飛ばない鳥 02

禁転載

男の挨拶は物騒なことこの上なかった。
彼の姉は確かまだ二十代半ば過ぎ、死ぬには若すぎる年齢だ。
それが突然どうしたというのか。事故よりも策謀を疑ったレウティシアに、アルノは軽く補足の説明を加える。
「昨日自ら首を吊りました。屋敷に戻れば調査報告書もございますが、提出いたしましょうか」
「……そうね。一応お願い」
「かしこまりました」
自殺と言われて素直にそれを信じるほど、レウティシアは純朴ではない。
第一、事前の調査書では彼の姉は少々高慢なところのある自信家ということだったのだ。そのような性格の人間がはたして自縊などするだろうか。
男の申し出に肯定を返しはしたものの、彼女の表情は晴れない。
もし女の死が策謀によるものであれば、調査報告書にもその手が入っている可能性は高いだろう。
既にこれは起こってしまった時点で「終わってしまった」話ではないのかと彼女は疑ったのだ。
だが、まだ何も肝心なことは分からない。レウティシアは大分先まで行ってしまった思考の手綱を取ると改めて男を注視した。
育ちのよさがよく現れた顔つき。しかしそれは言い換えれば、年齢の割りに苦労が染み付いていないということでもある。
ガルヴァノ侯は既に老齢で床から起き上がれない日も多いと聞く。その後をまもなく継ぐのであろう男がこんなのほほんとしていていいのだろうか。
レウティシアは蒼い瞳を少しだけ細めてアルノを見やった。彼は困ったように肩を縮こめる。
「他にはよろしいでしょうか、殿下」
「ええ。時間を取らせてごめんなさい」
「なら私から一つ質問をさせて頂いてもよろしいでしょうか」
「何かしら」
少しだけ意外な要求に、レウティシアは零れ落ちた黒髪をかきあげた。冷めた視線が男の茶の双眸を捉える。
「先程の話です。貴女はご自分が第一王位継承者である為にこの城に留まり続けていらっしゃるので?」
今まで幾度となく聞いた問い。彼女はその意味を悟って苦笑した。
通常、王族の姫は十代のうちに結婚して城を出て行く。
その理由が政略結婚であれそれ以外であれ、レウティシアのように成人後三年が経過しても城に残っている王妹は珍しいのだ。
つまりこの質問は「結婚する気がないのか」という意を婉曲に示したものであり、今まで彼女の前に現れた数多の求婚者たちは揃って同じ問いかけを口にしていた。この男もその列の中に加わる気なのだろうか、と一瞬考え、彼女は首を縦に振る。
「そうね。兄には子がいないから。もし後継が出来れば城を出るつもりはあるのだけれど」

―――― 白々しい、と。
唇の端が僅かに上がる。その欺瞞を誰よりも自身がよく知っている。
真実が一つに集約されるのなら、人はもっと分かりやすく生きられるだろう。だが、そんなことは極稀だ。
レウティシアはふっと息をつく。
気だるい焦燥。男はそのささいな仕草に視線を寄せた。刹那、茶色の瞳に鋭さが浮き上がる。
「……なるほど。殿下はよい妹君でらっしゃる。不躾な質問、大変失礼致しました」
アルノはさっさと踵を返すと夜の廊下に消えていった。あまりにも唐突な退場にレウティシアは虚を突かれて目を瞠る。
まさか本当に城へ残る理由を聞かれただけとは思わなかった。だが現にそうなのだろう。彼女は警戒を解くといびつな微笑を口元に浮かべる。
「よい妹? そんなこと……」
兄も自分も思っていない、とレウティシアは声に出さず呟いた。



『血族を疑え』とは、ここ数十年ファルサス王族の間に共通して植えつけられてきた観念である。
それは六十年前、廃王ディスラルが狂乱によって多くの血族を惨殺した事件から始まっており、彼の王の死を以って凶行が終わった後、密やかに王族たちを蝕んだ。
血縁たちを王剣によって葬り去ろうとした狂王には、直系の中に正体の知れぬ協力者が複数名いたという。
ならば誰がそうであるのか。誰が誰を裏切り、誰と通じているのか。
拭いきれぬ疑惑の果て、いくつかの変死事件を引き金とし、残された王族たちは玉座と矜持と情念をかけて争い始めた。陰謀が宮廷に巣食い、唐突な死と失踪が溢れた。
そしてその結果……直系王族の人数は激減してしまったのだ。
今はラルスとレウティシア、二人の兄妹が城に残るだけであり、最後の直系である彼らもまたそれぞれ教え込まれている。
――――『己の血族を疑え』と。



