飛ばない鳥 07

禁転載

いつも外から見ていた丘の上の城。その中に足を踏み入れるのは初めてのことだ。
来客用の広間に通されたレウティシアは、柔らかな毛織物の椅子に身を沈めながら、天井に描かれた絵画を見上げた。
落ち着いた緑で彩られるなだらかな丘陵は、この城が治める領地の一風景なのだろう。彼女は緑の海に胸の熱さを覚えて目を閉じる。
それは喪失の痛みにも似て、得られなかったものを恋うようにも思えた。閉ざされた視界に青い空が浮かぶ。

待たされていた時間は長くはなかった。扉を叩く音にレウティシアが応えると、それは音もなく向こう側へ引かれる。
「殿下」
いささか慌て気味の声と共にやって来たアルノは、中に入ってくるなり彼女を見て眉を寄せた。だがすぐにその表情は丁寧な礼に隠れ見えなくなってしまう。
「急に訪ねて来てごめんなさいね」
「いえ。どういったご用件でしょう」
息抜きの為に草原に来ているのではなく、内密にではあるが「王妹」として彼を訪ねてきた女に、アルノはいつもとは違う固めの態度を見せた。
レウティシアは懐から一通の封書を出すと、差出人の紋を示してそれを叩く。
「グリスト・ネイラから再調査の要請書が来たわ。貴方の姉の死について、貴方による謀殺ではないかと。
 実際彼のもとには証人も二人いるという話。侍女と、貴方の姉の友人が」
「……向こうもなりふり構わなくなってきましたね」
「買収?」
「おそらくは」
レウティシアはアルノに座るよう命じると、その封書を間のテーブルの上に投げ出した。
だが彼はそれを手に取ろうとはしない。苦笑して彼女を見つめる。
「身内の揉め事に巻き込んでしまい申し訳ございません。グリストも貴女が先日ここにいらしていたのを見て焦りを覚えたのでしょう」
「余計なことね。このような要請書を送られなければ何もする気はなかったわ」
「私をお調べになりますか?」
「向こうを調べるの。もう密偵が向かっているわ」
アルノについてはもうとっくに調べ済みなのだ。今更要請されるまでもない。
むしろ数ヶ月も経って今更「証人」が現れる方が余程怪しい。レウティシアは指を弾くとテーブルの上から封書を消した。魔法着の下の足を組み、その膝を両手で抱える。
「調査の結果、虚偽の内容で貴方を陥れようとしているのなら相応の処罰が決定されるわ。いいわね?」
「お手数をおかけします」
今までレウティシアに頼ろうとしなかったアルノは、或いは親族に幾許かの温情を抱いていたのかもしれない。
だがそれも彼らの方が城を巻き込んだとあれば、もはや庇いようがないのだ。彼は憂いを帯びた微笑を見せると、小さく溜息をつく。
「あのようなことは二度と起こすまいと思っておりましたが、なかなか難しいようです。
 所詮、利害と矜持でのみ繋がれた一族ということなのでしょう。私もかつてはそうでした」
「貴方が?」
「ええ。だから姉は死んだのです」
男はそこで言葉を切ると、瞠目するレウティシアを見つめた。



