飛ばない鳥 04

禁転載

殺風景な部屋。その奥から自分を呼ぶ声に、九歳のレウティシアは硬直した。
息を詰め、気配を窺い、そうして部屋の奥を窺う。
今ここで実の兄に殺されるという可能性。それは決してあり得ないものではないだろう。
いつ何が起こるか分からない。真実など自由に書き換えられる。そうして過去幾人もの王族が葬り去られてきたのだ。
ならば何故、そのような可能性を分かっていながら来てしまったのか。皆が寝静まった夜更け、内密の呼び出しに応じたりしたのか。
自問を重ねる彼女を少年の声が呼ぶ。
「来い、レウティシア」
反論を許さぬ強い声は、けれどこの時だけは何故かいつもの自信が薄れ、乾いているかのように聞こえた。
レウティシアは開かれたままの控えの間の扉を抜けると、恐る恐る奥へと進み始める。
緊張の空気が張り詰め、息をするだけで何か失敗を犯しているような気さえした。
どのような予測も全て虚しく思え、彼女は意を決すると兄の寝室へ踏み込む。
紗布の下ろされた寝台。部屋の中でももっとも存在感のあるそこに、彼女は兄がいるのだと思い近づいた。
だが一歩を踏み出した途端、薄い肩を横から引かれてレウティシアは悲鳴を上げそうになる。
何とかその声を飲み込んで自分の隣を見上げると、そこには髪の濡れたラルスが立っていた。
少年は蒼ざめた顔色で妹を見下ろすと、すぐ後ろにあった椅子に体を投げ出す。
「治せ」
言われて初めてレウティシアは、兄の状態に気付いた。
彼は水でも浴びたのか、全身ずぶ濡れの上に袖のない室内着を羽織っていたが、その様子が尋常でないことは一見して分かる。
腫れあがった腕、あちこちにつけられた裂傷、痣、火傷、刺し傷。
そして更には脇腹に深手を負ってでもいるのか、手で押さえられた下の布には真っ赤な血が滲んでいた。その赤い染みはみるみるうちに範囲を広げ、見えない傷の深さを窺わせる。今まで見たこともない兄の無残な姿に少女は絶句した。
「兄上、いったい何が」
「いいから治せ。痛い」
不愉快そうな兄の声にレウティシアは我に返る。
確かに事情を聞いている場合ではない。彼女は兄の前に屈みこむと、脇腹を見せてくれるよう頼んだ。
ラルスがそれに応えて上着を脱ぐと、痣だらけの上半身の中、鋭く切り裂かれた腹部が目に入る。
―――― 魔法の傷だ。
おそらくは空気の刃ででも斬られたのだろう。内臓に届く一歩手前の深い傷にレウティシアは震える手をかざした。まずは血止めをし、続いて治癒の詠唱に入る。
出血が多い。痛みもかなりのものだったろう。なのに何故水を浴びるような真似をしたのか。それとも浴場で襲われでもしたのだろうか。
色々な考えが頭をよぎる。だが今はそれらを脇に押しやって彼女は治療に専念した。痛みを消したせいか兄の表情が少しだけ和らぎ、感情の読めない瞳が妹を見下ろす。
「レウティシア」
彼女の名を呼ぶ声は生彩を欠いていた。
普段の強さも威圧もほとんど感じられない声。そういったものが全て剥ぎ取られ苦味だけがまぶされた声に、レウティシアは冷えたものを覚える。
「何でございましょう、兄上」
「誰にも言うな」

沈黙は時に何よりも雄弁だ。
たとえばこの僅かな静寂に、「生きていることが苦しい」と吐露したくなるほど。

ようやく塞がりかけた腹の傷から顔を上げ、少女は兄を見つめた。
ぶつかりあう蒼い瞳。声にならぬ声。同一でありながら相対して育てられた彼らは、変えられぬ立場に刹那思いを馳せる。
そうして彼女は自分が何であるかを知って―――― 人知れず絶望した。