レウティシアが大広間に戻った時、既に式典は終わりかけていた。
招待客もまばらになった中を彼女は縫って歩き、文官の一人を呼び止めると兄のことを尋ねる。
普通の思考では計り切れない彼は、今夜も招待国の王にもかかわらず、きりのいいところでさっさと自室に戻ってしまったらしい。
彼女はその報告に頷くと兄の私室へ足を向けた。子供の頃とは異なり、見慣れた扉を自分の手で叩く。
「誰だ?」
「私です。兄上」
「入れ」
軽い声はあの夜のものとは違う。今の彼は本当の姿をレウティシアに曝すことは滅多にないのだ。
それを喜ぶべきか悲しむべきか分からぬ彼女は、寝台に座る兄を前に「妹」として美しく微笑んだ。
「また途中で帰られたのですか」
「面倒だからなー。ちゃんと最低限は仕事したぞ」
「最低限ではなく標準でなさってください」
「平凡はつまらないぞ」
ああ言えばこう言うのは子供と同じだ。レウティシアはそれ以上の忠言をやめると、兄の前に跪いた。長い髪が床につくのも構わず頭を垂れる。
魔法で動く飾り時計。その中の数字が変わったばかりの日付を示した。それを確認するまでもなく彼女は口を開く。
「二十八歳となられましたこと、心よりをお祝い申し上げます」
こうして日が変わる瞬間、兄に祝いの言葉を述べるのも、もう数年来の習慣だ。
一年ごとに確認していく心中。ラルスはそれを聞くと真顔のまま頷く。
「そうか。そうだったな。まだ二十八か」
若くあることを厭うような呟き。レウティシアはその述懐に口を挟まなかった。顔を上げると同じ蒼い瞳と目があう。
「もう、二十八です」
「そうかもしれない。が、先は長いな」
ファルサス王が玉座に在る期間は平均して約三十年。
王でありながら王剣の主人であることも求められる彼らは、ほとんどの人間が二十代で即位し、子がやはり二十代になる五十代半ばで退位する。
だがこのままいつまでも後継が生まれなければ、その期間は更に延びていくだろう。―――― 彼ら二人が今のままの均衡を保つ限り。

倦怠感と、言いようのない虚しさ。そんなものが胸中を駆け抜けていく。
レウティシアは体の中に息苦しさを抱え込んでしまったような気がして目を伏せた。滑らかな動作で立ち上がると再び頭を下げる。
「失礼します」
毎年この日だけは、兄に背を向ける瞬間、消しがたい緊張を覚える。
だがそれを押し隠して立ち去ろうとする妹に、ラルスは澄んだ声をかけた。
「―――― レウティシア、欲しいものはあるか?」
ただ問う。
そこに私心はない。兄としての愛情も。
だからレウティシアは振り返らず、全ての感情を殺して答えた。
「ございません、陛下」

こうしてまた、新たな一年が始まるのである。






レウティシアが王家の精霊を継承したのは五歳の時だ。
彼女は直系の女性がしばしばそうであったように強大な魔力を持って生まれ、その力によって精霊一人を支配下においた。
継承の儀式後、城の奥庭には十一体の像が残り、それは動乱の時代が過ぎ去ったことを意味していると見ていいだろう。一時期は八体の精霊が使役され、その主人たちが相打ったことさえあったのだ。
継承に立ち会っていた父王は遠い目で精霊の像を眺めると、まだ幼い娘を見下ろす。
「レウティシア、これでお前も王家の魔法士だ」
「はい、父上」
「その力を有効に使いなさい。ファルサス王家には二つの義務がある」
王である父の言葉を疑ったことなど一度もない。レウティシアは姿勢を正し彼を見上げた。
逆光で父の表情はよく分からず、ただ口元に蓄えられた髭だけが動いて見える。
「一つは民を守り国を支える義務。そしてもう一つは血を繋ぎアカーシアを継いでいく義務だ」
「アカーシア、を……」
「そうだ。もっと大きくなった時に王家の口伝を話してやろう。それまで今の二つを肝に銘じていなさい」
「はい」
レウティシアは素直に頷く。父の言葉がなおも重々しく続いた。
「いざと言う時に力を惜しんではいけない。手段の是非に迷うこともやめなさい。迷いが即敗北に繋がることもある」
王はそこまで言うと、しかし口調とは反対に力なくかぶりを振った。まだその意味が分からぬレウティシアは、一人沈黙する。
そうして城に戻る父の後をついて歩き出した彼女は、何気なく「その問い」を口にした。
「アカーシアを守るということは、私は兄上の守護者となればよろしいのですね」
王剣の主とそれを守護する魔法士。この組み合わせは三百年前からファルサス王族の要となる一対なのだ。
そして自分もその片翼となるのだと期待に似た高揚を抱いていた彼女は、しかしこの時、振り返った父の目に冷水を浴びせられた。
重い悔恨とそれを上回る諦観。それらを生み出す源泉が普通でないことはレウティシアにも分かる。
だが当時の彼女はまだ何も知らなかったのだ。どうして許可なしに兄と会ってはいけないのか。その理由たる何もかもを。
「レウティシア、お前はラルスを殺せる人間になりなさい」
―――― それが、彼ら二人の父親である王の言葉だった。



そこから先レウティシアの記憶は、断片化し穴だらけになってしまっている。
覚えているのは大人たちの目を盗んで、勉強中の兄に会いに行ったこと。
それなりの魔力は持っているが精霊を継承していないラルスは、妹が精霊を得たという話を聞いて笑った。
「そうか、これでお前も王家の魔法士か」
「兄上は精霊を継承されないのですか?」
ラルスはレウティシアほど魔力はないが、長い詠唱を伴って儀を行えば充分に精霊を使役できるはずだ。
そう思って問うた彼女は、だが父に続いて兄にも裏切られることになった。
未完成ながらも秀麗な顔立ちの少年は机に頬杖をつき皮肉げな笑顔を浮かべる。
「しない。俺が精霊を連れたら、お前、俺を殺せなくなるだろ?」



記憶は断片化し……彼女は兄に何と答えたか、覚えていない。