飛ばない鳥 05

禁転載

ファルサス直系が背負う責務とは二つ。
『一つは民を守り国を支える義務。そしてもう一つは血を繋ぎアカーシアを継いでいく義務』
ではその片方を放棄するものは、王たりうるのか。その資格があるのか。

―――― ああ……そんなことを聞かないで。



頭が痛い。
レウティシアは寝台から起き上がるとまずそんなことを思った。
実際に頭痛がするわけではない。ただ頭が割れるほど痛む夢を見ていたらしく、疼痛の残滓が残っていただけだ。
彼女はのろのろと寝台から下りかけて、ふといつもの薬を忘れていることに気付く。
振り返って瓶に手を伸ばし―――― だが、細い腕の自重に耐え切れないとでもいうようにその手を下ろしてしまった。
十五歳の時から欠かさず続けてきた習慣。しかし、それは本当に必要なわけではないのだ。ただ当然の備えとして服用し続けているだけで。
それは王族としては半ば常識の一つであったが、彼女はもっと別の理由からこの薬を飲んでいた気もする。
たとえば兄の見ているものを見たいと思った、そんな理由の為に。
「……別にいいわよね。飲まなくても」
零れ落ちた声音は乾ききったものである。
彼女はそのまま床の上に立ち上がると、あの日苦い薬を飲んでいた少年の苦々しい笑みを思い出したのだった。



ラルスの二十八歳の誕生日から既に半年以上が過ぎた。
その間王は重臣たちから幾度となく妃を迎え入れるよう忠言されているのだが、一向に隣に座す女を選ぶようには見られない。
いつまでそうしているつもりなのか。誰よりも王の態度に不安を覚えているのはレウティシアだ。
彼女は表面上普段通りの仕事をこなしながら、だがその内実は日々無形の圧力と向き合っている。
精霊を継承した時から少しずつ先延ばしにしてきた終わりに、彼女は今、ゆっくりと近づきつつあるのだ。

息苦しさに苛まれるレウティシアが僅かながらも安息を得られる場所は、城から離れた緑の草原においてである。
別に「いつ来てもいい」と言われたから向かうわけではない。
ただあの広い空と地の間に立つ時、彼女は少しだけ自由になれる気がするのだ。
理由もなく城を空けられるのはせいぜい月に一、二回。レウティシアはその機会をガルヴァノ領の草原で過ごし、いつしかアルノと親しく言葉を交わすまでになっていった。いつも何の連絡をせずとも彼女の姿を見つけて城を出てくる男を前に、その日もレウティシアは肩を竦める。
「それで、何なのこれ?」
「町の子供たちがよくこうして弁当を持ち寄って遊んでいるのです」
草原に敷かれた布はあちこちに刺繍が施され、縁には柔らかな毛が縫いこまれている。東国の職人が手がけたらしいその繊細なつくりはどう見ても青草の上に敷くようなものではないのだが、貴族として育った彼には違いが分からなかったのだろう。手近にあったものを持ってきたに違いない。
だがそれよりも不可解であるのは、敷物の上に座る男が籠から広げ始めた食べ物の方である。
おかしな形に焼けているパンに似た「何か」を、座り込んだレウティシアは手にとって眺めた。
「これ、貴方のところの厨士が作ったの?」
「私が作りました」
「……何故」
料理をする貴族などほとんどいない。ごく僅かいるにしても、彼がその僅かでないことは出来ばえを見れば明らかだ。
ならばこれは何かの悪戯なのだろうか。悩むレウティシアにアルノは人のよさそうな笑顔を見せる。
「私の父は子供が食事以外の時間に物を食べることを厳しく注意していたのです。
 なので未だに、このような時間に何かが欲しいと言っても厨士たちは私に食事をくれない。もう私も二十四なのですが」
「だから、自分で?」
「彼らの目を盗んでこっそりパン種を持ってきました。あとは兵舎の厨房で焼いたのですよ。少々形は悪いですが……」
そこまで聞いた彼女は軽くふきだすと声を上げて笑った。ころころと通る声が草原に響く。
「いいお父上ね。貴方も」
「次はもっと普通の形になるよう練習しておきます」
「次は私が作ってくるわ」
大陸最強の国家、その次の玉座にもっとも近い女の言葉にアルノは目を丸くした。彼女が貴族以上に珍しい「料理を嗜む王族」なのか真実を掴みかねているのだろう。問うことさえ迷っているらしき男に、レウティシアは手元のパンを割ると笑ってみせる。
「正式な教育を受けた魔法士は大抵料理が作れるのよ。魔法薬と料理は基礎が同じなのだから」
「知りませんでした」
「もっとも私、魔法薬の成績はよかったけれど料理を作ったことはほとんどないわ」
「……大丈夫なのですか」
自らもひしゃげたパンを手に取ったアルノは当惑顔で聞いてきた。その目にレウティシアはくすくすと笑って答える。
「やってみたいと思ったの。貴方のこれを見たら」
男の焼いたパンは味は悪くないのだがひたすら固い。
だがそれを嬉しそうに口に運んだ彼女は、今この時間がどれだけ自分を楽にしてくれているのか、そんなことを頭の片隅で考えていたのだ。



