飛ばない鳥 06

禁転載

滅びぬ国など存在しない。
それはこの大陸に生まれ、暗黒時代の知識を得た者なら誰もが知っていることであろう。
かつて強大な力を有し、歴史を左右するほどに栄えた魔法大国トゥルダールでさえ、ある夜唐突に滅んだのだ。
国は、人と同じように死ぬ。
そしてそのことをよく分かっている者は、そうでない者よりずっと地道な努力をしなければならない。
自国だけは永遠と信じ込んだ時、国の礎は砂となり始める―――― それは既に歴史が幾度となく証明した事実でもあるのだから。



署名が入った契約書をもう一度読み直すとレウティシアは満足して微笑んだ。それを他のものと一緒にハーヴに手渡す。
彼女直属の魔法士となった男は一瞬その書類の存在に複雑そうな表情を見せたが、すぐに深く頭を下げた。他の契約更新書類と共に保管庫に移す為、金具で一まとめにし執務室を出て行く。
一年近く前、この城にいた二人の男女が遠い町で結婚したという知らせは、レウティシアに大きな安堵をもたらした。
それまで彼女はずっとエリクに雫を妻にするよう勧めていたが、ようやくそれが現実のこととなったのだ。
今のところ彼ら夫婦は他国の田舎町に住んでいるが、夫となった男は新しい生活の為であろう、ファルサスの正式な研究者となる契約に肯定を返してきた。出仕日数はあいかわらず月一回だが、そのようなことは関係ない。問題は、彼らに対しファルサスが権利を有しているか否かである。
「これであとはもうしばらくすればヴィヴィアとも契約を交わせばいいかしら……。キスクが欲しがるかもしれないけれど」
夫婦になったばかりの若い男女。彼らはそれぞれ「特殊な人材」だ。
男の方は、類稀な構成能力と発想、思考を持った魔法士ではあるが、それ以上に戦争において大きな役割を果たしうる人間でもあり、禁呪知識をその頭脳に蓄えた人間でもある。
そして彼の妻となった女は、或いは彼以上に危うい存在だ。別の世界から来た、まったく異なる文明の知識を有した人間。
二人は現在権力闘争に巻き込まれることを嫌って田舎町に住んでいるが、それで全ての人間が彼らを見逃してくれるほど甘いわけではない。
ファルサス・キスク戦時に最高位の防御結界を無効化し戦況を左右した男が野に下っていると知れれば、その力を欲しがらない国はないであろうし、ましてや彼は禁呪の管理者であったのだ。エリクはその知識を契約により口外出来ないようになっており、また公式では「記憶を消された」ことにされているが、それでも「聞き出してみないと分からない」と考える者は少なからず存在しているだろう。そういった人間たちを牽制する為にも、ファルサスが正式に彼と繋がりを持っているという事実は必要だ。

彼は権力者を好まない性格のせいか、ファルサスの庇護の下に入ろうとしたがらない。
だがレウティシアはそれを承知の上で、それでも男に報いたかった。せめて彼とその妻が二人、穏やかな一生を送れるくらいの計らいはしておきたい。
「それくらい……当然でしょう? カティリアーナ」
記憶は消さない。
エリクの中の禁呪知識の量は相当なものなのだ。
それをレウティシアの能力で消そうと思えば、人格に影響が出てしまう恐れもある。
その可能性は悲劇でしかないだろう。昔そうして現れた無垢な少女が、覚えのない罪を背負わなければならなかったように。
「カティリアーナ………………クレステア」
赤子のようだった少女。緑の瞳の女。
彼女のことを単一の感情で思い出すことはきっと一生出来ない。あれはまさにファルサス王家を体現する歪みの一つだった。

 『本当に、何も覚えていないの? 分からない? カティリアーナ』
 『レウ? どうしたの。わからない。こわいわ』
 『貴女なんでしょう? あの夜、兄上を……』
 『わからない。私じゃない』
 『お願い、カティリアーナ、貴女は』
 
