飛ばない鳥 10

禁転載

「残念だったな」
ぼそりと呟かれた言葉は女の耳には届いたらしい。
だが、既に喉に穴の開いた彼女は言葉を返すことが出来ないようだった。ひゅうひゅうと息の洩れる音をさせて床の上から男を見上げる。
天井が映りこむほどに磨かれた広間の白い石床は、いまやその面影が微塵もなく激しい戦闘のすえ血の海と化していた。
壁にまで飛び散った赤い滴は事態の凄惨さを誰の目にも明らかに示し、遠く離れた場所では顔を覆った少女がすすり泣いている。
仰向けに倒れたまま動けない女は、己の右手を踏みつける男を見つめた。
血にまみれた美しい貌。硝子球に似た蒼い瞳がゆっくりと光を失っていく。
命が失われる残照の時、彼女の小さな唇が二度、何かを伝えるかのように震えた。
だがその意味は彼には分からない。男は秀麗な顔を歪める。女と同じ蒼い瞳に抑えきれない感情が走った。
「愚かだ……死人に踊らされる私も、耐えられなかったお前も……」
小さな泣き声が濃い血臭の中を縫う。男は持っていた剣を手放し床に膝をつくと事切れた女の体を抱き上げた。破壊された窓の傍に歩み寄り、壁際で蹲ったままの少女を振り返る。
「貴女は同じ過ちを犯すな。テネステーゼ」
涙溢れる双眸が大きく瞠られた。少女の目に男は苦笑し、だがすぐにその表情を消す。
死した女の頬に顔を寄せ男は己の両眼を閉じた。冷えていく体を愛しげに抱き締めると、そのまま穴に向かって床を蹴る。
そうして数秒後、はるか下の地上から鈍い音が聞こえてくると―――― 少女は十指の爪で喉を掻き毟り、空を引き裂く悲痛な叫びを上げたのである。






終わりを約束してからの日々は、拍子抜けするほどに平穏なものだった。
まるで薬によって痛みだけを消したかのような毎日を、レウティシアは任せられた執務をこなして過ごしていく。
問題とも言えぬ珍事を一つ挙げるとすれば、ちょうどラルスがキスクを訪れていた夜、オルティアが国内の暗殺者に狙われたことくらいであろうか。
当然と言えば当然、女王は怪我一つ負わず事は片付けられ、襲撃に関わった人間たちは速やかな死を与えられたそうだが、彼女は処刑された男たちに微塵も同情を抱くことはなかった。
人を害そうと立てば己も害される。これは当然の認識であり、それさえ理解出来ぬ人間はそもそも死がお似合いであろう。
己の分を見誤れば待っているものは破滅だ。レウティシアはそれをよく知っている。与え手として、そして受け手として。
『もし彼女が殺されていたならどうしたか』
そんなことをレウティシアは王に問わない。兄の内へ踏み込もうとは思わない。
重要であるのはただ結果で、ラルスはオルティアを守った。ならば何がどうなろうとも彼は女王を守りおおせるだろう。
大枠のことは既に定まりきった未来だ。不定であるのはただ瑣末な装飾だけで、その装飾を処理すべく彼女は黙々と書類を片付けていく。
そうしてままごとのように穏やかな時間を経て―――― ある日レウティシアはようやく一通の手紙を受け取ったのだ。
封もされていない畳まれただけの手紙。けれどどんな重要文書よりも意味があるそれは、彼女と血を分けた兄からのものだった。



風はない。肌を焼く強い日差しが植えられた木々越しに降り注ぎ、庭の上にまだら模様を生み出している。
むせ返るような青臭さが踏みしだかれた草から立ち昇り、かつて親しんだその香りは一足ごとに流れていく時を巻き戻すかのように思えた。
彼女は額に滲む汗を拭い、一歩先を行く兄の背を見上げる。
鍛え上げられた男の長身は腰に佩く唯一の剣とあいまって揺らぐことのない強さを示していた。その強さに今は軽い緊張しか覚えずにいるのは、追いつけない差に抱いた感情が過去のものになったということなのだろうか。レウティシアは判然としない己の精神に黒い眉を上げる。
「レティ、長袖で暑くないのか?」
「慣れておりますので。兄上こそもっとちゃんとした格好をなさってください」
「こっちの方が動きやすいからな」
袖の短い平服を着た王は振り返らぬまま嘯く。城の建物から離れ広い庭を奥へと踏み入っていく二人は、それぞれの平常を保ち再び沈黙した。