アルノは侍女を呼び、お茶を替えるよう指示した。
現れた年配の女は丁寧な所作で、レウティシアが訪ねて来てすぐ出されていたお茶を取り替える。
男は自分に出されたお茶を手に取り一息つくと、「少し私の話をしてもいいでしょうか」と切り出した。
再び二人きりとなった広間で、レウティシアは多少の戸惑いを覚えながらも頷く。アルノは笑って礼を言うと口を開いた。
「姉は……ご存知かもしれませんが、高慢で気分屋の人間でした。
 幼い頃からそうで、よく理由の分からぬ八つ当たりをされた私は、彼女の理性のなさと理不尽さに呆れていたものです。
 母は早くに亡くなっておりましたし、父は教育のこと以外に関しては淡白でしたので、私に対する姉の行動を留める者はおりませんでした」
淡々とした声で己と姉について語るアルノは、穏やかなだけではない冷静さを持っている。
そして本来それが彼の性質だったのだろう。アルノはそういった自分に忌々しさを覚えているように、レウティシアには見えた。
「しかし十歳を過ぎ、後継者としての勉学が本格的なものになると、私は多忙もあって姉を無視するようになりました。
 彼女はいくつになっても私を見つけると、ちょっとしたことで非難し責め立てることをやめませんでしたので……。
 相手にするのも馬鹿馬鹿しいと思ったのです。反論すれば彼女を増長させるだけであると」
アルノの姉、ルアナがどういう人間であったのか、レウティシアは調査書の上でしか知らない。
今ここでこうして語られているルアナはだから、弟から見た彼女の真実なのだ。レウティシアは何も言わずに続きを待つ。
「特に成人してから私は、姉にかけた言葉をほとんど覚えておりません。彼女に私は何も言わなかったのです。
 逆に姉からは顔をあわせる度に多くの非難を浴びせられたと、今でもはっきり思い出せるのですが。
 当時の私は姉について何とも思っておりませんでした。いずれ誰かに嫁ぎ城を出て行く人間としか考えていなかったのです。
 そしてそのような自分の態度に疑問も持っていなかった。
 ―――― そのことを後悔したのは、姉が首を吊った後のことです」
悔恨の声が広間に響く。
この部屋に風は吹かない。二人は義務を負いし私人として向かい合い、相手の目を見つめた。
「遺書にぎっしりと書き込まれていた言葉は、全て私への恨み言でした。
 私が彼女にどのような仕打ちをしてきたか。話す価値もない人間だと侮蔑の目を送り、時には存在しない者のように扱ったと。
 彼女が私の気を引こうと考え抜いた言葉でさえ、私は風ほどの価値も見出さず無視したというのです。
 そこに書かれていたことは事実で、実際、遺書を読むまで私は自分の態度がそれほどの意味を持っているとは思っておりませんでした。
 次期領主と政略結婚に使われるであろう姉……そのような役割でしか自分も姉も見ていなかったのです」
悔いが男の顔に影を落とす。その下で、けれどアルノは優しく微笑んで見せた。
相手を思って浮かべる微笑。それこそがルアナの欲しかったものなのかもしれない。レウティシアは疼く痛みを覚えて睫毛を伏せる。
「私が同じことの繰り返しだと思っていた対応の一つ一つに彼女は傷つき、その度ごとに姉は自分の価値を見失っていった。
 自分などこの城に不要な存在だと思った彼女の行動はますます派手になり、絶えず遊び歩いて父の金で浪費をするようになったのです。
 ……その放蕩を私は蔑みました」
一拍置いてアルノは苦笑しなおす。
後悔が彼の纏う空気を鋭いものとして、だがそれでも男は微笑していた。それは彼なりの贖罪でもあるのだろう。
彼とルアナはすれ違い続けた姉弟だった。その真実をアルノは身に染みて知らされたのだ。男はレウティシアの視線に怯むことなく応える。
「城の式典の前夜に死んだのも、私へのあてつけであると書かれていました。
 ただ私はそのようなことより、手紙のあちこちが涙で滲んでいたことの方が余程堪えた。
 高慢な派手好き―――― 私が姉に抱いていた印象はそのようなものでした。だが、彼女はそれだけではなかった。
 本心を素直に出せない彼女の皮肉に、言葉を返す程度のことがどうして私には出来なかったのでしょう。
 ほんの少しでも笑顔を向けていれば彼女は死ななかったかもしれない。姉はそれが欲しかっただけだった」



自分を見て欲しいと、愛して欲しいと、大人になっても肉親に求め続けることは子供じみた我侭なのかもしれない。
だがレウティシアはルアナの行動と癇癪を愚かだと思っても、間違っているとは言えなかった。
そしてそれはアルノも同じであるのだろう。彼はお茶のカップをテーブルに戻すと、今は亡き姉の姿を探すように遠い目を彷徨わせる。
茶色の双眸が自分の上で止まると、レウティシアは不思議と泣きたい気分になって膝の上に爪を立てた。
「……遺書を焼いたのは、それを見られたくなかったから?」
「ええ。あれは私だけに宛てられた手紙でしたから」
「損なことね。それがあれば謀殺を疑われることもなかったでしょうに」
「それくらいの疑惑は負ってしかるべきでしょう。所詮彼らの弾劾など上面だけのことです」
おそらく姉が死しても、彼の道筋には影響がないのだろう。
幼い頃からそう育てられたように、領主となり侯爵となって一生を終えるに違いない。
ただそれはあくまで外的な部分に限ってのことで、アルノは確かに姉の死によって変化をきたしたのだ。
昔の彼を知らないレウティシアだが、いつでも笑っている彼を見るとその思いが分かる気がした。
アルノは穏やかな目で彼女に微笑みかける。
「初めてお会いした時……殿下が陛下のことを案じてらっしゃるのを聞き、失礼ながら羨ましく思いました。
 私が自身の愚かさによって失ってしまったものをお二方は持っていらっしゃる。
 ―― ですが、やはり王家の方はそう単純に言えるものではないとすぐに分かりました」
仄かに混じる苦味がそれでも温かいのは、きっとレウティシアに対してのものだからなのだろう。
男は草原に立つ彼女を見る時と同じ、凪いだ双眸で女の蒼い瞳を見た。その視線にレウティシアはたじろぐ。
―――― まるで全てを見透かされているようだ。
或いは、最初からそうであったのかもしれない。彼はレウティシアが零す惑いに困惑を返したことがなかった。
黙して次の言葉を待つ彼女は、彼から目を逸らしたくなって膝の上の魔法着を握りこむ。
それを察したのか、アルノは彼女を労わるように自ら視線を外した。窓の外を横切る鳥影に目を留める。
「何かありましたか、殿下」
彼がかけた言葉はそれだけだ。飾り気のない、気遣うだけの問い。
しかしその一言は彼女が必死で押し込めてきた淵を紐解くようで……レウティシアは嗚咽になりそうな息を一つ飲み込むと、十数年来彼女の内を焼き続けてきた「後悔」をぽつぽつと語り始めたのである。