もし人格が戻る時が来たなら、おそらくレウティシアが彼女を殺していた。
だが結局「カティリアーナ」は自ら選んだ男に「殺してもらった」のだ。彼女はそうして歪んだ生に幕を引いた。
そして今、残されているのは二人だけだ。兄と妹。王と断罪者。
「……違う」
―――― それは違う。どれも違う。
全ては少しずつ事実で、少しずつ虚偽だ。真実が一つに集約されることなどない。
若い夫婦に報いたいと思ったのも真実。国益の為に彼らを取り込みたいと思うのも真実。
彼女が王に仕える魔法士であることも、そして王に対する監視者であることも、真実。
泡沫に似て浮かび上がり弾ける思考はそれぞれが互いを否定しながら溶け合って消えていく。
そして飛べない淵の底に佇むレウティシアはそれら残滓全てを受け取って…………最後にはいつも虚脱だけが残るのだ。



机の上に乗っている書類は普段より若干分量が多い。単に今日は兄が城を出ている為、その分が回ってきているのだ。
今夜ガンドナで行われている建国の式典は、二百年程前までは一月に行われていたらしいのだが、現在は九月に開かれている。
ガンドナの式典もファルサスでの国王誕生日もどちらも外交の場である以上、立て続けに開かれるよりは半年以上間が空いていた方がどの国にとっても好ましいのだが、ガンドナからすれば王が代替わりする度に日程が変わるファルサスの方が譲るべきだと言いたいところであろう。幸いと言うべきか否か、ラルスの誕生日は二月だ。
レウティシアは一番上の書類から手に取ると書面に目を通し始める。
ラルスもラルスで通常執務は行っていった為、彼女のところまで来ているものは予定なく飛び込んできたものばかりだ。
それらを黙々と処理していった彼女は、ふと一通の要請書を見つけ顔を顰めた。
貴族の紋が捺された封書はレウティシア宛、差出人はグリスト・ネイラ―― 先日出会ったアルノの従兄弟だ。
「何かしら……」
彼女は嫌な気分を拭えないながらも封書を開き、要請書の内容を一読した。みるみるうちに美しい顔が不快に染まる。
再び封筒の中に手紙を押し込んだ彼女は、すぐさま転移してどういうことなのかアルノに聞き出したい衝動に駆られたが、兄のいない今日彼女までもが城を空けたら他の者が困ってしまう。レウティシアは苛立ちを押さえ手紙を引き出しに放り込むと、次の仕事に取り掛かった。そうしているうちに傾きかけていた日は完全に落ち、夜の闇が忍び込んでくる。

兄に持たせてある通信具から連絡が入ってきたのは、夜も更け式典も終わるだろうという時間だった。
既に自室に引き上げていたレウティシアは、魔法具から聞こえてくるあっけらかんとした王の要求に目を丸くする。
「シルファを? 何故です、兄上」
「転移陣を描かせたい。貸してくれ」
「構いませんが、何処から何処に転移陣を描くのです」
返ってきた答は信じられないものだった。
それを聞いたレウティシアは慌てて女官にだけ出かける旨を言付けてガンドナに跳ぶと、そこにいる兄から直接同じ言葉を聞いたのだ。
―――― 「オルティアにファルサス次期王を産ませる」という王の決定を。



「何故です」
はじめに感じたものは安堵。
「どうしてこのようなことを……」
けれどすぐにもう一つの可能性に気付いた。
「どうしてそんな顔をするんだ、レティ? 後継を作れと散々お前も言ってただろ」
「そうです。ですが」
ラルスの表情は読めない。いつもそうだ。彼女に兄の感情は読み取れない。
ガンドナ王宮内の控え室、彼の為に用意された豪奢な部屋で、血を分けた王と魔法士は向かい合う。
レウティシアはまるで崖縁に立たされたかのように、切迫した目で兄を見上げた。
「それは王妃をお迎えにならないということですか? 彼女を母親にして子だけを得るという」
「当たり。ちゃんと契約書も書かされたぞ」
差し出された書面にレウティシアは目を走らせたが、一連の条件に異議を申し立てたい箇所は一つもない。
王同士の契約、それも後継者を巡るものとしては妥当な条件だ。支払う報酬も当然の範囲内だろう。
だがレウティシアが動揺しているのは破天荒な契約の為だけではない。彼女は王の決定を聞いて恐れたのだ。
兄が何処まで見抜いているのかと……レウティシアの底、確かに存在するその真実を。