『オルティアが身篭った』という一文と共に庭へと呼び出されたレウティシアは、ずっと待っていたはずのこの時を、しかし他人事のような遠さをもって受け止めていた。
これから先自分を待つものにまったく恐れを抱かなかったわけではない。ただそれよりも、ようやく解放されるという思いが勝ったのだ。
捻れてしまった王家の物語も、彼女の退場と共にもうすぐ終わるだろう。あとは兄と、彼の血を継ぐ子が新しい時代を生み出していく。
せめてその時代において誰か一人でも心から王を支える人間が現れればいいと、レウティシアは密かに願っていた。

ラルスは迷わず奥庭へと足を進める。もうこの辺りから先は、直系以外足を踏み入れることが許されぬ禁域だ。
ささやかな魔力の波が草の成長を制限し、自然のままに似せた林が緩やかに広がる。ここ数年来訪れていなかった風景を彼女は顔を上げ懐かしく見回した。
―――― 抵抗はするべきだろうか。
ふとそんなことを考える。
その行為で結果が変わるとは思わなかったが、無抵抗の死体が他者に見つかれば兄へのよくない評判が立つかもしれない。
それよりは自分が乱心し斬り捨てられたとした方が幾分ましに思えた。レウティシアはいくつかの構成を頭の中に浮かべる。
だが彼女がそうして意識を自分のうちに集中させた時、ラルスは唐突に足を止めた。彼は妹を振り返ると軽く笑う。
「よし、レティ。いいか?」
「……何でしょう」
王の蒼い瞳はいつでも感情を窺わせない。だからレウティシアは、その中に何かを見出せたことがなかった。
分かることは一つ、彼には「何もない」ということだけだ。王は誰も愛してはいない。そんな思いを抱かない。
―――― ただ、もし最後に尋ねてもいいのだとしたら。
彼女には聞きたいことがあった。ずっと喉元に引っかかっていた疑問。
「ほんの一年前、何故、魔女と相対する最前線から、自分を遠ざけたのか」と。
王自らが出る必要はなかった。それよりまず彼女を使えばよかったのだ。
その為の命だ。王を守る為の存在。そうでありたかった。そうなりたかった。だがラルスは彼女を後ろに庇った。
自分が死した時は彼女に女王となるよう言い含めて、彼は自身で魔女を殺しに向かったのだ。
それは果たして「アカーシアの剣士」としての義務からであったのだろうか。


聞きたい。
けれど聞けない。
レウティシアは微笑浮かべ王を見上げる。次の一言を機に構成を組もうと意識を集中させた。
ほんの一瞬の間に何人かの顔を思い起こし……だが、続く兄の言葉を聞いて彼女は目を丸くする。
ラルスはアカーシアを抜くことなく片手で奥の広場を指すと悪童のように笑った。
「レティ、俺の子に精霊をつけたい。構成を詠唱化してくれ」

兄の瞳には何もない。
何もないけれど「それ」に似たものを読み取って―――― レウティシアはその時ようやく、アルノの言わんとしたことを理解したのだ。






守りたかったのです。
だから力が欲しかった。
でも貴方はとても強くて、私はとても弱くて。
どうしたらこの翼の下に貴方を仕舞うことが出来ただろう。
ただ私はほんの少しだけ、貴方と共に飛びたかった。






オルティアとその腹の子にはリリアという名の精霊がつけられた。
残り十一体の精霊のうち、大人の態を取った女性の精霊が選ばれたのは、構成を構築したレウティシアの考えによる。
性別はともかく上位魔族たる精霊に外見年齢などたいした意味を持ち得ないように思えるが、それは実際、ある程度彼らの性格を象徴しているのだ。
子供の姿を取った者は好悪の感情が激しく、無邪気で残酷だ。一方老齢の姿を取った精霊は落ち着いて思慮深く、よく主人に忠言する。
ならば身篭った女王を守護するという目的において、比較的大人の姿をした精霊を選んだ方が問題ないだろう。
事実レウティシアの狙い通り、リリアは出産までオルティアを十全に守りきったのだ。