楽しい時間は疾く過ぎ去るとは言うが、その意味をレウティシアはこの年になってようやく実感出来た気がした。
他愛もない感想を言い合いながらパンらしきものを分け合って食べた彼らは、冷めかけたお茶を手に広がる景色を眺める。
温暖な国であるファルサスは、日が落ちかけても肌寒さを感じない地方の方が多い。
レウティシアは生温い風に髪をくすぐられ耳の後ろに指を伸ばした。髪全体を軽く梳いてまとめなおす。
「お父上の容態はどうなの?」
「芳しくありません。最近は政務も負担のようですし、近いうちに領主を代替わりさせねばならないでしょう」
「貴方が継ぐのよね?」
それ以外の可能性を疑ってもいない王妹にアルノは苦笑して見せた。
「どうでしょう。私はあまり出来のよい子ではございませんので。伯父は反対しております」
「貴方の能力が分かっていないのなら、その人間に見る目がないのよ」
レウティシアは自分が感じた第一印象を思い出しながらも、少し気分を損ねて言い放つ。
アルノの能力は領主としては充分すぎるほどだ。それは彼の手がけた仕事を見れば、そして彼と会話を交わせばすぐに気が付く。
だからアルノの伯父が彼の後継に反対するというのなら、彼ののんびりとした上面しか見ていないか自分の欲の為なのだろう。
そう指摘してやるとアルノは苦味の混じった微笑を浮かべる。
「伯父には私より三歳上の息子がおります」
「ああ」
つまり伯父は、その息子の方がアルノより有能であると言いたいのだろう。レウティシアは理解を得ると憤然として、そのことに対し口を開きかけた。
だがその時、男の肩越しに彼女は草原を近づいてくる人間を見つけて感情的な言葉を飲み込む。
貴族らしい豪奢な格好をした若い男は、はじめ堂々と歩を進めていたが、途中から彼女に気付いたのか小走りになった。レウティシアの前まで来ると驚愕を両眼に湛えながらも膝をつく。
「これは殿下、どうしてこのようなところで……」
「名乗りなさい」
「無礼をお許し下さい。グリスト・ネイラと申します。ガルヴァノ領主ゴルカ・ガルヴァノの甥にあたります」
レウティシアが横目でアルノを一瞥すると彼は苦笑していた。ということはこの男が問題の従兄弟で間違いないだろう。
グリストは王の妹が挨拶だけを返して彼の疑問に答える気はないと分かると、矛先をアルノに向けた。
「アルノ、父上が先日の書状の返答がまだ来ないとお怒りだ」
「既にお返ししましたよ」
「来ていないと言っている」
「またですか……。もう四度目ではないですか」
このやり取りから察するに、伯父はアルノに何かしらの苦言を呈し、その返答を握りつぶすということを繰り返しているらしい。
病床にある父を抱える彼に嫌らしく消耗を強いるやり方をレウティシアは不快に思ったが、彼女には権力がありすぎるため軽々しく口を挟むことは出来ない。少なくともどちらかの否が明白でないのなら、一族内の問題に直接介入は避けるべきだろう。
沈黙を守り続けるレウティシアを前に、アルノは彼女が聞いたこともない冷ややかな声を上げた。
「仰りたいことはよく分かりました。ですが今日のところはお引取り頂きたい。叔父上には後日私が直接お答えしに参りましょう」
この場にはレウティシアがいる。そのためアルノの返答は当然の配慮を含んだものだったのだが、グリストはそれを聞くと忌々しげに目を吊り上げた。
「それで父上も『自殺』とするのか? アルノ、ルアナの件はまだ終わっていないぞ」
姉の名を出されての揶揄にアルノは溜息をつく。
だが彼はそれだけで従兄弟には何も答えなかった。レウティシアに視線を移し微笑む。
「殿下、本日はありがとうございました。申し訳ございませんが私にはこの後少し所用がございまして……」
「ええ。もう失礼するわ。ありがとう」
彼女が立ち上がると二人の男は頭を下げた。レウティシアはその頭を一瞥すると無言で転移の構成を組む。
自由が終わり各人が義務の中に帰っていく時間。彼女はふと語られない遺書の話を思い出し、何処か悄然とした気分を味わったのだった。



