飛ばない鳥 09

禁転載

その夢はいつも鮮明だった。
魔法の一閃で倒れた少年の体は彼女に背をむけており、傷口から溢れ出す血が真白い床に広がっていく。
広い空間には他に何もない。壁もなく磨かれた床だけがただ無限に広がっていた。
罪を犯した少女は呆然と兄の体を見つめる。原因のない結果に何も言えない。何も考えられない。
やがて自身の足を濡らすまでになった血溜まりの中へ少女は崩れ落ちると、力の入らぬ体で這いつくばり、兄に向かって震える手を伸ばすのだ。

そして彼女は自らの絶叫で目を覚ます。






レウティシアは手で覆った両眼をゆっくりと開ける。
何も見えない視界。だがそれこそが自分には相応しいと思えた。笑い出したい気分と泣き出したい気分が同時にこみ上げてくる。
まるで長い間乾ききった大地を歩き続けてきたかのようだ。
形容しがたい虚脱が胸を焼き、けれど立ち止まることも出来ない義務感に突き動かされ彼女は顔を上げた。厳しい表情のアルノと目が合う。
女の手を取ったままの彼は、彼女の意識を引き戻すように一度その手に力を込めた。
「殿下、貴女は本当にご自分がそのような人間だと思われてらっしゃるのですか? 十四年前の、たった一度のことで」
アルノの声音は彼女が初めて聞く強いものだった。一語一語を確認するような問いにレウティシアは力なくかぶりを振る。
「その時だけであったのは、単に兄上が私にそれから隙を見せなかったせいよ。
 もう一度同じことがあれば、やはり私は同じことを考えるわ。そして今度は誘惑に耐えられるか分からない」
あの夜、レウティシアは自分の中に生まれた考えに慄き、すぐにそれを押しつぶした。
だがほんの一瞬だけ生まれた欲をラルスは見抜いていたのだろう。翌日から人が変わったように優しくなった兄を見て、そしてその優しさの奥に愛情がないことを感じ取って、彼女は全てが気づかれていることを、そして自分が「生かされている」ことを確信したのだ。
微温湯に浸されたような檻の中、レウティシアは今までずっとあの夜のことを自身の中で塗りつぶすべく、兄への忠誠を盲目的に示してきた。
表面上は型破りな王の手綱を取るかのように立ち回りながら、その実、国の為に王の為に王家の魔法士として他を圧し続けたのである。
―――― だが、そんなことをしても忘れられるはずもない。



アルノは溜息をつきたげな顔で、けれど言葉のない息を吐き出すようなことはしなかった。
彼は真摯な目を女に向けるとしっかりとした声で諭す。
「殿下はご自分のことを悪く考えすぎていらっしゃる。それはただ陛下に『勝ちたい』と思われていたがゆえのことでしょう。
 夢に見るほどに悔いてらっしゃるというのに、何故叛意であるとお考えになるのです」
「叛意以外の何であるというの? ディスラルが廃されてからまだ六十年しか経っていないわ。
 その間私たちが出来たことはただ直系の人数を減らしたことだけ……所詮これだけの年月で何も変われたはずがないのよ」
「確かにたった六十年です。そしてファルサスにはもっと長い歴史がある。
 血族同士相争うことだけがどうして王家の性であるでしょう。直系の方々が互いを支えあい国を治めていた時間の方が余程長かった」
王族の女とそれに仕える貴族の男。
千年に及ぶ大国の歴史において今生まれつつある最端に位置する二人は、束の間それぞれの欠乏をもって見つめあった。
二十数年でしかない彼らの短い生がどのような形にくり抜かれたのか、その全てを把握することはきっと余人には出来ないであろう。
ただ彼らは似て非なる悔恨を自分自身へと向けている。その重みを抱え込んで、それでも進むことを余儀なくされているのだ。
レウティシアは苦々しい微笑と共に小さな頭を垂れた。アルノが取っていた手を離すと、女の華奢な体は椅子の背に沈みこむ。
何も映そうとしない碧眼。皆が美しいと誉めそやすその目が自身の白い両手を見下ろすと、もはや笑顔を浮かべていない男は彼女の隣に膝をつき虚ろな貌を見上げた。
「殿下」
「なに?」
「お疲れでいらっしゃる」
「ねむりたいわ」
とてもとても疲れたのだ。思考を閉じて眠りたい。
或いはそれは死にたいと思うことと同義かもしれないが、彼女に自らの死は選べなかった。
行くことも戻ることも消えてしまうことさえ出来ぬ彼女は、それでも緩慢に崖縁へと近づいている。
そこを落ち始めた後自分がどうなるのか、レウティシアは予感しながらも想像出来ない未来が、せめて自分の罪にふさわしいものであればいいと願った。