愕然と立ち尽くしてしまった妹を前に、ラルスは後ろに下がると椅子に長身を沈めた。
少しの皮肉を込めた両眼が五歳下のレウティシアを見つめる。
「レティ、不満か?」
「いえ、私、は……」
「それともキスクを滅ぼしてあの女を俺の隣に引き摺ってきた方がよかったというのか?
 ―――― お前は忠実すぎる、レウティシア」

『何に』忠実なのかは言われなかった。
だがそれでもレウティシアは全身を打ち据えられたかのような衝撃に硬直する。
やはり兄は分かっていた。知っていたのだろう。だから今まで王妃を娶らなかった。
きっとあの夜から見抜かれていたのだ。全て。全部。彼女が否定したかった最後の破片でさえ。



レウティシアは沸き起こる頭痛に目を閉じる。
まるで全身に茨が絡みついたかのようだ。断続的な苦痛が根底から彼女を縛している。
今までずっと目をそむけながらも彼女を苛み続けたものが顕になり、それが十数年の重みをもって圧し掛かってきた。
浅い息を吐きよろめきかけた彼女は、だが最後の意志でその場に踏みとどまる。何の感情も宿らぬ目で王を見つめた。
「陛下」
「どうした」
「私は、断罪者です」
「知っている。お前は王を守る者であり王を弑する者だ。そして代わりに玉座へとつく者。
 お前は、俺が子を作らないままなら俺を廃して即位しなければならなかった。
 自分が子を産むだけでは不十分だ。……俺がファルサス王家の在り方に否定的であることをお前はよく知っていたからな」
ラルスは長い足を組む。その膝に置いた指を弾く王は、全てを嘲笑うかのように冷めた目で妹までの距離を見やった。
周囲の人間からは親しい兄妹と思われる彼ら。だがその真実は埋まらない距離を無視して、それぞれの役割を演じ続けたきたというだけのことだ。
お互い本音を隠し通してきた彼らは、まるで今この時が十四年前の続きであるかのように向かい合う。
レウティシアは弁解するわけでもなく、ただ平坦な声音で兄の言葉を婉曲に肯定した。
「廃王ディスラル以降、ファルサスは『王の断罪者』を作らざるを得なかった、と父上は言っていました。
 あの事件時、直系の誰もがディスラルを止めることが出来なかった。それを二度と繰り返してはならないのだと」
「そうだ。六十年前からファルサスは王を止める者を必要とし、育てようとした。が、それも殺し合いの原因の一つだったろうな。
 口では何と言おうとも、一度玉座に座せば自分を殺し得る者を排除したくなる。まったく馬鹿馬鹿しい内輪揉めだ。
 結局、断罪者として完成したのはお前が初めてだろう? レウティシア」
「兄上が私を途中で殺さなかったから」
「そうだな」
―――― 知っていて、自由にされていた。
それは一つには余裕の現れでもあっただろう。
おそらく今でもレウティシアはラルスに勝てない。王を殺すことが出来ない。情の為ではなく、単なる力量差の為に。
だから彼女はやはり「断罪者」としても不完全なのだ。レウティシアは自嘲を覚えて唇を上げる。



『殺したくない』は言わない。それは思っていても口に出来ない。
彼女は床に跪くと頭を垂れた。乾いた喉から平素と変わらぬ声を上げる。
「シルファをお貸しします、兄上」
「ああ。俺はもう行く。あまり待たすとオルティアがへそを曲げるからな」
「お気をつけて」
レウティシアは精霊を呼び出し王に従うよう命ずると、その長身を見送った。
そうして一人取り残された彼女は、何も言わずに自分の部屋へと転移すると、永く病みつかれた人間のようにのろのろと寝台に横たわり目を閉じたのだ。