城に戻ったレウティシアはまず自身の執務室に顔を出すと届けられていた書類に目を通した。その中にもはや見慣れた王妃候補の推薦状を見出し、眉を顰める。数年前であればこのような書類は彼女の元まで届かなかった。それが今や当たり前のことになっているということは、重臣たちももはや手段を選んでいられない段階に近づいているということなのであろう。
彼女は推薦状と添え書きをあわせ持って王の執務室を訪れた。日が落ちてもまだ仕事をしていたラルスは妹からの苦言に広い肩を竦めて見せる。
「王妃か。面倒」
「面倒ではそろそろ済まないのです。世継が出来ればそれで充分ですので、適当に選ばれてください」
「と、言われてもな」
「でなければいい加減私が兄上の寝室に女性を届けざるを得なくなります。強制的に」
出来ればそのような仕事は勘弁して欲しい。―――― そして、もっと先の役目も。

妹の苦言に王は蒼い瞳を窓の外へと向けた。
戯言さえもない空隙。レウティシアはそこに変化を感じ取って気を張り詰める。
しばしの沈黙の後、ラルスは彼女を顧みないまま口を開いた。低い声が二人の血族しかいない執務室に響く。
「身分が上であればあるほど行動に自由が利くと思っている奴らは多いが、ほぼ頂点にいる俺たちがそうではないことは事実だな。
 俺は気に入らない女を抱くのは好きじゃない」
「……兄上」
彼女はそのことをよく知っている。おそらく彼が思うよりずっと。
一番彼が嫌っているのは「蒼」ではなく「緑の瞳」だということでさえ。
「分かってる。どんな人間だろうとやりたくないことをやっている。そして俺たちもその中の一人だというだけだ。違うか?」
「違いません」
―――― けれどレウティシアはずっと疑い続けているのだ。
兄が本当はファルサス王家を憎んでいるのではないかと、その断絶を願っているのではないかと。
もしそれが真実なら彼女は動かねばならない。王家の義務を守るために。この血を伝えるために。
「レティ、そんな顔をするな」
振り返った兄の目は優しい。だがそれが愛情ではないことは最初から分かっていた。レウティシアは柔らかく微笑みなおす。
窓の外から注ぐ月光、青白い光が灯火よりも清冽に彼らの姿を照らした。部屋の半分を覆う影がゆっくりと頭をもたげる。
「兄上、どうか後継をお作り下さい」
残酷だと、欺瞞であると知っていてもそう言うことしか出来ない。
彼女にはそれしか出来ないのだ。自らの血に大きく抗うことは許されない。
そしてレウティシアはそのまま兄の言葉を待たず、執務室を後にした。