「私と賭けをなさいませんか、殿下」
少しだけ夢の中を彷徨していたかのような錯覚。椅子に体を預け目を閉じていたレウティシアを揺り動かしたのは、柔らかな男の声だった。
彼女が目を開けるとアルノの表情はいつの間にか微笑に戻っている。普段と変わらぬ彼を見て、レウティシアの意識は徐々にいつもの明敏へと戻っていった。彼女は艶やかに微笑むと計算されつくした優美さで首を傾ぐ。
「賭けを? どのような?」
「殿下のお考えが杞憂か否かです。もし陛下が貴女の仰る通り殿下を用心されて他国の女性を選ばれたのなら、
 お世継が生まれる前に殿下を城から遠ざけられるか、お世継をファルサスに連れ帰ってはらっしゃらないでしょう。
 けれどそのどちらもなさらないのなら、貴女の考えてらっしゃることは杞憂だ。
 ―――― どちらが真であるのか、賭けをなさってみませんか?」
レウティシアは沈黙した。
もし兄が彼女を敵対者として用心しているのなら、自衛能力のない我が子をレウティシアの手の届くところには置かないであろう。
彼女か子供か、どちらかを選んで引き離すはずだ。それだけの力が彼にはある。
けれどもし、それが彼女の杞憂に過ぎないのなら……。
生まれかけた期待をレウティシアは微苦笑を浮かべ振り払った。一度首を左右に振るとアルノを見下ろす。
「貴方は杞憂である方に賭けるというの?」
「ええ」
「ならば負けた場合、何をしてくれるのかしら」
「殿下に終わりを差し上げましょう」
男は間を置かず人のよさそうな笑顔で答えた。
だがそれがもはや一つの装いにしか見えないのは、レウティシアが彼の本質を知りかけているからだろう。
彼女は与えられた一滴に蒼い瞳を大きく瞠る。
「終わりを?」
「私でよろしければ僭越ながら。もし貴女が本当に王の敵対者でいらっしゃるというなら、この国の臣として貴女を排させて頂きます」
アルノの声には淀みがない。ただ茶色の瞳には冷徹とも言える鋭さが光っており、レウティシアは一瞥で彼が本気であることを悟った。
胸の奥が熱い。焦がれるに似た渇えが沸き起こる。
しかし彼女は叫びだしそうな衝動を嚥下し、平坦な声を作った。
「貴方が処罰を受けるわ」
「そうかもしれません。しかし陛下が殿下を本当に警戒してらっしゃるのなら、死罪にまではならないかもしれない」
レウティシアの脳裏に、かつて直系の女が禁呪を用いて殺された時のことが甦る。
あの時確かにラルスは、カティリアーナを殺した男を無罪にするよう主張したのだ。
ならば今回もそうなるかもしれないし、ならないかもしれない。不安を拭いきれない彼女にアルノは笑う。
「もし死罪であってもそれは仕方がない。人を害する以上、その責は負う覚悟です」
「貴方に私が殺せる?」
「正面からならば到底無理でございましょう。ですからどのような卑劣な手段を取ろうともお許し頂きたい」
「ええ」
「あとはもう一つ、これは必ずご承知置きください。―――― 私は貴女を殺したくはない」
冷静さを失わない態度と誠実な姿勢。それはレウティシアの中に優しさとして染み入った。
彼女は長い睫毛を揺らしてアルノを注視する。
かつて彼がどういう人間であったのか、今何を考えているのか、そんなことが自分でも不思議なほどに気になった。レウティシアは唇を少し上げて微笑する。
「貴方が勝ったのなら?」
「殿下がなさりたいことをしてくださればそれで」
「欲がないのね」
「要求は曖昧にしておいた方が思いもよらぬものを頂けるかもしれません」
悪戯っぽく笑う男は確かに大国の一領土を治めるに相応しい度量を持ち合わせていた。
そして彼の提案は実際、重みを二分するかのように、レウティシアの抱え続ける鈍痛を和らげたのだ。
確実に存在していながらも見えなかった終わりに「期限」が生まれた。そしてそこには断罪が付属する。
それだけでレウティシアは自分が安堵し、楽になったことを感じ取っていた。天井を見上げて小さな息を吐き出すと目を閉じる。

殺したくない、殺さなければならない、本当は殺したい。
だから自分はいつか、兄に殺されるのだと思っていた。
けれどその幕引きを自ら選んでいいのなら―――― 彼を巻き込んでもいいのだろうか。
「彼女」がそうして「彼」による死を望んだように。王家から腐れ落ちる実の一つとして。

「―――― その賭け、飲むわ」
「かしこまりました」
立ち上がったレウティシアが軽く手を振るとアルノもまた立ち上がる。
並ぶと彼女よりも少し背が高いと分かる男は、彼女の蒼い瞳を草原の上に広がる空のように眺めた。淋しげな翳が一瞬男の貌をよぎる。
彼は「自分の失ったものを彼女はまだ持っている」と言った。それは果たして誰かにとっての救いになるのだろうか。
レウティシアは誰にともなく祈りを抱く。ここで自分が死しても、兄には安らげる生が残るようにと。
そうしてアルノは自ら帰城する彼女を見送ると、最後に
「愛したいと思う感情と愛情との間にどれ程の差異がございましょうか」
と課題のような言葉を一つ残したのだ。



城に戻ったレウティシアは精霊の立会いの下、一枚の書面を書き上げた。
自分が死した時、アルノの責任を問わないようにと王へ嘆願する文書。彼女はそれに魔法で封をすると机の引き出しにしまいこむ。
それだけのことに晴れ晴れとさえして、けれどやはり残る空虚を抱えたレウティシアは己の精霊に問うた。
「貴女は、直系と戦ったことがあるのでしょう?」
「ございます」
「どうだった?」
曖昧な質問。だがシルファはその意味するところを理解して微苦笑する。銀の瞳が昨日を振り返るように細められた。
「主人の命令は絶対でございますから。ですがやはり虚しく思います。もとより人は僅かしか生きられぬものですのに」
数百年間ファルサス王家に仕え続けた精霊の言葉もまた真であろう。
レウティシアはその感想に首肯を返すと、定まりきらない感情を未来へと預けて嘆息したのである。