泳ぎまわっている硝子飾り。
彼女の部屋にあるのとまったく同じそれを眺めたオルティアは、ややあって小さく吹き出すと、笑いながら我が子の体を抱き上げたのである。