「小さいなー。やたらと小さい」
「あまり大きかったら母親の腹に収まりません」
「あれすごく膨らむよな? もげそうで見てて怖かった」
「兄上のその発想の方が怖いです」
母親から引き取ってきた赤子を抱くラルスは興味津々といった態で小さな生き物に見入っている。
その姿を離れた場所から呆れ混じりに見やるレウティシアは、改めて王太子の為に自分が手配した部屋を見回した。
薄い水色で纏められた部屋は清冽さの中に柔らかさをも持ち合わせている。
部屋の中央にある寝台は広くはあるが小さな柵で囲まれており、それを更に柔らかな布で丁寧にくるんでいた。
硝子を排した木の棚に並べられた玩具。全てが低く作られた部屋を見て、これから先何年この場所が使われるのか、彼女は定まらぬ未来を思って苦笑する。
そうしている間にも我が子が面白くて仕方ないらしい王は、人差し指で柔らかな頬を押し始めていた。
「兄上、あまりなさいますと泣きますよ」
「まだいける」
何がいけるのか。レウティシアは眉を顰めて兄の背を睨んだ。
窓際の椅子に腰掛け赤子を抱く王は、今は王剣を佩いていない。それは何かの拍子で王太子にぶつからぬよう、少し離れた棚に置かれていた。
緩みきっているわけではないが、ほとんどの意識を子供に向けている兄を見てレウティシアは小さな息をつく。初めて見る彼のそんな姿に自然と口元が笑んで、彼女は熱くなる瞼を閉じた。

―――― 今ならきっと殺せるだろう。
きっと彼も分かっている。それを知って背を向けている。
だからレウティシアは全ての息を吐ききって、そうして深く頭を下げた。
「兄上」
「何だ?」
「私、本日でこの城を出て行きます」
「どうした? 男でも出来たか?」
ラルスは振り返らない。兄はきっとこの時自分を見ないだろう。そんな確信がレウティシアにはあった。
「いいえ。ただ私の役割はもう終わりましたので。ここを離れ、何処か離宮へ移ります」
「そうか」
引き留める言葉はない。それが兄の優しさだと今の彼女は知っている。
愛情はない。だが異なるものはあったのだ。彼女がずっと心の底で切望していたように。
レウティシアは踵を返すと扉に手をかけた。その背に兄の静かな声がかかる。
「―――― レウティシア。お前は自由だ。何処へでも飛んでいけ」



ただほんの少しだけ、共に飛びたかった。
けれどその願いは叶わない。王は空へは飛び立てない。
だから彼女は一人で翼を広ぐ。遠く、王の手の届かない場所を目指して。



「兄上、どうぞお元気で」
「お前も」
彼女は笑って扉を引いた。そよ風が頬を掠め、空色の部屋へと吹き込んでいく。
新しい風と入れ違いに外へ出た彼女の背後で扉は音もなく閉ざされた。レウティシアは顔を上げ長い廊下を歩き出す。






これから何処に行くのか、全てを決めてあったわけではない。ただ南の離宮にでも移りしばらく体を休めるつもりだった。
歩きながらその為の支度を女官に命じると、彼女は足を止め窓の外を見上げる。
青く澄んだ空。その景色に数ヶ月見ていない緑の草原が重なった。レウティシアは領主継承間近で多忙を極めているであろう男のことを思い出す。
「一応……報告に行くべきかしら」
「いらして頂けるのなら光栄ですが、もう来てしまいました」
口の中での呟きにぼんやりとした声を返され、彼女は思わず飛び上がった。唖然として廊下に佇む男を見やる。
申し分のない貴族の服装をしながら、何処か気の抜けた印象を見る者に与える彼は、愛想のよい笑顔で彼女を見つめていた。
レウティシアは驚愕に彩られた声をアルノにかける。
「貴方、どうして」
「色々と情報も入りますもので。王太子殿下が城に移られたとの話を伺いました。それで……」
「賭けは貴方の勝ちよ。何か欲しいものはある?」
彼には、気付けばいつも肝心なところで先手を取られている気がする。レウティシアは敗北を認める代わりに顔を斜めにして男を見上げた。
まるで拗ねたような女の態度にアルノはにこやかに笑って返す。
「そうですね。もし希望を聞いて頂けるのなら……一度貴女の素直なところを拝見したい」
「え?」
「殿下はご自分の為に何かを欲しがったりなさらないでしょう。みな陛下の為、国の為、そしてご自分に振られた立場の為だ。
 ですから一度、我侭をされてみては如何ですか? 貴女は自由だ。私はそれをもっとよく知っていただきたい」
意表を突かれる男の要求にレウティシアは目を丸くした。
まさかこんなことを言われるとは思ってもみなかったのだ。何が欲しいか聞いているのに、逆に聞かれても困る。
欲しいものなど何もないのだ。欲しがってはいけなかった。だから答など思い浮かばない。分からない。
だが思わず自失しかけたその時―――― 頭の奥で男の声が問う。
『何が欲しい? レウティシア』