「そうね。そうかもしれないわね」
男の言葉に肯定で返すと、アルノは僅かに眉根を寄せた。
少しだけしか見せない表情は、だが確かに苦を知っている者の貌である。もはや彼の第一印象を単なる表皮として押しやっているレウティシアは、作り物めいてたおやかな微笑を浮かべた。
「信じたくないわけではないの。そうではないわ。私はただ、やりたいことと違うことをしているだけで」
「ええ」
二人の頭上を白い鳥が飛んでいく。緩やかな弧を描いて風を切る様はまるであらかじめ道を選んでいるかのように美しかった。
レウティシアは飲み込めない煩わしさを抱えてアルノを見つめる。
「いつもそうなの。ただ私は……」
長い間喉につかえ続けてきたもの。その飛沫を吐き出すように、彼女は続く言葉を口にしようとした。
けれど寸前で我に返る。
一体何を言おうとしていたのか、レウティシアは自分の愚かしさに気付いて愕然となった。束の間の熱が引いていき、後にはただ自嘲だけが残る。
言葉を嚥下した喉が覚える痛み。彼女は声の代わりに溜息を吐き出すと力なくかぶりを振った。
「ごめんなさい」
「構いません」
―――― 疲れているのかもしれない。
或いは自由に広がる景色の中、自分だけが異物のように感じられたのだろうか。
レウティシアは目を閉じた。ほんの二、三秒、その間に意識を切り替え、精神を統御しなおす。
瞼を開けるとアルノは先程までと変わらぬ穏やかな目で彼女を見ていた。そこに自分を心配するような色がないと分かってレウティシアは安堵する。
彼女は肺の中にある空気を全て外気と交換してしまうと、作り慣れた笑顔を見せた。
「お邪魔してしまってごめんなさい。そろそろ帰るわ」
「もうよろしいので?」
「疑われることが好きなの?」
冗談めかして切り返すとアルノは困ったように笑った。一歩退いて礼を取ると女の蒼い瞳を見つめる。
「またいつでもお越し下さい。心よりお待ちしております」
社交辞令には聞こえぬ声音。レウティシアはその強さに目を丸くした。
風が穏やかにそよぐ。一刻ごとに姿を変え波打つ緑の海を、鳥の影が伸びやかに滑り丘の下へ消えていった。



息を抜けた、と思ったのは城に帰るその時までだった。
見慣れた自室に戻ったレウティシアは、寝台の上に体を投げ出し目を閉じる。
この場所に戻れば、また現実が待っているのだ。
いつか下さなければならない決断と直面し続ける日々。その重圧に胃の中が焼け爛れる思いがして彼女は顔を歪めた。
「ねむりたい……」
小さな呟きはいつからか彼女の口癖となってしまった言葉だ。
そうして彼女は眠ることを厭いながら休息を求めて、また過去の夢の中に落ちていくのである。






大怪我を負ったラルスが彼女を呼び出した翌日から、二人の兄妹の関係は変化を見せた。
それまで妹に必要以上関わらぬようにしていたラルスは、彼女を見つけると笑顔になり愛称を呼んで手招きするようになったのだ。
その親しげな態度にレウティシアは激しく困惑を覚えたが、それでも兄の温かさに触れられることは嬉しかった。
口止めされた怪我のことや、兄が父に対し冷淡になったことなど、気になることを挙げていけばきりがなかったが、彼女はそれらを兄に任せて新しい日常を受け入れることを選んだのだ。―――― もっともその時には既に遅くはあったのだが。



少年の指がテーブルの隅にあった硝子の器を開ける。
中から白い紙包みを一包取り出したラルスは、それを開けて中の粉薬を確認した。水差しから水をくみ出すと何のためらいもなく白い粉末を水で飲み干す。兄の私室で同じテーブルについていたレウティシアは、怪訝に思って空になった紙包みを指差した。
「兄上、それは何の薬ですか?」
現在彼は何の病も煩っていない。怪我も全て完治しているのだ。ならば何を飲む必要があるのだろう。
純粋な疑問として呈した問いに、ラルスは軽く笑ってみせる。
「内緒」
「何ですか……害のないものならば別にいいのですが」
「ないぞ。お前も飲むか? とっても苦い」
「要りません」
巻き添えでそんなものを飲まされてはたまらない。慌てて首を横に振る妹に兄は優しげな目になった。