胸に抱く答はいつでも一つだった。



「……あの草原が……欲しいわ」
ずっと欲しかったものは口に出せなかった。それは最初からないもので、だから望んでも傷つけるだけだ。
「私の城がある草原ですか?」
「空も。風も。私、あの景色が好き。ほっとするもの」
「光栄です」
でも言ってみればよかったのかもしれない。彼は、それくらいの愚かさも受け止めてくれただろう。怖がっていたのはいつでもレウティシアの方だ。
「貴方も。貴方がいると落ち着く。自由を感じる。あの場所は貴方の場所だから」
欲しがることに慣れていない要求。たどたどしい言葉に、しかしアルノは穏やかな微笑を浮かべる。
彼は優雅な仕草で手を差し伸べるとレウティシアの右手を取った。
「それだけでよろしいのですか?」
茶色の目が泣きたくなるほどに温かい。自分のものよりもずっと空に近い双眸をレウティシアはじっと見つめた。
理由の分からぬさざなみが心を揺らす。その波を出来るだけ誠実に、彼女は言葉へと移した。
「貴方が、私にくれたものを、私から貴方に。それだけの時間が欲しいわ。長くかかるかもしれないけれど」
「ゆっくりとなさればいい」
アルノは了承の代わりに白い手の甲へ口付けを落とす。それだけの仕草に彼女は魅入られたように動きを止めた。
男は顔を上げると苦笑して彼女の頬に手を伸ばす。
「泣かないでください。貴女は本当にいつもそのような顔をなさっている」
「……泣いたつもりはないわ」
「私にはそう見えるのですよ、レウティシア」
畳まれ続けた翼を労わるように、アルノの手が彼女の髪を撫でていく。
全てを知り伸ばされる指。その掌の確かさにレウティシアは目を閉じた。



捻れた血の果てに生まれた魔法士は、時代の終わりと共に広い空へと飛び立つ。
そしてその最後の時間、彼女は一人残り続ける兄を思い―――― 去っていく城へ一粒だけ涙を残した。






緑の海は風に撫でられ鮮やかに波打つ。
伸びやかに広がる青空と美しく映える草原。いくつもの丘が並び緩やかに開けていく景色は、この地に生きる者全ての誇りだ。
季節に応じて多少の色を変えながらいつでも寛大な姿を見せる土地は、ひときわ高い丘の上に一つの城を抱いている。
その白い城から町へと下る青草の坂を、夕暮れ前一人の男がのんびりと下っていた。
鼻歌を歌いながら手に持った籠を振っている彼に、農作業をしていた中年の男は気付いて顔を上げる。
「あれ、領主様、どこへお行きになるんで?」
「ちょっとその辺ぶらぶらと。お腹もすいたので」
愛想よく笑う男は籠の中からパンを一つだすと、それを農夫へと渡した。自分も新しい一個をかじり出す。
焼きたてなのだろう、よい香りをさせる丸パンを農夫は複雑そうな目で見下ろした。
「領主様、夕飯前にパンを召し上がっちゃ、また奥方様に怒られんじゃ」
「レティが焼いていたパンがあまりにも美味しそうだったから。ばれなければいいんですよ」
「三つも減っていたら分かるに決まっているでしょう!」
突如頭上から降ってきた声。玲瓏な怒声に男は首を竦めた。一方農夫は苦笑いと共に空を見上げると「これはこれは奥方様」と頭を下げる。
転移で夫の真上に現れた女は蒼い目で彼をねめつけると音もなく草原へ降り立った。彼の持つ籠の中を覗き込む。
「執務室を抜け出したと思ったらパンまで持ち出して。子供のようなことをしないで頂戴!」
「ちょっと散歩するだけのつもりだったのですが……あっという間に見つかってしまった」
「当たり前よ。何処に行ったってすぐ分かるわ」
「レティには敵わない」
男は笑うと妻に向かって手を伸ばした。「置いていってすみません」という言葉に彼女は頬を膨らませる。
ゆっくりと暮れていく日。二人は当然のようにお互いの手を取ると草に覆われた丘を歩き始めた。色が変わり始めた空を男は指差す。
「ほら、空が綺麗だ。折角外に出たのだから一回りして行きましょう」
「……貴方には敵わないわ」
「おや、そうだったのですか?」
顔を見合わせて笑う二人の足下を鳥影がなめらかに滑っていく。見上げれば上空には白い鳥が翼を広げ風を切っていた。
沈んでいく太陽に向かって飛んで行く鳥を女は目を細めて見送る。
みるみるうちに小さくなっていくその影は、まるで何処までも自由であるかのように伸びやかな軌跡を残し、黄昏へと消えていったのだ。