父王は親しくなった兄妹に何も言わなかった。
或いはラルスが父に何かを言ったのかもしれない。少なくとも許可を取らずに兄と会うなと、レウティシアが注意されることはなかった。
それを幸運に思いながら、けれど彼女は常に周囲を窺うような緊張感に包まれ、手探りで毎日を送っていく。
欲しかったもの、手に入らなかったもの、すべきこと、望まれたこと。
そんなものたちに囲まれ、徐々に自分を完成させていく。



「レウティシア、欲しいものがあったらいつでも言え。花でも玉座でも俺の首でも」
「何も……ありません、兄上。何も欲しくはないのです」



彼女は顔を上げる。余裕に満ちた笑みを見せ、力を示しながら魔法士の頂点に立つ。
たとえこの生が苦悶に満ちたものなのだとしても、歪に作られてしまったのだとしても、主体は彼女一人だ。最後の選択を下すのは彼女自身だ。
だから嘆いているところは見せない。揺らいでいるところなど微塵も。少なくとも兄はそうして生きている。
王に忠誠を。国に献身を。狭間に作られた細い道を彼女は歩んでいく。
力を行使し、為したくはないことを為し―――― だがそれをまるで自ら望むかのように見せながら。

そして彼女は夢から覚める。






朝起きた時、部屋の中は妙に蒸し暑く、彼女は全身に薄い汗をかいていた。
重い半身を起こしたレウティシアは染み付いた習慣で枕元の小さな瓶を開けると、中から白い丸薬を一粒取って口に含む。
かつて兄の薬をこっそり味見した時は非常に苦く感じられたものだが、今はまったく無味であるところが面白い。
レウティシアは自室の浴場で汗を流すと、魔法着を着こんで仕事へ向かった。

廊下でかつての部下と出会ったのは、この日が彼の出仕日である為だ。
今は非常勤として月に一度だけ研究発表に出てくる男―――― エリクは「ちょうどよかった」と言うと挨拶もそこそこに研究資料を渡してくる。
相変わらず独自の視点から非常に完成度の高い論を呈してくる男の資料に、レウティシアはその場で立ったまま目を通した。
いくつかの疑問点を指摘し、続く研究の予定を聞き取りながら、数ヵ月後の研究会に彼を出席させるかどうか迷う。
「そう言えば、ヴィヴィアの勉強の調子はどう?」
「順調ですよ。まだ一人で生活出来るほどではありませんが」
「結婚すればいいのに」
「そういうことを権利の濫用と言うのでは? この世界に基盤を持たない人間へ要求するようなことではありません」
異世界から来た女の教師を担っている彼は、妙なところで律儀であるらしい。
起きた時から何処かぼんやりとしているレウティシアは、男の言葉を半ば無意識の上に滑らせながら、ふと窓の外を仰いだ。
雲一つない青空。その下を白い鳥が一羽悠然と翼を広げて飛んでいる。
「……でも、だからこそ家族が欲しいこともあるわ」
ぽつりと返した返答は、彼女のものにしては力ない素朴な言葉だった。
レウティシアはすぐにそのことに気付くと動揺を面に出さぬようエリクを見上げる。
彼は、少し驚いているようにも見えたが、いつもと変わらぬ平然にも思えた。不審に思われないうちに彼女は資料を書類の中に纏めると、男に手を振る。
「私はもう行くわ。必要資料があったら要望書を出しておいて」
「分かりました」
研究室に向かう彼とすれ違い一人になると、レウティシアは歩みを緩め束の間目を閉じた。
しかしそこに生まれた闇の中には、帰りたいと思う景色の一つも浮かんではこなかったのである。